えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

リプライ:意識的過程が因果的効力を持たないことはない Nahmias (2014)

Moral Psychology: Free Will and Moral Responsibility (A Bradford Book)

Moral Psychology: Free Will and Moral Responsibility (A Bradford Book)

  • Sinnott-Armstrong, W. ed. (2014) Moral Psychology

同意点
・非両立主義者が自由意志の本質だと考えるもの(行為者因果力/「究極的違い生産者」)は人間には無い
・自然主義
・自由意志は道徳的責任に必要な能力という意味で解されるべき
不同意点
・自由意志に「究極的な違い生産者」は必要なく、科学と素朴な自由意志は両立する(ナーミアス)

  • ナーミアスとしては、自分の実験によってこの主張は支持されていると思う。しかしここではそれには触れず、相手の主張の源泉を診断していきたい。
  • 「究極的な違い生産者」および「独立変項」の概念を再考しよう。B&Pは、究極的な違い生産者とは「宇宙の因果体系における独立変項であり、その系におけるその他の変項の値によって決定されることがない」と定義した。
  • この定義によれば、宇宙が決定論的だとすると独立変項は単純に存在しないことになる。そして、このように厳しいものであるが故にこの定義は使い物にならない。世界のうちの一体何が究極的違い生産者なのかを識別したり論争したりする助けにならないからだ。例えば神経科学者は決定論が真かどうかを知り得ないので、ある特定のニューロン群の発火が個体の行動に究極的な違いをもたらす独立変項なのかどうか識別できない。これは、神経科学の個別の発見を自由意志の問題と無関係にしてしまう。また、このような含意を持つ形而上学的前提を多くの人が立てているとは思えない。
  • またB&Pはナーミアスの実験について、大多数の人はバイパスの誤りを犯していないし、また決定論が自由意志を排除するとは思っていないという点に言及していない。もしB&Pが素朴な自由意志が究極的違い生産者を必要とするというなら、殆どの被験者が決定論の含意について間違っていると論じなくてはならない。
  • こうした理由から、究極的な違い生産者とは「宇宙の因果体系における独立変項であり、その系におけるその他ひとつの変項の値によって決定されることがない」と定義し直そう(これにより独立変項が決定論的体系の中に存在しうるようになる)。
  • これはつまり、「さまざまな因果的入力の各々のどれについても、究極的違い生産者がもたらす結果の原因ではない」ということだ。この意味での究極的違い生産者は、形而上学的に言えば「因果の漏斗」であり、以前の一連の因果的影響を統合して自らの結果を生み出す。このため認識論的にも説明上有用かつ消去不可能であり、介入を行って結果に違いをもたらすことができる。因果連鎖の中における無視できない役割のために世界に違いをもたらすような変項を探求する、科学および日常実践にも合っている。

B&Pの究極的違い生産者モデル     
○ → ○ → ○      
  ↑        
  ●        

Nahmiasの究極的違い生産者モデル(漏斗モデル)
○ →
○ → }● → ○
○ →

ドミノモデル(後述)
○ → ◎ → ○

損傷研究のイメージ

  • 仮に、意識的推論の神経相関物(NCs of CR)が突き止められ、またTMSのような機械によりその部位を一時的にノックアウトできるようになったとしよう。そして、様々な課題を行う最中にその部位をノックアウトされる被験者イブについて考えよう。
  • この手続きによってイブに何の変化も起きないとは考えがたい。しかし、変化が最小限のものであれば(例えば、行動の言語報告のみが変わる)、これはモジュラー随伴現象説への良い証拠になるだろう(それも、近位意図だけでなく意識的熟慮や意思決定、意識的な遠位意図などの一切が因果的効力を持たない「大量モジュラー随伴現象説」になる)。一方で、イブの行動までも変化する場合、大量モジュラー現象説はおそらく偽である。
  • M&H曰く「ナーミアスは、意識的意図が行為に何らかの因果的役割を持てれば、それは自由なものであると言うのに十分だと論じる」。しかしナーミアスは「必要」とは言ったが「十分」とは言っていない。神経科学者がイブのNCs of CRを直接操作して特定の選択をさせても、それは自由とは言えない。また、薬物中毒者が薬物の手に入れ方を意識的に推論するのも、(少なくとも完全には)自由だとは言いたくない。
  • ところがM&Hは、NCs of CRが決定や行為に役割を果たしていようとなかろうと、神経科学は自由意志を脅かすと論じている。何故なのか。彼らは次の2つの可能性を示唆している。
    • (A)意識的過程は「本当は」因果的違い生産者ではない。なぜなら、他の変項(先行する無意識的原因)がその値を決定しているから。
    • (B)意識的過程は「本当は」因果的違い生産者ではない。なぜなら、神経相関物がその値を決定しているから。
  • この両方が間違っていることは元論文の中で論じたはずだが、それはおいておく。(A)に関して言えば、近位意図はドミノ的な因果連鎖を想定させやすい――−4番目のドミノは5番目を倒すとはいえ、それ以前のドミノに決定されているので、違い産出者ではない。同じように、RPが近位意図(のNC)を決定するので、近位意図は違い産出者ではない――−こう考えているのかもしれない。
  • しかしこの描像はNCs of CRにはあてはまりそうにない。というのは、NCs of CRの活動は単にドミノのように因果的力を伝達するのではなく、様々な情報の統合と変換を含むからだ。複雑な問題について考えているとき、NCs of CR が何を出力するかを決定するようなその他の一つの変項はふつう存在しない。
  • またこう述べても、<意識的推論を行う際の神経活動が、先行する出来事の巨大で複雑な集合によって決定されていること>を否定する必要は無い。
  • H&Pの示唆のように「いかなる意図的意図についても、それを直接予測できるような無意識的神経活動に伴われていなければいけない」、などということはない。

バイパスを診断する

  • (B)はどうか。
  • 視知覚に関わる複雑な神経活動には先行する原因があるから、それは視知覚の「本当の原因」ではないなどと言う神経科学者はいない。むしろ、こうした活動はその他の各々の変項によって決定されない独立変項として扱われるだろう。NCs of CR も同じように扱うべきだ。
  • しかしH&Pは言う。「神経科学者は意識的意図が、意識として、行為に因果的役割を果たすことを否定する」。これはどういうことか。一つはH&Pも採用する実体二元論の拒否の表明である。しかしそれ以上に彼らは、心的性質を何か特殊な種類の高次性質とみなすことで、実体二元論的思考を許してしまってはいないか?
  • 意識的性質を、波や生体やニューロンと変わらない高レベルの存在者だと考えれば、それが神経相関物によって実現されているからと言ってそのまま消去する必要は無い。おそらくM&Hは、意識は神経相関物「以上の」因果的力は持たないと考えてるのだろうが、しかしそれを言うのに意識が因果的に無関係だと言う必要は無い。
  • 高次性質の因果的効力は論争中のトピックだが、B&Pもふくめ多くの人が賛成である。実体二元論をとらないのであればNCs of CRを「意識としての意識」と切り離すことは出来ないのであり、NCsが行動を引き起こすことを発見したからといって意識が因果的に無関係ということにはならない。
  • さらに、ナーミアス流の「究極的な違い生産者」に基づけば、なぜ「意識としての意識」が違い産出者であるかが理解できる。多くの高次の心的性質が(少なくとも)、同一個体における少し違う神経活動パターンによって実現されうる、という意味で多重実現可能だとしよう。すると、特定の「他の変項」(神経的実現者)が、こうした高次の心的性質の値を決定するということはなくなる(=高次の心的性質は違い生産者である)。この考えは、まさにこうした高次の変項こそが行動の原因であると言う考えをうまく捉えるとともに、こうした変項を操作して行動や神経相関物を調べる科学的実践とも合致している(Woodward, 2008)。
  • 神経過程が意識を「どのように」実現しているかに関する理論はまだない。そこで神経過程が行動を因果的に決定していると言われれば、意識バイパスされてるよ直観が出てくるのはよくわかる。そして物理主義と決定論の両方を自由意志と責任にとっての脅威だと見なしている人の存在を説明するのは、この直観である(Nahmias, et al., 2007; Murray & Nahmias, 2012)。一方で、単に意識的推論に神経相関物があるという考えを提示された場合には、人はバイパス的な仮定をおかないのである。
  • M&Hは次のジレンマを提示した。
    • (a)意思決定に関する神経科学的発見が、自由意志に対する新しい経験的挑戦を提示する(例えば、大量モジュラー随伴現象説など)
    • もしくは(b)神経科学的発見は単に、非両立主義あるいは(形而上学的)随伴現象説を支持するような古い哲学的議論をはっきり示す
  • しかし、科学者は(a)を論じる中で滑って(b)を結論しがちである。神経科学の発見は哲学の議論には何も付け加えない。そして(a)に焦点を絞るならば、必要なのは意識的推論の神経相関物とその行為における因果的役割の探求なのだ。

操作論法と違い生産

  • 本論の目的はあくまで神経科学的な自由意志懐疑論の論駁だったが、哲学的な話もちょっとしておく。
  • 上述のように、B&Pは大多数の両立論的直観を無視しており、本来はこの直観を説明し去るエラーセオリーを提出する必要がある。
    • ありうる議論:殆どの人は<決定論が究極的違い生産者を許さない>という含意を引き出せておらず、この含意を明らかにする方法の一つが操作論法(see Pareboom, 2001)やデザイン論法(Mele, 2006)である。
      • ある結果Oを伴う行為を行ったある行為者(「プラム」氏)は、両立論者が提出するような条件は全て満たしているのだが、操作者(あるいはデザイン)によってOをもたらすことは因果的に決定されていた。
    • ペレブーム:決定論的世界で同じように行為してOをもたらす行為者(「ブラム」氏)とプラムの間には何の違いもない。そして、プラムが自由意志と責任を欠くという直観は、その行為が「自分の制御の外にたどっていけるような決定論的因果プロセスの帰結である」という事実によって最善に説明される(2001, p16)。
  • これには同意できない。プラムに関する我々の直観の最善の説明は、ブラムと共有しているような特徴によるものではない(see Sripada 2012)。
      • たとえば、プラムは(ナーミアスの意味で)違い生産者ではないがブラムはそうだという違いがある。
      • プラムの世界には操作者という別の変項がおり、こいつの意識的思考こそが結果Oを完全に決定しまた説明する。責任帰属もこの操作者に対する方がふさわしい。一方で、ブラムの世界にはそんな奴はいない。
  • この解釈に反対? じゃあ精確にどの要因が人々に影響するのか実験しよう。内観だけで分かる訳ない。そしてもし操作論法が人々の直観に依拠する必要がないと考えるなら、<我々が非両立論を受け入れている>もしくは<両立論的直感を持つ人は何らかの間違いをしている>ことを示すような決定論の特徴を明らかにすることには殆ど役に立たなくなる。