えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

よみがえるストア派 シュナイウィンド (1998) [2011]

自律の創成: 近代道徳哲学史 (叢書・ウニベルシタス)

自律の創成: 近代道徳哲学史 (叢書・ウニベルシタス)

  • シュナイウィンド・J (1998) [2011] 『自律の創成』 (田中秀夫監訳 法政大学出版局)

第一部 近代自然法の興亡

第二部 完全性と合理性

  • 17世紀の自然法理論家は人間の対立は永続的なものだと考え、それに対処する方法を神ではなく経験に求めた。一方同時期の道徳哲学は、人間の精神と神の精神は似ているから我々が自己理解を深める(=自己完成)につれ調和が成立するはずであり、人間の対立は無知の産物だとした。
  • このストア的主知主義はデュ・ヴァールやリプシウスが広め、ハーバートはそこからストア的な善理論を、デカルトは「神の精神への接近」という考えを取り除いた。

1 キリスト教化されたストア哲学 —— デュ・ヴァールとリプシウス

  • デュ・ヴァールの『ストア派の道徳哲学』とリプシウスの『恒心論』はストア哲学を再表明し広く読まれた。彼らにはストア哲学とキリスト教を両立させる必要があった。
  • デュ・ヴァール曰く、万物は固有の善を求め、人間はそれに知性と意志を使う。手に入らない善は固有の善ではない(=自然は矛盾しない)ので、人間の力の範囲内にあるもの、すなわち徳が人間にとっての最高善である。徳の主要部分である英知は、自然と調和するものを求めよと意志に教える。意志は、善が理解されるまでは行為を未決にして制御を行う。ところが、情念は偽りの善を意志に教えてくる。これに対して意志と英知を完成することが人間の完成である。
  • 我々は敬虔(=神についての知識)を養うべきだ。万物は神から生じたのだから全ては善として受け入れ、「罪なき生活」を送る事が我々の名誉である。自分の名誉を理解すれば、同胞すなわち祖国、父母、子孫に対する義務へ眼を向ける事が出来る。こうして実現する完全性をみて神は喜ぶが、我々の本性は完全性を保つのには十分ではないので、ここに恩寵が必要になる。
  • リプシウスによると魂は肉体の堕落で汚されており、そこから生じる意見は変わりやすい。我々に神の姿を思い起こさせる「人間と神の事柄についての真の感覚と判断」たる理性に従って生きる(=恒心)べきである。
  • ストア哲学の「運命」は神意と介され、自然の因果だけでなく奇跡や自由意志が認められた。それでも宿命は第一の原因で、意志を含む「中程度の従属的原因」から離れているものの、従属的原因は宿命によって働く。神は我々の行いを予見しており、我々は必然的だが自発的に罪を犯すのである。しかし我々は運命を知らないので、物事に無関心になることなく、悪を避けようとせねばならない。ただし自分の力が及ばないことが確かな場合、害悪は神が与えるものとして受け入れる他ない。
  • また、万物は神に発するのだから自分に生じることは全て有用である。だが人間は何が神の計画なのか知らないので、邪悪な者が善い成果をもたらす(=しらずに神の懲罰を執行している)という可能性を理解せねばならず、それでも恒心をもち厄災にたえねばならない。精神を束縛する事は誰にも出来ないのだから、我々には常に平穏の源泉がある。
  • 2冊に示された新ストア哲学は、形而上学に基づく個人治癒の思想である。個人の精神が神の精神に結びつけられ、理性を調べることで経験だけを見たのでは分からない最高善とそこへ至る方法が示される。

2 チャーベリーのハーバート —— 宇宙と共通観念

  • 『真理について』のハーバートには前提となる形而上学がある。人間は宇宙の縮図で、人間と宇宙には対応する法則がある。万物とくに人間は自己保存の衝動によって完成へと動かされるが、個の保存と世界の保存は両立する。
  • 彼の主要な論点は精神への宇宙の現前〔認識論〕にある。懐疑論や信仰絶対主義に対し、事物が我々に現れる仕方(外観の真理)は事物の真理の差異を反映している。さらに、事物の真理の差異を認識する能力を我々は持ち、それは概念の真理をもたらす。最後に、諸概念を統合し体系にする能力を我々はもつ(知性の真理)。
  • 外観について考える際に用いられる最も基本的な概念(=共通観念)は生来的で全ての人に見いだせる。この概念は普段は埋もれているが、対応する対象によって刺激された時にのみ顕在化する。共通観念は経験の結果ではなく、それにより初めて経験が可能になるようなものである(反経験論)。
  • 共通観念は数学的確実さをもち知識の基礎を与える。次に、共通観念や個々の内的・外的感覚に対して正しい手続きを踏んだ推論(=「探求法」)を適用することで、権威によらず独力で新しい知識を獲得できる。これは宗教的事柄についても言える。現れを受け取る能力、推論能力、諸概念を共通観念に従属させる能力が整合的な思考体系に統合されるとき、精神と事物の唯一の合致が生じ、我々は幸福である。

3 ハーバート —— 共通観念、道徳、宗教

  • 道徳は経験や他の観念から導出できない独自の共通観念を持つ。「何に従うべきであり何を避けるべきであるかを我々が知るのは外的世界からではない。そのような知識は我々のうちにある」。彼の認識論は、人間と神が同じ言葉で道徳を考えている事を保証していた。
  • 彼は道徳能力を重視し権威を拒否する。啓示とされるものが本当に啓示なのか、理性によって決定しなければならない。万人が同じ共通観念を持つのだから、全ての人が等しく自分のすべきことに考え至ることができる。様々な真理の主張に直面しても、徳の要請を知る能力が我々にはある。なぜならそれは永遠の幸福のために不可欠であり、神が永遠の幸福を達成不可能なものにしたとは考えられないからだ。
  • ハーバートの学説は様々な問いを提起した。例えば自由意志と決定論との両立性の問題や、善を明確に知覚すれば意志は決定されるのだから我々は善に無知なかぎりで自由だという帰結が出てくるのではないかという問題などがある。
  • また、万人が共通観念をもつなら常識的判断への信頼が帰結するはずで、たしかにハーバートはグロティウスらと同様に普遍的同意を真理の試金石とした。しかし彼は知性の分配は等しくないという点から、大衆は聖職者の助力なしでは真理に到達できないという主張も行っている。
  • ハーバートの道徳学説は、適切な順序と体系による共通観念把握をめざした完全論である。この自己認識に欠陥があるかぎり、我々は誤って考え行為する。一方自然法論者にとっては、自然法の無知はより有害ではあるが他の無知と別に変わらない。〔内面は〕はどうでもよく外的行動が義務に適うことが重要だった。

4 デカルトの主意主義

  • デカルトは『真理について』を論評し、「共通観念を知るほど思考を神と共有する」という見解を、神へ制約を課すものとして退けた。永遠真理ですら神々が望むが故に存在する。この主意主義の一方で、デカルトはルターらとは違い、神が自然法を命令したとは言わない。デカルトは神についての知識から理論的および実践的問題を解決する事は出来ないと考えていたからだ。
  • 新ストア派同様神の摂理は宿命である。しかし神は無制約的なので、神に訴えて事物を個別的に説明することはできない。神の誠実の証明により我々は自分の能力を信頼できるが、自然学・道徳両方において個別の事柄は自ら学ばねばならない。

5 デカルト —— 無知と徳

  • 暫定道徳の第四規則は、「神が我々に真偽を選別できる能力を与えているから、人はそれを用いながら人生をおくることができる」と言う。正しい人生には正しい知識が必要であるが、その容易な獲得のために守るべき順序は論理学から医学・道徳に至る。この末端についてデカルトは何も知らないと言ったが、それは当時の人間は誰もが無知だと考えた事による。ストア派と同じで、道徳に関して完全な知識を持てるものは存在しないのであり、だから道徳は常に暫定的である。
  • 思考実体の思考の一様式として意志があり、意志は思考対象に同意・不同意することで行為を帰結する。しかし我々は善/悪を必然的に追求/回避するので、我々の自由は(無知でないかぎりは)無関心の自由ではない。しかし、我々は神が万物を予定していると分かっていてさえ自由を疑えない。「意志する事と自由はひとつの同じもの」である。
  • しかし意志が同意すべき明晰判明な知覚を手に入れるのは難しい。これを助けてくれる知識は簡単には手に入らない。そこで第二の規則がある。そこでいわれる意志の堅固な一貫性がデカルトにとっての徳である。

6 デカルト —— 幸福、情念、愛

  • この徳の定義により自己統治が倫理の中心となる。しかし心身合一体としての人間には徳だけでは十分でない。ストア派とは異なり、身体を守り理性の範囲内で快楽を与えるものとして、情念も重視される。この両面性は最高善の理解の二面性に対応する。
  • 最高善は我々の力の内にあるもの、つまり思考だが、知識はしばしば我々の力を超えるので、意志の一貫性の徳こそが最高善である。しかしそこには、最高善を得た結果としての満足が付け加わらなくてはならない。
  • 後期のデカルトは情念を制御する方法として、行為を一旦中断し善と思われたものを再検討するという方法を考えた。この中断は心の平成を得るためのピュロン主義的中断ではなく、より善い決定を可能にするものである。
  • 善/悪を知覚すると愛/憎悪の情念が生じる。この愛は混乱した状態では身体へ向かうが、それは知覚に明晰さが欠如しているからで、正しい知識を手に入れれば、自分が属する全体、友人や祖国へと愛の対象は拡大する。知識が情念を変えるのであり、我々はこの愛を自分の努力によって得る事が出来る。
  • デカルトは、自分の真の価値において自分を尊重する徳として「高邁」を提示した。高邁は欲求の制御にも関係しており、高邁な人は他人についてもよく考えるよう導く。自分の属する全体を高貴なものと考えれば考えるほど、自分自身への評価も高まるのであり、自己愛と他人への愛の対立はデカルトには存在しない。
  • デカルトにとって善悪の知識を増大させるか意志を一貫させることで自己完成する事が道徳の鍵であった。デカルトは真理の試金石として同意に訴えはしなかったが、権威を廃し自ら考え抜く事を強調する点でハーバートと一致している。そして二人のこうした説は生得的な完成論から出てきている。一方で、自然法学者の経験主義は自分で考える事を促す理論的必要性をもたなかった。