えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

ポスト古典的な心 Stadler, 2014

http://www.jstor.org/stable/10.1086/675555

  • Stadler, Max. 2014, Neurohistory Is Bunk?: The Not-So-Deep History of the Postclassical Mind, Isis, 105, 1:133-144

  この論文では、「神経歴史学」をめぐる複雑な描像を提示したい。神経ほにゃらら学にイライラしている人文学者達が思っている以上に、我々の文化は既に一定の「ポスト古典的」な心/脳理解に向かっている。
  「ポスト古典的」な心理解とは、心が状況づけられ、外在化され、超並列的で、分散しているという理解である。この理解は、80年代における心理学者・進化思想家・人間−コンピュータ相互作用の専門家・パーソナルコンピューティングのイデオローグ達……の収斂という文脈から生まれた。

1 新しい自然哲学

   Daniel Smailの「神経歴史学」(あるいは「太古の歴史」・「大きな歴史」)に情報を提供しているのは、主に進化心理学者 ———−90年代に「第三の文化」(Brockman)の波を作った科学者達である。神経歴史学が依拠する「進化に関する、複雑性の重要さの自覚の上に成立した新しい自然哲学」(Brockman)は、人間本性に関する後期近代的物語であり、進化するガジェット(技術的未来)と複雑で適応的な心(「太古」)を合流させる。
  進化心理学は太古を問題にするが、80年代前半の黎明期に生物学と技術の「統合」という萌芽的話題の聴衆を見つけることが出来た場所は、複雑系研究のメッカであるサンタフェ研究所だった。John Tooby (1985) は、現実における心のパフォーマンスには並列分散的な計算による実装が必要だと述べたが、ここで参照されているのは時間の深さではなく新しいAI研究や人間工学などである。現実の対象の操作という課題を前に、これらの分野は並列的なサブ認知イベントに基づく全く新しい認知モデルを作り出していた(Hofstadter, 1985)。(後述のように、こうした学問の対象は「ユーザー」であり、また間接的にパーソナルな小型コンピュータであった。)
  この新しい認知モデルに基づく諸科学の統合は、単に個人向けのシミュレーション機器の利用可能性が増したことだけでなく、80年代に米国以下諸国が情報技術分野における産業研究開発計画にコミットしたことにも多くを負った。知的なソフトウェアやマンマシンインターフェースにこそ未来があるという信念があったのだ。
  著作権代理人John Brockmanも、新しいサイバネティックな社会に関する自分のビジョンを隠さなかった。彼は70年代に「カリフォルニアの奇妙な科学者」に特化した著作権代理人となり、雑誌を編集したりした。ここに「新しい自然哲学」の萌芽がある。Brockmanはソフトウェアの販売から科学そのもの販売に転じ、科学出版に武勇伝を残すことになる。また81年には「実在倶楽部」を設立し、ここには複雑系研究者やAI研究者が集った。

2 ポスト古典的日常

  Brockmanらは想像力豊かな思考で一山当てた。しかし「新しい自然哲学」は、ポスト古典的な心が、市場に駆られ人工物に溢れる現在に巻き込まれる仕方の一例に過ぎない。
 ポスト古典的な心理解が、いかに新しいサイバー経済的現実の産物であるかを見てみよう。あえて言えば、古典的な心理解の終焉はパソコンあるいは「知能増幅機」の登場と一致する。知能増幅というメタファーは今日ではもうおなじみである。新流行のユーザー心理学の専門家達は、より優れた心の拡張のあり方を議論し、人々に「インターフェース」、とりわけ技術が無い人でも使える「絵画的」インターフェースを提供するという答えを常に出した。これまでは産業オートメーションの「管理者」だけの特権であった〔インターフェースへの接続〕が民主化され、「認知の」問題となる。同時に、拡張された認知がもつ根本的に身体的、人工物的な側面(指す、整理する、視覚化する……)が強調されるようになる。そして、もはや心の拡張は「古典的な」認知心理学の語彙に包括できなくなった。
  懐古的に言えば、思考を拡張する機械というビジョンの正しさは疑問視されるかもしれない。しかしここで、心理学とマーケティングの対象として、分散平衡状況拘束型の心をもつ「ユーザー」が発見されたことは確かだ。80年代にはアメリカの産業における人間的要因の専門家は2〜3倍に増え、84年には第一回人間コンピュータ相互作用国際会議Interact’ 84が開かれることになる。「記号操作と産業的応用を適切に混ぜ、「現実世界の」問題に適用するという問題」が出現した。
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  心についての合理主義は、「インタラクティヴ」な機械を適切にデザインするには邪魔だった。もちろん、現実的問題に取り組むというのは新しい話ではなかったのだが、コネクショニズムや超並列のコンピュータの流行が、心の科学における転回とうまくかみ合った(図1〔「欲しい対象を掴むのに数多くの制約を考慮に入れなくてはならない」〕。進化心理学も、技術の進化における心の拡張の最新段階である「知性の注目すべき拡張」にまつわる問題を重要視する。さらに、あらゆるモノをパーソナルな情報機器として理解しようとする者も現れた(Norman 1988, Psychology of Everyday Things)。

結論

  ここで、同じく80年代に現れた、科学を図表や等式、通信、アーカイブ、記録、議論の歴史として理解する転回(Latour)に触れたくなる。実際これは、「ユーザー」の心理学の誕生と偶然の一致以上の類似性を示すが、この話題には別の論文が必要だ。
  「神経歴史学」の話に戻れば、事態は賛成か反対か無視かといった単純なものではない。こうした応答がちゃんと根拠をもつには、「新しい自然哲学」はあまりに現在に特殊な現象だからだ。またこの現象は殆ど常軌を逸するような始まりかたをしたかもしれないが(「科学的歴史家」は「インターネットは成長する有機体だ」と語ってTEDの聴衆を沸かせた)、結局は「ポスト古典主義的」心という共有された仮定に落ち着くかもしれない。
 神経派のアジ屋は現在と未来の発展に追いつけとせかす。しかし知識の発展が単純で透明なことは殆どないのだから、少したち戻ることの方が重要だ。