えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

定言命法の人間性の定式(第二定式)とは Korsgaard (1986)

https://www.degruyter.com/view/journals/kant/77/1-4/article-p183.xml

  • Christine M. Korsgaard (1986). Kant’s Formula of Humanity. Kant-Studien, 77(1-4): 183-202.

I. 導入

 カントは『道徳形而上学の基礎づけ』2章で、定言命法が存在するとしたらそれはどのようなものか、3つの観点から定式化している。すなわち、「普遍性という形式」(420-21)、「目的自体としての理性的本性/人間性という内実」(427-29)、「目的の王国における自律的立法」(431-32)の観点だ。これらの3つ観点から生じる定式のうち、一番目の観点による「普遍的法則の定式」に則った理性的原理こそ定言命法であり、残りの2つはこの定式と等価であることによってのみ理性的原理でありうると、とこれまで言われてきた。しかしこうした解釈は、3つの定式のそれぞれが理性的原理の特徴を捉えるものだというカントの意図に反している。[184]なかでも「人間性」は、理性的原理の適切な「内容」であると言われている。これがどういうことなのかを考察するのが本論文である。

 「普遍的法則の定式」についての議論の後、カントは動機にかんする問いを立てている。普遍的法則だと意志できる格律に従って行為しなければならないというのは、理性的行為者にとって必然的法則なのだろうか? そうであるならばこの法則は、理性的存在者の意志とアプリオリな結びつきを持つはずだ。意志は自己規定の根拠として目的を持つ。そして、目的が理性によって命じられているという理由で採用される場合に、行為は道徳的価値を持つ。[185]そのような理性によって命じられている目的としてカントが挙げているものに、自己完成と他者の幸福と並んで、人間性がある。

人間性を目的とする行為は、『徳論』では「義務からの行為」とも結び付けられている。人間性という目的はネガティヴなかたちではたらく。すなわち、人間性に反するかたちで行為してはならない(437)。この人間性という無制限の目的によって、傾向性の影響を制御するところに、人間の徳は存するとされる。[186]また、人は他者に強制されることなく目的を採用できるので、人間性を目的として採用することは、自由に、義務から行為することでもある。

 「目的自体としての人間性の定式」を支持するカントの議論は2部に分かれる。無制限の目的が存在しなくてはならないことを示す部分と、それが人間性でなければいけないことを示す部分だ。前者は、定言命法があるならば必然的目的が存在し、逆も然りである、と単純に済ませられる。問題は後者である。

II. 人間性

後者の議論の検討に入る前に、「人間性」という言葉でカントが何を意味しているかを確認しよう。まず『基礎づけ』では、「人間性」と「理性的本性」は互換的に使われており、理性的本性とは目的自体を提起するものだとされる(437)。[187]また『徳論』でも、人間性は目的設定能力とされている(392)。目的を設定するものは実践理性であり、この能力は本能で行為を決定する動物と人間を区別するものでもある。ここで注意すべきなのは、人間性とは目的を理性的に決定する能力 一般を指すにすぎず、目的の中でもとくに「道徳的に義務である目的」を採用する能力ではないということだ。この点について、テキスト上の証拠を3つあげる。

  1. 『基礎づけ』は、手段だけでなく目的の制御も理性に委ねられていると述べている(395)。

[188]

  1. 『憶測的起源』では、人間は物事を比較する能力によって本能的欲求を超えていったとされ、この比較能力が理性に帰せられている(111-12)。理性はさらに発展し、欲求を愛、美、未来、そして道徳性に向けさせる。[189]しかしそれはあくまで最終段階の話で、理性自体はあくまで、非本能的な欲求を可能にするものだとされている。
  2. 『宗教論』は、人間本性のうちにある善への素質を、動物性、人間性、人格性の3つに分ける(26-27)。「動物性」は本能的欲求に、「人格性」は道徳法則への尊敬と結びつけられる。これらの中間にある「人間性」は、ここでも「他者との比較によって幸福・不幸を判断する」比較能力だとされている。この比較は、文化(道徳によって達成される理性の完全な支配)形成の刺激となる。

以上のような箇所から、カントの「人間性」とは一般的な目的設定能力だということがわかる。

III. 議論の基礎

この節では、無制限の目的が人間性であることを示すカントの議論の前提となっている、理性的行為の理論についてふれておく。『実践理性批判』によると、理性の指導のもとでは、私達は自分が善だと考えるものしか欲求しない(57-71)。この「善」は、『基礎づけ』では「実践的必然性」と言い換えられており(412-29)、善は理性的概念だと言える。すなわち、何が善かを決定するのは理性である。実際『実践理性批判』によれば、理性によって設定された手段・目的のみが「善」と呼べる(62)。また、善である目的は、すべての理性的存在に適用可能な行為の理由を与える(60-61)。[191]このことから、『基礎づけ』は次のような要請を引き出している。行為は、その目的が他者でも持てるようなものでなくてはならない(430)。共有不可能な目的は善ではないのだ。

 善は理性的概念なので、善い目的の存在は正当化することができる。ただしこの正当化は、定言命法の基礎である目的が問題となる場合、相対的なものではいけないつまり、なんらかの目的に照らして手段を正当化する(善とする)場合とは、異なった正当化が必要になる。そこでカントは、「絶対的価値を持つもの」、「目的自体」 (428)、あるいは無条件に善いものを探すことになる[192](遡行的な議論)。

では、無条件に善いものとは何か。答えはある意味で『基礎づけ』1節で与えられている。つまり、善い意志である。善い意志以外のあらゆる善(幸福を含む)は、善い意志に条件づけられたものにすぎない。[193]ただし、『実践理性批判』では、最高善を構成するものとして徳の他に幸福が要求されている(110)。そこで、次のように言える。何かが客観的に善いのは、それが無条件に善い場合(善い意志)か、条件つきの善だが条件のほう(善い意志)が成立している場合の、どちらかである。いずれの場合にも、善い意志はすべての善の源泉である。

IV 人間性の定式を支持する議論

さて、問題の議論は次のようなものである。「傾向性のあらゆる対象は、条件つきの価値しか持たない。なぜなら、傾向性とそれに基づくニーズが存在しなかったら、その対象には価値がなくなるからだ。ニーズの源泉である傾向性はまったく客観的価値を欠いている。そのために、傾向性から完全に自由になることが、あらゆる理性的存在の普遍的な願いであるほどだ。従って、行為によって獲得されるあらゆる対象の価値は、常にひとしく制限的である。私達の意志ではなく自然によって存在しているものがあるとして、それが理性的な存在でない場合、それは手段としての相対的な価値しかもたない。そうしたものを「モノ」と呼ぼう。他方で理性的存在が「人格」とされるのは、その本性によって、自分は目的それ自体であるということが示されるからだ。目的それ自体であるというのは、単に手段としてのみ扱ってはならないものだということである。このような存在者は尊敬の対象になり、その限りで、あらゆる[恣意的な]選択を制限する。[……]というのも、そうした存在者なしには絶対的価値を持つものは何もなくなってしまう。そしてもしすべての価値が制限的で偶然のものだとしたら、理性のための最上の実践的原理はどこにも見いだせないことになってしまうからだ。」(428-429)

この議論は、傾向性の対象から出発して理性的本性に向かう遡及的議論だと理解することができる。以下ではそのようなものとしてこの議論の再構成を試みる。

 [195]あなたが選択をなし、選んだものが善いと信じているとしよう。この善さをどうすれば正当化できるだろうか。通常、あなたが欲しているものが善いのは、まさに自分がそれを欲しているからであるようにみえる。しかし、あらゆる傾向性が事物を善くするとは考えがたい。幸福の邪魔になる傾向性があるからだ。しかし、傾向性に対して自身の幸福との整合性という条件をつけただけでは十分ではない。というのも、幸福は無条件の善だとは考えられないからだ。幸福を無条件の善とする立場は、すべての人の幸福が無条件の善であるという立場か、自分自身の幸福のみが無条件の善であるという自己中心的な立場かの、どちらかである。しかしいずれの立場も、善は理性的概念であり、あらゆる理性的なものがもつ欲求の対象であるはず(『純粋理性批判』60-61)だという前提と衝突する。[196]まず、すべての人の幸福は理性的欲求の対象にはなれない。なぜなら、それは整合的な概念ではないからだ〔。つまり、ある人が欲するものと別の人が欲するものは異なっており、それらが同時に実現するとは限らない(『実践理性批判』28)〕。そして、そうでないならば、個々の理性的存在者が自分自身の幸福を理性的意志の対象にすることもまたできない。

 では、選択の対象を善に(そして理性的に)するものは何なのかだろうか。それは、その対象が、まさに理性的選択の対象であるということだ。つまり、理性的選択にはそれ自身で「価値付与資格」がある。これが、次のパッセージでカント言わんとしていることだ。「理性的本性は目的自体として存在する。人は自身の存在をそのように考えざるをえない。」(429)。さらに、理性的選択のおかげで自分には価値付与資格があるとあなたが考えるならば、理性的選択の力を持つすべてのものが、価値付与資格をもつのだと考えなくてはならない。そこで、あなたがあなたの理性的選択によって善としたものは、他者が善としうるものと調和していなければならない(善は理性的概念なので)(429)。したがって、「あなたと同じ行為の目的を他者が持つことが可能でなければならない」のだ(430)。

 [197]こうして、善のそれ以上条件づけられない条件として、理性的本性ないし理性的選択能力があることがわかる。しかし理性的本性がこの役割を果たすためには、それはそれ自体として無条件の価値をもたねばならない。つまり目的自体でなければならない。したがって、あなたは自分のものであれ他人のものであれ、理性的本性を目的自体として扱わなければならない。翻って、この目的としての理性的本性に背く行為は理性的ではありえない(437-38)。

 『基礎づけ』の冒頭では、善い意志が無条件の価値を持つと言われる。これと、人間性が無条件の価値をもつという主張は、両立不可能ではない。人間性は理性的選択を可能にする能力だが、完全に理性的な選択が実現するためには、善い意志である「人格性」の実現が必要になる。しかし、善い意志が実現していないとしても、善い意志を可能にする能力である人間性をもっていることだけで、無条件の目的として扱われる根拠には十分である。
 

V 人間性を目的自体として扱う

 これまで、定言命法の人間性の定式は、普遍的法則の定式と等価であるというかたちではない、固有の適用方針をもたないのではないかと思われてきた。しかしこの解釈は、『基礎づけ』や『徳論』の記述と整合していない。

 では、人間性の定式はどのように適用すればいいのか。ここまでの議論を踏まえて言い直せば、 [198] 自分自身ないし他人の、目的を理性的に設定する能力を、目的それ自体として扱うというのは、どういうことなのだろうか。何点か確認しよう。カントは、この目的はネガティヴな仕方で働くと述べていた。またこの目的は無条件のものであるから、決して反してはいけないものである。さらに、理性的本性はその他の目的の善さの条件であるという特徴も持つ。

 以上を踏まえ、人間性の定式からカントが『基礎づけ』で導出している義務の具体例を見ていこう。二種類に分けられる。第一に、人間性が単なる手段とされている事例。例として、自殺や偽の約束の禁止が挙げられる。これは普遍的法則の定式のもとでは、矛盾なしに普遍的法則だと考えられない格律を含む事例に当たる。第二に、人間性と衝突はしないが、「調和」しない事例(430)。例としては、自分の才能や能力を伸ばす義務や他者を助ける義務にそむくことが挙げられる。これは普遍的法則の定式のもとでは、格律は普遍化可能ではあるが意志できない事例に当たる。

 第一のカテゴリーについて。まず自殺は、「理性的本性はその他の目的の善さの条件である」という上記の点に抵触している。理性的本性の破壊によって他の善を得ようとすることは、理性的本性がすべての善の源泉である以上、矛盾しているのだ。[199] 偽の約束はどうか。偽の約束をするとき、あなたは自分の価値付与能力に、他人のそれに対してより多くの力を与えていることになる。しかしあなたの価値付与能力が人間性に由来するのであれば、人間性を持つ他人にも等しい価値付与能力を認めなくてはならないはずだ。

 第二のカテゴリーについて。自己完成ということで問題となっているのは、まさしく理性的選択の力を行使するための諸能力を養うという点だ。ここでは、目的としての人間性にほとんどポジティヴなはたらきが与えている。人間性はある種の能力であり、つくりだすことはできないが(437)、より完全に実現させることはできる。ここから[200]各種の自己完成という積極的義務が生じる。また、自分の場合と同じように他者の目的も客観的に善いものとして扱われなくてはならない(430)ことから、他者の幸福を促進する義務が生じる。

VI 価値付与

 最後に、無条件の価値を持つのは客観的価値を付与する能力であるという本稿のカント解釈を支持する『判断力批判』の文言に触れておきたい。

 「目的論的判断力の方法論」でカントは、自然内部にあって自然全体を秩序付ける「究極目的」と、自然外部にあって自然の存在そのものの理由となる「最終目的」を区別する。そして究極目的とは何かを遡行的に推論していく中で、カントは地上における創造の目的は人間であるとする。「人間のみが目的を理解し、その理性によって、合目的的に形成された事物の集まりを目的の体系にすることができる」からだ(426-27)。続いてカントは、自然の究極目的は具体的に言えば人間の幸福か文化かのどちらかだとした上で、『基礎づけ』を繰り返すかたちで、文化のほうこそが自然の本当の究極目的だと論じている。

その上でさらにカントは、文化の発展は自然の「最終目的」でもあるとも論じている。ここでいう文化とは人間性の発展のことなので、自然の最終目的は道徳性なのである。道徳性においてはじめて、目的を設定する能力は完全に発揮される。なぜなら、目的は客観的な善でなければならず、そして目的のそれ以上条件づけられない条件は道徳性の中にしかないからだ。[202]このように、目的を設定する能力は、定言命法だけでなく、創造を完全に目的論的なものとして理解するための唯一可能な基盤でもなる。カントの考えでは、世界に価値をもたらすのは人間の価値付与の能力であり、自然の正当化さえも人間に委ねられている。