えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

道徳的観察の問題 ハーマン (1977=1978)

哲学的倫理学叙説―道徳の“本性”の“自然”主義的解明

哲学的倫理学叙説―道徳の“本性”の“自然”主義的解明

  • 作者: ギルバートハーマン,大庭健,宇佐美公生
  • 出版社/メーカー: 産業図書
  • 発売日: 1988/11
  • メディア: 単行本
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  • ハーマン, G. (1977=1978) 『哲学的倫理学序説』(大庭・宇佐美訳 産業図書)

I 倫理学にまつわる問題 ←いまここ
II 情動主義

第1章 倫理学と観察

1 基本的な論点

・道徳原理は、科学の諸原理のようにテストしたり確証したりできるようなものか?
・科学の仮説は、思考実験でも、現実の世界の中でもテストされうる。道徳に関して後者はどうか。行為の正邪を観察するということはあるか?
・我々は意識的推論なしに、行為の悪さを見て取ることができる。しかしそれは、見られたものの<現実の悪さ>によるのか、それとも、道徳「感覚」の反映に過ぎないのだろうか? 

2 観察

・観察は理論負荷的である。というのは、知覚は直接的な結果として信念形成を伴うが、信念形成には概念の使用が不可欠だからである。
・したがって、道徳的概念を持つ者にとっては、道徳的観察なるものがありうる。

3 観察による証拠

・では何が道徳の場合と科学の場合で違うのか。
・科学的観察の場合、観察の生起を説明するのに、世界に関して仮説を立てるのが理にかなっている。「観察がなされたということを説明するために、観察者の真理に関する仮説に加えて、現実世界について何事かを仮説することが理に叶っているからこそ、彼の行った観察が理論を支えることになるのである。」
・一方で道徳的観察の生起を説明するのに、道徳的事実に関する仮定を立てるのには何の意味もないように見える。一定の道徳原理を持っており、それが道徳的感受性に基づいた道徳判断に反映されていると仮定するだけで、道徳的観察の生起は十分説明できてしまうように思われる。この意味で、道徳原理は観察によって全くテストされない。道徳原理は観察の説明に何の役割も持たないからである。

4 倫理学と数学

・我々は数を知覚しない、できない。この点で、道徳原理は数学的原理に似ていると考えるべきである。
・しかし、科学的観察を説明する際に、科学者は一般に数学の原理に訴えるという点で、数学に対しては間接的な観察上の証拠が存在すると言える。この点で数学と倫理学は異なる。

⇒以上のような<倫理学は科学のような観察によるテストから切断されているという>一見明白な事実に対する応答の可能性を考えて行く。ハーマンは見かけに反して道徳原理は観察によるテストを免れないと考える。

第2章 ニヒリズムと自然主義

1 道徳的ニヒリズム

・道徳的事実は一見したところ観察を説明する役に立たない。これはニヒリズムに対する一つの論拠になる。
・ニヒリズムとは、道徳的事実や真理、知識は存在しないとする学説である
【極端なニヒリズム】いかなるものも良かったり悪かったりすることはない。道徳判断は宗教的迷信のようなもので廃棄すべき。
【穏当なニヒリズム】道徳的判断の目的は、世界を記述することではなく、我々の道徳感情を表現したり、自分や他人に対する命法として働くというところにある
・いずれも、我々の日常的な考えとは正反対の主張である。ハーマンとしては、日常の見方を放棄せず、しかもニヒリズムを容認することなく、倫理と観察をめぐる問題を調停できるか考えたい。

2 還元

・仮に道徳的事実に関する仮説が直接には観察の説明に役に立たないとしても、道徳的事実が別種の事実へと還元でき、その事実に関する仮説が観察の説明に役立つという可能性がある。この場合、道徳的事実に関する仮説に対する証拠が存在することになるだろう。

3倫理的自然主義:機能主義

・評価的事実には、機能や利害関心役割にまつわる事実に還元できるものがある(「良く切れるナイフは良いナイフ」)
・この種の分析を倫理に適応してはどうか? →しかし、とりわけ道徳の場面では、道徳的事実が観察の説明に役立つ事実とどう関係するのか甚だ不明瞭である
・これは、<関係する利害関心の基準が曖昧だ>という話であって、問題が<事実の問題でない>ということではない。然るべき役割・利害関心・機能を曖昧にしか特定できないかもしれないが、それでも道徳的事実は、観察を説明できるような事実から構成できるかもしれない
→こうした見解は「道徳的事実とは自然の事実である」という倫理的自然主義の擁護につながる。
・自然主義とは「あらゆる事実は自然の事実である」とする良識的な見解である。ただし、一般的な自然主義をとりつつ、倫理的ンは自然主義をとらない=ニヒリストになることもできる。自然主義者は倫理的にも自然主義者か、ニヒリストかのどちらかである。
・関連する機能・役割・利害関心が曖昧にしか特定できない以上、機能主義的な分析の評価はおぼつかず、ニヒリズムの可能性は依然として残っている。

4 未決問題論法

・ただし、一方のニヒリズムを擁護する一般的議論も説得的ではない。
・穏健なニヒリストは、倫理的自然主義が成り立たないことを開かれた問い論法で示すことができると考えている:「PがDを遂行するということは、PがCという特徴を持った行為を行うことである、ということには私も同意する〔記述〕。しかしPはDをなすべきなのだろうか〔承認〕?」
・開かれた問い論法が有効なのは、穏健なニヒリストによれば、<行為を記述したからといって、直ちにその行為を承認したことにはならない>からである。
・しかしこの論法は、上記の問いが<いつでも>開かれているということを明らかにしないかぎり、単なる論点回避である。
・実際、開かれたとい論法はそのままでは妥当ではない。例えば水とH2Oに関して同様の論法を用いることで、水がH2Oであるということは開かれた問題だと示すことはできるかもしれない。しかしこの論法では水はH2O<ではない>ということを示すことはできない。同じように、<ある行為をなすべきだ>ということは<その行為がCという自然的性質を持つこと>とは<違うのだ>とは言えない。

5 再定義的自然主義

・我々が使う道徳術語は漠然としているので、より正確なもの(例えば功利主義の術語)と取り換えた方が良いという主張もありうる(再定義的自然主義)。
・しかし幾つか難点がある。まず、普通の道徳概念が混乱しているというのはきちんと明らかにされるべき主張である。あらゆる術語が定義できるわけではない。
・<人のなすべきこと>について語る代わりに功利主義の術語を導入するということは、これは結局極端なニヒリズムを採用していたことになる。

6 倫理学はなぜ蓋然的か

【ここまでの論点】
・道徳原理が観察の説明に役立つようには見えない →道徳的事実・真理・知識なるものはあるのか?
・あるとすると、道徳的事実がなんらかの仕方で、観察の説明に役立つような事実へと還元できる場合である(倫理的自然主義)。
・道徳的事実は利害関心や役割、機能の事実に還元できるかもしれない。ただし、その還元は複雑で、あいまいかつ特定困難なものにとどまるだろう。
・例えば色に関する事実がどう還元されるかを正確には知らないが、色についての事実は存在すると考えることを厭わない。実際の場面では色彩の知覚を説明する際に「色に関する事実がある」と仮定するからである。しかし、道徳的事実の方は、精確な還元ができるように見えないうえ、実際に観察を説明する場合においてもその事実が役立つようには見えない。
→道徳的事実があると想定する理由があるかどうかは、依然として問題含みのままである