http://quod.lib.umich.edu/cgi/t/text/text-idx?c=spobooks;idno=6782337.0001.001The Possibility of Practical Reason
- 作者: J. David Velleman
- 出版社/メーカー: Oxford Univ Pr
- 発売日: 2000/12/28
- メディア: ハードカバー
- この商品を含むブログ (1件) を見る
- Velleman, D. (2000). The Possibility of Practical Reason (Oxford University Press)
2. Epistemic Freedom
5. The Guise of the Good ←いまここ
6. What Happens When Someone Acts?
- 行為の哲学における行為者は、行為(の結果)を欲求しない限り行為しない。欲求は(肯定的)価値判断なしに成立しないとされるので、全ての意図的行為は「善の相の下で」みた結果に向けられている。
- この論文では、【A】この見解が出てくる理由を検討した後、【B〜E】この見解に反論し、実践理性を価値追求能力として考えるのは誤りだと論じる。
【A:「動機の物語」と「理性の導きの物語」】
[1]
- 行為が欲求と信念から生じるとする「動機の物語」と行為者は理由によって行為するという「理性の導きの物語」には乖離がある。
- 理性の導きは推論に比するもので、命題が内在的に持つ正当化力が信念(か何かの心的アクセス)を通じて行為を導く(帰結させる)のでなくてはならない。しかしながら、欲求は命題内容に関係なく動機づける。
[2]
- 哲学者はこの乖離を調停しようとしてきた
- 例:非認知主義者……時間を知りたいという欲求を前提の上で、「時計を見れば時間がわかる」という命題が理由となる。
- 命題が内在的に行為を正当化することを否定「。理性の導きの物語」を「動機の物語」へ回収。
- この説明は、理性による導きの常識的理解からズレている。
- 常識的には、理由は正当だから動機づけるのであり、逆ではない。
- 例:非認知主義者……時間を知りたいという欲求を前提の上で、「時計を見れば時間がわかる」という命題が理由となる。
[3]
- これに対し一部の哲学者は、動機を認知主義的に理解し、「動機の物語」を「理性の導きの物語」に回収する(e.g. Davidson, “Intending”)。
- 時間を知ることを欲する行為者は、「時間を知ること」に賛成的な態度を取っているのではなく、「時間を知ることはよいことだろう」という賛成的表象を認知的に把握している。
[4]
- かくして、欲求は内在的な正当化力をもつ価値判断だと理解され、行為者を動機づける欲求が行為者を導く理由と同一視される。
- しかし、評価概念を持たない子供でも欲求を持つ
- デイヴィドソンが、欲求が評価命題をとるとは言わず、評価は「欲求の自然な表現」だと言うのはこのためかもしれない。
- しかしこの言い方では、自然な表現を知らない行為者でも欲求に動機づけられることは可能なので、「理性により導かれるには命題に対する心的アクセスが必要」という要件に抵触する。
- デイヴィドソンが、欲求が評価命題をとるとは言わず、評価は「欲求の自然な表現」だと言うのはこのためかもしれない。
- しかし、評価概念を持たない子供でも欲求を持つ
- とはいえ、「適合方向」に着目したより洗練された認知主義が考えられる
[5]
- 適合方向:信念のばあい命題内容はfacta(もたらされたもの)であり、欲求のばあいはfacienda(もたらされるべきもの)だとされている。
- ここで、欲求には価値判断が含まれると言う時の「価値判断」とは、「命題pをもたらされるべきもの(=善)とみなすこと」なのだと理解することができる。
- ただし、「pを善とみなすこと」が「”p is good”を内容とする判断」に存するとは考えられない。無限後退する。〔判断p is goodが価値判断であるために、判断”p is good” is goodが必要になる〕
- つまり、「善とみなす」という表現が、態度動詞「みなす」と述語形容詞「善」から成るからといって、この述語を含む命題を対象とする態度が導入されると考えてはならない。欲求pは、「善としてのp」に向けられた態度だと分析すべき。
- 命題的態度は、命題内容と「その命題がどうみなされているか=適合方向」から構成される。
- この時、欲求の正当化力は命題内容ではなく、構成的な述語「善」で表現される適合方向と命題内容の組み合わせに宿る。
- そして行為者は両者にアクセスできると想定できる。
- この時、欲求の正当化力は命題内容ではなく、構成的な述語「善」で表現される適合方向と命題内容の組み合わせに宿る。
- 命題的態度は、命題内容と「その命題がどうみなされているか=適合方向」から構成される。
- 【まとめ:改訂版認知主義】
- 欲求は何かを「善とみなすこと」から構成されている。この「善とみなす」というのは欲求の「適合方向」を表しており、これに導かれることは欲求の価値的側面に導かれることなので、欲求はアクセス可能な正当化力を持つと言える。従って、欲求に動機づけられる行為者は理由に従って行為している。
【B:「善」という構成的述語は正当化力を持たない】
[6]
- 以下では、上のような〔適合方向という〕意味での「善とみなすこと」は、実際のところ価値判断を下すことではないと論じ、従って認知主義者の解釈する欲求は正当化力を欠くと示す。
- これは、「欲求が理由を与えることはない」という批判ではない。認知主義は、欲求に動機づけられることは理由に従って行為することなのだという〔より強い〕主張をしている。
- 〔欲求が理由を与える仕方としては、〕欲求を持つことで、例えば命題「私は欲求pを持つ」が真になり、このことが(命題への心的アクセスの有無にかかわらず)特定の行為が客観的に正当化される、と言うものが考えられる。ここで批判したいのは、「欲求は、正当化力を持つ評価的態度を構成するので、主観的に行為を正当化する」という見解である。
[7]
- さて、欲求を構成し、正当化力が宿るとされる〔適合方向を表す〕述語が、「善」や「望ましい」といった評価語だと考えられているのは何故なのだろうか。
- 心的状態にとって外的な記述を、心理の記述と混同しているからではないか?
- 確かにXを欲求することは、〔外から見れば〕「Xが〔本当に〕善ならば適切だろう仕方でXへと向かう傾向性を持つ」ことだ。そしてこのことを、「Xを欲求する人は「Xを善とみなしている」」、と記述することは可能ではある。
- しかし、「Xが〔本当に〕善ならばその態度が適切だろうということ」はその欲求にとって外的な事実であり、その欲求を持つことでアクセス可能になるものではない。従ってこの記述が欲求の心理的側面を表現するものとは〔かぎらない〕。
- 同様に、Xを欲求する人はたしかに「Xを魅力的だとしている」[find it attractive] が、この記述はその人が魅力にかんする判断を下していることを必ずしも含意しない。行為者はただXに魅きつけられ、Xに魅力があることの指標となるような経験をしているだけなのかもしれない。
- 「to find」に述語がつくからと言って、その述語が態度の内容を表現している訳では必ずしもない。
- また、「attractive」や「desirable」には規範的な意味とそうでない意味があるので、二重の注意が必要になる。
- 「Xを欲求すること」は、「Xがよく欲せられることの指標となるような経験」(非規範的・非判断的)の存在を含意するかもしれない。しかしこの経験は、「Xがよく欲せられるという判断」(非規範的・判断的)や、まして「Xが望ましいという判断」(規範的・判断的)を持つことではない。
【C:構成的述語と構成的目標】
[8]
- 「善とみなす」という表現は、適合方向を記述するだけなら無害だ。しかし不幸にも、「欲求が価値判断の正当化力をもつ」ことが含意されてしまう。
- その結果生じる混乱を理解するには、信念の正当化力を真理判断の正当化力とみなす誤解との類比を考えるとよい。
- 信念は真理判断であり、真理判断は命題を「真とみなすこと」を含むので、信念は真理判断の正当化力を帯びる、という考えは誤りである.
- 仮定や想像も信念と同じ適合方向をもつ(=命題を「真とみなすこと」を含む)が、真理判断も含まれなければ正当化力もないからだ。
- 信念・仮定・想像において命題内容はfacta(もたらされたもの=規定の条件)であり、facienda(もたらされるべきもの=指示を与える条件)ではない。これが認知的な適合方向を持つということであ〔り、それ以上の(正当化力を持つ)ものではない〕。
- 「適合方向」は、「対応の責任は命題と世界どちらにあるか」という点から理解されてきた。しかしこれは認知的/意欲的の区別を捉えていない。議論のための前提が世界と対応しなくとも、どちらかに非がある訳ではないからだ。
[9]
- 何かを「真とみなす」態度の全てが、その何かが真となることを成功基準としている訳ではない。態度の成功基準について別の提案をしたい。
- 命題を「真とみなす」とは、その命題を(本当に真か偽かにはとりあえずかかわり無く)「受け入れる」ということだ。
- 想像や仮定の場合、議論や発見を促進させるような形で、命題は受容される。真理は関係ない。
- 信念の場合、真理を正しく捉えるような形で、命題は受容される。
- つまり信念や仮定は二層をもつ態度なのだ。真偽によらず命題を受容するという共通の一階の態度があるが、どのような意図でその受容を行うか、という二階の態度が異なる。
- 従って、信念は真理を己の「構成的述語」とするのみならず、「構成的目標」ともしている。「信念は真理を目指す」。
- つまり信念や仮定は二層をもつ態度なのだ。真偽によらず命題を受容するという共通の一階の態度があるが、どのような意図でその受容を行うか、という二階の態度が異なる。
[10]
- 「真理を正しく捉える」という構成的目標をもつことで、信念が命題の真理性に対する判断であること、そして(主観的な)正当化力を持つことが可能になっている。
【D:欲求の構成的目標は信念のそれと対応していない】
[11]
- 信念が真理を狙うと考える人は、同じように欲求は善を狙うと誤って考えがちであった。もしこのような類似があるとするとどうだろうか。
- 意欲的な適合方向を持つ態度は、命題に「賛同する」仕方に違いがあり、信念が本当のfactの追跡を狙うのと同様、欲求は本当の「facienda=もたらされるべきもの」の追跡を狙う、と考えてみる。
- 欲求pは、「pに賛同すること」=「pをもたらされるべきものだとみなす」ことを含むが、本当にそうされるべきかを見据えつつそうしている。
- 意欲的な適合方向を持つ態度は、命題に「賛同する」仕方に違いがあり、信念が本当のfactの追跡を狙うのと同様、欲求は本当の「facienda=もたらされるべきもの」の追跡を狙う、と考えてみる。
- このように解釈された欲求は正当化力をもつだろう。この見解は、「何かを欲求するとはそれを望ましいとみなすことだ」としたデイヴィドソンによる理性の導きの説明に接近している。
[12]
- しかし欲求は本当にこのような構成的目標をもつのだろうか。
- 欲求を他の態度から分ける構成的目標は、達成可能性だと考えられる。
- 人は、不可能だとおもわれるもの、既に生じたともわれるものを欲求することができない。
- 不可能なものに賛同すること自体はできる(例:願望)のだから、いま障壁となっているのは欲求が達成可能性を構成的目標とすることだと考えられる。
- 「本当に望ましいもの」を構成的目標とする説明では、この障壁を説明できない、
- 人は、不可能だとおもわれるもの、既に生じたともわれるものを欲求することができない。
- 従って、欲求には行為正当化力は無い
- Xを欲求することは、「もたらされるべきこと」(=単なる適合方向を表す)という意味ではXを善とみなすことを含む。しかしそれはXが「本当にもたらされるべきこと」なのかについて正しくあろうとする試みではない。従って欲求はXの良さについての判断ではない。
- 欲求を他の態度から分ける構成的目標は、達成可能性だと考えられる。
[13]
- また欲求が善を目指していないことは、邪悪な欲求の存在を説明する。もし目指しているなら、価値がない、悪いものをまさにその記述の下で欲することが可能である(Stocker 1979)ことが説明できない。
- 逆に、信念は真理を目指しているので、それ自身が矛盾しているような命題を信じることができない。
[14]
- なお欲求は善を目指すと考えたため、認知主義者は「悪よ、私の善となれ」と言った『失楽園』のサタンですら本当になすべきことを狙っていることにせざるをえなくなっている(Anscombe)。どんなサタンだ。
【E:まとめ】
[15]
- アンスコムは適合方向を「目録」と「買い物リスト」で説明した
- この比喩は、目録と買い物リスト内部の多様性を無視している。目録・リストには多様な目的がある。あるはずのもの目録(チェックリスト)や、ウィッシュリストが存在する。
- その中で、在庫/買うべきものに関する結論を引き出すのを正当化する力を持つのは、事柄を正しく捉える目的で項目が配置・制御されているリストだけである。
- この比喩は、目録と買い物リスト内部の多様性を無視している。目録・リストには多様な目的がある。あるはずのもの目録(チェックリスト)や、ウィッシュリストが存在する。
[16]
- 認知主義者は、「何かを欲求することはそれを善とみなすことを含む」ということの意味を誤解している。
- 以上の議論が示したのは〔a〕「欲求が価値判断の正当化力を欠く」ということであった。理由を構成する他の要素はそれを持つかもしれない。
- しかし、上で見た「欲求は邪悪でありうること」を「欲求が善を目指していないこと」から説明する議論は、理由にも拡張できる。理由も邪悪でありうる。
- 人は、それが悪いことだという理由から行為をなすことができるため、〔b〕そもそも行為正当化力が行為に賛同する価値評価に依存することはありえない。
- 全てに価値がなく、建設的な行為をするのは不条理だと感じる絶望状態の中でさえ我々は一定の行為をする。しかしその時、そうした行為を良い・望ましいとみなしているのかというと全くそんなことはない。むしろ、それが悪いからこそやるのである。
- 絶望的気分の中にあっても、まさにこの気分においてmake senseするものに導かれる能力はある。この気分の中ではまさしく、悪いことを行うことがmake senseすることなのだ。
- 人は、それが悪いことだという理由から行為をなすことができるため、〔b〕そもそも行為正当化力が行為に賛同する価値評価に依存することはありえない。
- もし全ての行為の理由が行為を良いものとして提示するようなものであるならば、以上のような例は説明できない。
- しかし、上で見た「欲求は邪悪でありうること」を「欲求が善を目指していないこと」から説明する議論は、理由にも拡張できる。理由も邪悪でありうる。
[17]
- 以上が正しいなら、〔a〕欲求には行為の理由となるための評価的力はなく、またいずれにせよ〔b〕理由の正当化力は評価的なものではない。このため、理由に従った行為が善の相のもとで行われる必要はなくなる。