https://link.springer.com/article/10.1007/s10892-020-09339-x
- François Jaquet (2020) Utilitarianism for the Error Theorist, Journal of Ethics,
近年、道徳的命題に関する錯誤理論が人気を集めている。近年の錯誤理論は次のように主張する。すべての基礎的な道徳的命題は、対応する定言的な理由の存在を含意する。しかしすべての理由は仮言的である。従って、それら命題はすべて偽である。
錯誤理論は、いわゆる「どうすればいいの問題(now-what problem)」(Lutz 2014)を提起する。つまり錯誤理論が正しいとして、私たちの道徳実践はどのようにすればいいのだろうか。これに対する既存の回答は5種類に分けられる
- 1. 廃絶論: 道徳的信念はすべて廃絶すべき
- Hinckfuss 1987, Garner 2007, Ingram 2015
- 2. 保存論:道徳的信念を持ち続けるべき
- Olson 2014
- 3. 虚構主義的改定論:道徳的信念は、信じるフリ(make-believe)などの虚構的態度に置き換えられるべき
- Joyce 2001
- 4. 自然主義的改定論:道徳的信念は、(例えば苦痛の量などについての)事実的信念に置き換えられるべき
- Husi 2014, Lutz 2014, Kalf 2018
- 5. 表出主義的改定論:道徳的信念は、賛成・反対などの意欲的態度に置き換えられるべき
- Svoboda 2017
このうち本論では、廃絶論は誤りだと仮定する。道徳には、利害対立を解決し協調を導くなど重要だと思われる機能があるため、これを廃絶するべきではない。
いずれにせよ、「どうすればいいの問題」に対する既存の回答がかかわるのは、信念をどういう態度に置き換えるべきかという態度の種類の問題であった。これに対して、何を信じるフリをすべきかとか、何に賛成すべきかといった問題、すなわち態度の内容面に関する議論はなされてこなかった。
態度の内容となるのは、錯誤理論に基づけば、〔真であったり偽であったりする〕道徳理論ではなく、道徳物語である。この点について、私たちは態度の内容として功利主義の物語を採用すべだ。その根拠となるのは契約である。原初状態にある契約者は、全体としての期待幸福を最大化させる物語を選ぶだろう。
契約によって功利主義が選ばれるという議論には、すでにロールズが反論していた。ロールズによると、原初状態にある契約者は、それぞれの立場に置かれうる確率が等しいという知識を持たない。このため合理的な不確実性回避によって、契約される内容は全体の幸福を最大化する功利主義ではなく、格差原理に基づくものになる。
ロールズが設定する原初状態における知識のありかたは、自身の立場に有利になるように先取りされており問題があるという批判もある(Hare 1989)。しかしよりチャリタブルに考えることもできる。功利主義は様々な反直観的な帰結を持つため、反省的均衡の中で原初状態が調整されることによって、ロールズが想定するようなものになるのだ、と。
しかしながら、ロールズの反論は錯誤理論を前提としている現在の状況には当てはまらない。そのため、原初状態における知識に制約を加えて功利主義導出を防ぐことはできない。というのも、「確かに、道徳的真理が問題になるかぎり、反省的均衡を求めるのは理に適っている。道徳的真理があるならば、直観を信用するべきである。実在の中で道徳に関連する側面について、私達が唯一持っているアクセス口は、直観だからだ。しかし現在の文脈では、私たちは道徳的真理を追求しているのではない。そんなものはないという仮定のものとで議論しているのだ。そしてこの仮定の下では、道徳直観は一様に欺瞞的である。それは私たちに、倫理的な規範や価値に満ちた実在を提示する。しかし、私たちの世界は道徳なき世界なのだ」。
ところで、契約状況下で、契約者は全員同一の物語を選ばなければならないのだろうか(「単一制約」)。そう考えるべき理由は、道徳が問題解決に役立つという上記の点に求められる。この利点は、物語が単一でない場合には大きく失われてしまうだろう。道徳物語が複数ある状況では、自身の物語を信じるフリをし続けるのは難しく、廃絶論に滑り落ちてしまう可能性が高い。また複数の道徳物語がある状況では、人は異なる意味の言葉を喋ることになり、道徳言語を用いることで問題解決や協調を促進することも難しくなる。
錯誤理論は、規範倫理上のあらゆる見解を等しく無効化してしまうという悲観論が表明されることがある(Shafer-Landau 2005)。しかし、錯誤理論擁護者が功利主義を支持するのは理に適っているのである。