Noncognitivism in Ethics (New Problems of Philosophy)
- 作者: Mark Schroeder
- 出版社/メーカー: Routledge
- 発売日: 2010/03/09
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- Schroeder, M (2010) Noncognitivism in Ethics (Routledge)
【目次】
3 The Frege-Geach Problem, 1939-70
4 Expressivism
5 Moral Thought
6 The Frege-Geach Problem, 1973-88
7 The Frege-Geach Problem, 1988-2006
8 Truth and Objectivity ←いまここ
9 Epistemology: Wishful Thinking
8.1 真理の問題
・初期の表出主義者は、表出主義とは道徳的言明は真理値を持たないという見解だと自己規定した。しかし、真理に関する問題を取り扱うのには三つのポイントがある。
・我々は実際に道徳文を真だとか偽だとか言う
・道徳的真理がなければ、道徳的に悪いということがなく、道徳に関しては「なんでもあり」だといっているように聞こえる
・重要な意味論的性質「妥当性」は普通、真理の観点から定義される
・〔初期表出主義者の自己規定に反して、〕真理条件意味論と非認知主義的な理論の違いは、道徳的文の真理に関する論争である必要はなくて、<道徳的文の真理がどのくらいの働きをするか>に関する論争として理解することができる。
8.2 対応説 対 デフレ主義
対応説
真理に関する代表的な説の一つは<対応説>。対応説によれば、世界を描写しない文は真理値を持たない。(「盗みブー!」とか「やあボブ」とかは×)
非認知主義者は道徳文は世界を描写するものだと考えないので、真理の理論として対応説を採用すると、道徳文は真理値を持たないことになる
デフレ主義
・そこでデフレ主義。デフレ主義の基本的発想は<「真」とは我々が何かに同意するときに使う語である>というもの
我々が「真」とか「偽」とか言う言葉を持っているのは、自分が(不)同意していることをもう一回繰り返して述べなおさなくても良くなるため
・真理の理論としてデフレ主義を採用すれば、非認知主義をとっても道徳文が真であると考えることが可能になる。自分が同意する道徳的主張を「真」と言えばよい。ある道徳的主張に対していかなる見解も持っていない人にとっては、その文には真でも偽でもない。
・ただし、より強いデフレ主義者は、道徳文は真か偽のどちらかであることを示そうとする。
8.3 デフレ主義と真理適合性
真理適合性
・「盗みブー!」が真でも偽でもあり得ないとする点で対応説は明らかに正しい。
・一見するとデフレ主義者は、<「××は真」と言うこと>は結局<「××」と言うこと>と等しいと主張するように見える。
(なので、あなたが「盗みは悪い」という気があるかによって、「盗みが悪いということは真である」は真になったり偽になったりする)
・しかし、こう主張することで、<「盗みブー!」と言うことが真や偽でありうる>とまで言ってしまうとこれは言いすぎである
⇒「Pは真」と「P」と同様に受容できるような文はどういうものなのか、デフレ主義者は説明できなくてはならない。
=<どの文が真理適合的か>の説明を与えよという問題
・真理適合性の問題はあらゆるデフレ主義者に生ずる。しかし非認知主義者は、道徳文の持つの意味を、「盗みブー!」のような真理値を持ちえない文との類似で説明する傾向がある(特に初期認知主義者)ので
・何故「盗みは悪い」は真理適合的で「盗みブー!」はそうでないのかを説明するだけでなく、さらに、
・二つの文が同じ種の意味を持つにもかかわらず何故そうなのかをも説明する必要がある。
統語による説明
問い:真理適合的であるのはどのような文か
答え:「it is true that P」が文法的に正しい場合
(「盗みは悪いということは真である」/*「盗みブー!ということは真である」/*「やあボブということは真である」)
・そもそも文法しか見ないので、<二つの文が同じ種の意味をもつにもかかわらず>という上の制限はうまく満たされる
・しかしこの見解によると、<文法を変えてしまえば真理適合的でない文も真理適合的な文になる>ということになってしまう。
例)「ハイヨー」なる述語を導入し、「ボブはハイヨーだ」は「やあボブ」とまったく同じ使い方をすると取り決める。すると「ボブはハイヨーだということは真である」は真理適合的になり、ボブにあいさつする気があるか否かに応じて真や偽になる
→本当にそれでいいのか?
・しかも、「もしボブがハイヨーなら、私は出ていく」「ハイヨーでないすべての人は退屈している」等の文は文法的に完全に正しく真理適合性を持つが、「ボブはハイヨー」の意味を理解したとしてさえ、これらの文が何を意味してるのかはさっぱりわからない。
⇒やはり意味論的制約を加えたほうがよさそうだ
意味による説明
ギバードのアイデア:文の中には、賛成したり反対したりできる心的状態を表出するのではないものがある。こうした文は真理適合的ではない。
・「ボブはハイヨー」が真理適合的でないのは、そもそも挨拶には賛成したり反対したりできないため
・そして「盗みは悪い」が真理適合的で「盗みブー!」がそうではないのは、前者は賛成/反対できる心的状態を表出するが後者はそうではないためだと説明される
・この説明を行うためには、<道徳的思考に賛成・反対できるのはなぜか>を説明する必要があるが、ギバードはこれを<計画という心的状態>だと特定した(Chap. 5)。
・この説明を行うためには、〔意味:2つの文が表出する態度が違うと言わなければならないので、〕「盗みは悪い」と「盗みブー!」はまさしく同じ種の意味を持つという初期非認知主義の見解を排除しなくてはならない。だが、ギバードは表出主義者なのでこの二つが同じ意味だとか言わない(Chap. 3)。
8.4 表出主義者のデフレ主義
相互置き換え可能性
・「真」は<同意>に使う語だという(表出主義的)デフレ主義のアイデアは、<不同意セット>という道具立てによってうまく説明できる。つまり……
・|[Pということは真]|=|[P]|
・|[Pということは偽]|=|[¬P]|
→複雑文で表出される心的状態の不同意集合は、その部分が表出する心的状態の不同意集合の関数だということを考えれば、つぎの相互置き換え可能性が担保される。
【相互置き換え可能性】
一部に「P」を含む文「A」と、その「P」を「Pということは真」にいれかえた文「B」の任意のペアに関して、
または、一部に「¬P」を含む文「A」とその「¬P」を「P」ということは偽」にいれかえた文「B」の任意のペアに関して、
|[A]|=|[B]|
超越論的論証
【なぜ道徳文は真か偽かのどちらかなのか】
・相互置き換え可能性から、[盗みは悪いは偽 かつ 盗みは悪いは偽ではない] は [盗みは悪くない かつ 盗みは悪くなくない] と同じ不同意集合を持つことが帰結する。
・[盗みは悪くない かつ 盗みは悪くなくない] は合理性の観点で不整合 = 盗みが悪いということが真でも偽でもないと考えるのは不整合
→唯一整合的な見解は、盗みは悪ということは真か偽かどちらかだと考えること
→なのでそう考えたほうが良い
→なのでこう言ってよい:盗みは悪ということは真か偽かどちらかである
表出主義者は<盗みは悪ということは真か偽かどちらかである〔P〕>ことを直接は示さない。
そうではなくて、<Pと考えざるをえない>ということを示し、そこから超越論的に転回して、Pであると主張する。
【なぜモポは<真理の保存という普通の意味で妥当>なのか】
<普通の説明>
「もし」の真理値 → モポの妥当性(真理の保存) → 不整合性質
<非認知主義者の超越論的な説明>
モポは不整合性質をもつと考えざるを得ない ―超越論的転回→ モポは真理を保存している(妥当性を持つのである)
・神を信じるがマルブランシュは信じない(神が因果関係の説明に何らかの役割を持つとは考えない)神学者のように、非認知主義者は道徳文の真理を認めるが<それが複雑文の説明に何らかの役割を持つ>とは考えない
8.5 もっと! 超越論的論証
・超越論的論証は、なぜ唯一合理的な道が結論を受け入れることかを示すが、なぜ結論が真なのかを解明するわけではない。
・というのも、超越論的論証で出てくる結論は<論理的真理>に似ている
・表出主義によると、「¬(P&¬P)」は、「¬」「&」の意味によって合理的に否定できない。そしてこの<合理的に否定できないということ>がこの文を論理的真理にしている
・同様に、モポは、「¬」「→」「〜は真である」の意味によって合理的に否定できない。アナロジーにより、これは分析的真理>なのだと言える。
・ギバードは道徳的なものの非道徳的なものへのSVをも超越論的論証によって示そうとした。(詳細は割愛)
8.6 客観性
客観性についての問答
・非認知主義は道徳に関して「なんでもあり」にしてしまうのでは?
→以上の議論によって、<ある道徳的主張に対して自分の態度が決まっていなくても>、ことの真相はどちらかであると認めざるをないことが示された。道徳的主張は偽でありうるのであり、なんでもありではない。
・でも正しさと悪さは我々の態度に依存してるよね?
→混乱している。非認知主義者は道徳文の意味を欲求的な態度によって説明するが、非道徳文の意味も普通の記述的信念によって説明する。だから良さや悪さが、正方形やアルミニウム以上に我々の態度に依存しているわけではまったくない。
・でもでも、意味論的観点から言うと「盗みは悪い」と「盗みは悪くない」は〔どちらも欲求的態度に依存している点で〕同等で、「草は緑い」のような普通の記述的信念の場合には世界からの寄与によって非対称性が生まれるけど、それもない。だから、道徳的思考の内部では正しい答があるかもだけど、外部から見ればどの答えも同じくらい適当だということになるよね?
→いや、でも何が正しいかに関する答えが存在することは否定できないんだってば
・でもでもでも……
⇒道徳的な観点の内部では正しい答の存在を合理的に否定できないことを確定できるが、その答えがなんなのかは確定できないようにみえる
超越論的論証
・超越論的論証の面白い点は以下のようなもの
・表出主義的意味論はどの文が真・偽なのかを<直接>示すことができないが、それでも合理的に否定できないと明らかになる文がある。
・従って、こうした文(論理的真理)に関しては、対称的に扱っているわけではまったくない
→ここまでの超越論的論証は実践的な道徳的主張に関しては何も言っていない。しかし少数の哲学者は、超越論的な論証を使って、もっと実質的主張を否定できないものとして示すことができると野心的にも考えている(例:(少なくともヘアの読みによるカント、コースガードなど)
・非認知主義者でもこうした見解に与しない者は、意味論の観点からは「盗みは悪い」と「盗みは悪くない」を区別できないと認めるほかないと思われる。この場合、盗みが悪いか否かを決定する唯一の道は、道徳的観点から考えることであって、語の意味に関するメタ倫理的な探求は答えを与えてくれない。