- 作者: マイケルスミス,Michael Smith,樫則章
- 出版社/メーカー: ナカニシヤ出版
- 発売日: 2006/10
- メディア: 単行本
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- スミス・M (1994)[2006] 『道徳の中心問題』
第3章 外在主義者の挑戦 ←いまここ
第4章 動機づけに関するヒューム主義の理論
道徳判断に関するいわゆる「内在主義」を擁護する章です。まず内在主義が2種類の主張に整理されます。
- 【道徳判断に関する実践性の要件】
ある行為者が、自分が状況Cにおいてφする事は正しいと判断するならば、その行為者はCにおいてφするよう動機づけられるのであり、さもなければ、その行為者は実践的に非合理的である
- 【合理主義】
行為者が状況Cにおいてφすることが正しいならば、その行為者にはCにおいてφする理由がある。
※後者は前者を含意しますが(ネーゲルやコースガード)、前者は後者を含意しません(表出主義者)。表出主義者によれば、行為者が合理的であっても選好が異なれば道徳判断は異なるからです。
このそれぞれに対する反論が検討されます。
アモラリストによる反論(Brink 1986)
はじめに【実践性の要件】に関して、「普通の人と同じような行為を道徳的に善いとか悪いとか判断するけど、それに動機づけられないような人」はいるだろ、と言う反論です。
これに対しまず、次のような類似に注意が促されます。<何らかの方法で普通の人と同じように色(道徳)を区別できる盲人(アモラリスト)がいたとしても、この人は色(道徳)概念を持ち、色(道徳)用語を理解しているとは言えないかもしれない。それは、特定の条件下で適切な視覚経験(動機)を持つ事が、色(道徳)概念を習得するための条件の一部だと言えるかもしれないからである>。この類比が通るならば、道徳(色)用語習得をどう説明するかに関する独立の議論によって、反論を回避する事が出来ます。
ところで、「善良で意志の強い人なら道徳判断の変化によって動機が確実に変化する」ということは事実です。このことを説明するために内在主義者ならば、道徳判断が同一性か因果性で動機とむすばれている事で説明します。一方外在主義者なら、善良な人は「正しい事をする」という一般的な動機を持っていると考え、この変化の確実性を説明するでしょう
しかしウィリアムズと常識が告げるように、善良な人は様々な個々の良さに関して非派生的に配慮するのであって、「正しい事への動機 → ○○は正しい → ○○に配慮」という形で派生的な配慮を行うものではありません。これでは道徳上の偏愛が道徳的美徳になってしまいます。かくして、善良で意志の強い人の動機変化を説明するには、【実践性の要件】が道徳用語習得の条件であると考えることが必要だと分かりました。
エチケット論(Foot 1972)
つづいて、【合理主義】への批判に移ります。フットは道徳の要求が定言的なものであることを確認しますが、しかし例えばエチケットも定言的である点に注意を促します。そして、エチケットを守らない人が「不合理だ」と言われる事はないのですから、定言的というだけで道徳が理性の要求だと言うことにはならないと指摘します。さらに、伝統的には実践理性は仮言命法の体系なのであり(ヒューム)道徳の要求が理性の要求だと言い張ることは難しい。むしろフットは、道徳はエチケットとおなじく、合理性の要求と言うよりは制度的な事実なのだと主張します。
しかし制度的事実には人を動機づける力がないので実践性の要求が満たされないでしょう。続いて、フットによる「合理性の要求は仮言的」という主張は独断であり、スミスは4章で合理性の要求は定言的だと主張していきます。ここではまず合理性の要求は定言的だと仮定した上で、それと道徳の結び付きを明らかにしましょう。
ここで、「私たちは合理的な行為者は道徳的に振る舞うだろうと期待する」という常識が注目されます。そうだとするならば、その道徳性の根拠は合理性にあると考えざるを得ないのです。しかし、表出主義者なら言うだろうように、合理的行為者が道徳判断に関して異なっていながら、合理的批判には晒されないと事はあるのではないでしょうか。しかしこの疑念は、「道徳判断は客観性を狙う」という常識に照らせば力を失います。道徳的不一致が生じる場合、我々はどのどちらか一方が合理的観点から言って「間違っている」のであると考えるはずなのです。
以上で内在主義に対する二つの批判が反論されました。