- 作者: ミシェル・フーコー,斎藤環〔解説〕,神谷美恵子
- 出版社/メーカー: みすず書房
- 発売日: 2011/11/10
- メディア: 単行本
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- フーコー, M. (1963) [1969/2011] 『臨床医学の誕生』 (神谷美恵子訳 みすず書房)
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第十章 熱病の問題 / 結論
- この本は、ことば〔ランガージュ〕、空間、死、まなざしに関する本である。
- Pomme, 1769, 「水浸しにした羊皮紙の断片のような、粘膜のきれはしが……軽い痛みを伴って剥離し、毎日、尿とともに排泄された。次には右側輸尿管がはがれおち、同じ道を通って、そっくりそのまま出てきた。」
- Bayle, 1825, 「薄い偽膜は義膜性で、卵白の蛋白を含んだ薄皮に似ており、はっきりした固有の構造を持っていない。他の偽膜はその表面にしばしば血管の痕跡をとどめており、それらの血管は、いろいろな方向に向かって交互に交差し、充血している。」
- 記述の精密さが支えるベールの文章の可視性に比べ、ポンムの文章は知覚の支えの無い幻想的なものに、我々にはみえる。18世紀の医者は自分が見ているものが見えなかった。これほど明らかな差を作ったのは、どういう根本経験なのだろうか?
- 「実証」医学は、「対象を」選択し〔なおす〕ことで客観性を達成したのではない。医師(知識)と患者(痛み)を繋いでいた諸々の幻想的な特徴は、「主観的な=患者の」症状の領域に移し替えられた。この領域は医者の実証的まなざしによって対象化されるものの世界である。だからポンムとベールの間で変化したのは、語るものと語られるものとの間の状況と態度の関係であり、これはランガージュの支えとなるものだ。
- 使われていることば〔ランガージュ〕に関しては、医学は質的に豊かな言語を徐々に発展させてきたのであり、ベールの言説の方が事物に即していて繊細だとか合理的だとか言うのはポイントではない。
- むしろ、ランガージュの起源にあって、「もの」と「言葉」(mot)が分離していない領域に目を向けるべきだ。知覚されたものが語られる際のその構造、病的現象が根本的に「空間化」・「言語化」されるレベルである。
- 現代医学は自らの起源を18世紀末の数年間におき、ここはあらゆる理論を超えた知覚そのものの慎ましさに医学が回帰した地点だとされる。
- しかしそうではない。見えるものと見えないものの関係の構造が変化し、まなざしとランガージュの旧来の領域に以前/超えていたものが、その領域に入ってきた。それにより、「もの」と「言葉」の間に新しい関係が結ばれ、「見たり」「言ったり」することが可能になったのである。
- 実際、〔実証医学誕生期の〕言説は合理性に関してはかえって素朴である。〔例えば〕1796年、J・F・メッケルは脳を調べるのに脳と同じ容積のものの重さを量り比較するという合理的方法を用いたが、「実証的な」大脳病理学は、かなづちで頭蓋を打ち割って〔脳を直接見た〕。この種の、素早い手技によって事物をまなざしに開くことは、ビシャ以来実証医学の本領となり、器具を用いた定量的測定にまして客観性を作り上げた。
- ここにおいて、〔真理を開示する〕明るさの保管者は眼であり、眼は自らが生み出すのとちょうど同じだけの真理を受け取る。このことは、世界が明るい古典期から、「啓蒙」の18世紀を経由し、19世紀において明るさが移行していることを示す。
- デカルトやマルブランシュにとって見ることは知覚することであり、そこでの問題は、知覚を精神の働きにとって透明にすることだった。光はまなざし以前の理念性の領域(=幾何学)にあり、物の本質と形態はここに起源を持つ。だから完璧な「見ること」においては見るという働きは消える。
- 一方で18世紀末には、見ることは経験に物質的不透明さを残しておくことに存している。合理的な言説とは、いまや対象の厚みに依存することになる。アリストテレスは個別的なもの学は存在しないと言った。しかし18世紀は個人の独自な特性にまなざしをそそぐことで個人についての知識を可能にし、個人に関する科学的な構造を持った言説を可能にした。
◇ ◇ ◇
- こうした個人への接近を、今日の人々は、「一対一の対話」、仲介物の無い二人の人間の接触の創始であると誤解する。さらには、このまなざしが科学的説明の一般形態に達するとも考えられた。「我々が「彼〔患者〕を観察する」のは、天体観測や実験室での実験観察と同じやり方によるのである」。
- しかし〔こうした直接性〕はない。臨床医学はその歴史的な可能性とともに、その経験領域と合理性の構造を規定する諸条件とともに、現れたのだ。
- このような臨床医学の誕生を基盤に本書の論述は進むが、その際、現在や過去の臨床医の言葉に頼らない。〔というのは、〕現代に行われるべきなのはまさに批判であり、〔たしかに〕批判の可能性と必要性はランガージュの存在に結びついているのだが、〔おなじランガージュを扱うといっても批判は「注釈」ではないからだ〕。
- 注釈は、言説が言わんとしたことを問う(ランガージュの心理主義的解釈に基づく)。注釈においては次の2つの過剰が仮定される。
- 言説のシニフィエはシニフィアンに尽きない……シニフィエの過剰
- 豊かなシニフィアンに語りかけられるからこそ真のシニフィエを明らかにできる……シニフィアンの過剰
このため、シニフィエとシニフィアンは互いに自律的になってしまう。
- しかし、「意味されたもの」を人の意図ではなく、別の意味されたものとの差異によって定義する方法がある(意味を体系内における機能的な分節と考える)。〔語られたことにいかなる残余も過剰も仮定せず、ただそれが現れたという歴史的事実だけを問題にするのだ(2版)〕。……意味されたものの構造論的分析。これにより、シニフィエとシニフィアンを根源的な適合性の中に保つことが出来る。
- これまでの思想史には2つの方法しか無かった
- 審美的:ある時間や歴史的空間内での観念の類似性に着目
- 心理的:過去の観念の内容を否定
一方ここで狙うのは、医学的経験の対象となるシニフィエの構造論的分析である。臨床医学は、シニフィエの新しい切り抜き方であり、それをシニフィアンによって言語化する際の原理でもある。これまで我々が漠然と「実証科学の言語」だと見てきたものはこのシニフィアンの中にある。
- 臨床医学に登場する主題は古くからあるものばかりだ。しかしそれらの形態上の構造を考察すると、臨床医学とは医師の経験において知覚しうるものおよび発話しうるものの新しい輪郭のことを言っているように見える。臨床医学は、医学的言説を深いところで再編成しただけでなく、病気に関するランガージュ自体の再編成である。この新しい構造は「どうしたのですか?」という問いが、「どこが悪いのですか?」という問いに変化したことに示されている。
◇ ◇ ◇
- この研究は、一定の医学派や反医学に肩入れするものではなく、〔その〕歴史自体の諸条件を解読しようとする。