The Importance of What We Care About: Philosophical Essays
- 作者: Harry G. Frankfurt
- 出版社/メーカー: Cambridge University Press
- 発売日: 1988/09/15
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- Frankfurt, H. (1988). The Importance of What We Care About. Oxford University Press.
- 13. Rationality and the Unthinkable
I
- 功利主義と無神論の共通点……絶対的な道徳的制約の不在
- この点で、功利主義は以下のように批判される。
- 効用を最大化するかぎり、功利主義者は自分の性格を構成するあらゆる要素に変更を迫られる可能性がある。しかしこうした流動的な可能性のもとでは、人は特定の道徳的理念に心からコミットすることができなくなってしまう。人は功利主義のもとで、自分の道徳的一貫性 (integrity)保つことができない(Rawls 1982)。
- 〔同じ批判が無神論者にもあてはまる〕
- 従って功利主義や無神論は、自分の確かな価値観や指針として頼れるものではない。むしろ、行為の選択肢が自由すぎるために、「自分」というものの縮小・崩壊をもたらしてしまう。
- この点で、功利主義は以下のように批判される。
II
- だが、この種の批判には重大な見過ごしがある。
- 効用を最大化するために自分の性格を変更しなければならない状況がある可能性を認めつつ、そうした状況は現実には絶対に生じない、と(正当に)確信している(そういう状況が現実に生じるとは「考えられない」)功利主義者を考えることができる。
- この人物は、特定の道徳的理念に心からコミットできる。
- 同様に、無神論者にも、全てが許されているとはいえども、自分が行なうとは到底「考えられない」(unthinkable)行為があってよい。
- 効用を最大化するために自分の性格を変更しなければならない状況がある可能性を認めつつ、そうした状況は現実には絶対に生じない、と(正当に)確信している(そういう状況が現実に生じるとは「考えられない」)功利主義者を考えることができる。
III
- ある行為が自分にとって「考えられない」というのは、どういうことか?
- ある行為をすべきであると考えており、しかもその行為をしたいと欲しているのにもかかわらず、「そんなこと考えられない!」となってしまい結局その行為をしないという状況がありうる。ここで行為がなされないのは、その行為をしようという意志が形成されなかったからだ。ここで人は、意志の形成に繋がる「実効的な決定」を下すことができていない。あるいは、「その行為をするように自分自身を持っていけない」(unable to bring oneself to perform an action)。
- 「自分自身を持っていけない」というのは、その行為に対して圧倒的な忌避感(aversive)があるということと単純に同一視することはできない。
- 前者の場合には、その忌避感が本人によって支持されて(endorsement)おり、だからこそ行為が控えられている。これは、単に抵抗できない忌避感の衝動に駆られているのとは異なる。
- まとめると、ある行為が考えられないと主張する人は、自分がそれを意志するだろう状況など存在しないと言っている。
- その行為をすることが最善であると認識していてもなお、自分はその行為をしないだろうと思うことは全く可能である。このとき人は、ここで自分では合理的に(rationally)振る舞うことができないとはっきり分かっている。
IV
- しかし、「合理性/まともさ」(rationality)には、日常的にはなじみ深いが哲学的には無視されがちな捉え方がある。
- たとえばヒューム的な合理性観によれば、欲求が不合理であることはない。しかし普通は、自分の指をひっかくことよりも世界の滅亡を欲する人は「狂っている」と言われ、理性が欠けていると見なされる。
- この意味での不合理性(まともではなさ)は、認知ではなく意志に関わっている。一定の行為を「考えられない」ものだとしていない人を、私たちは「不合理である/まともではない」と考える。
- たとえばヒューム的な合理性観によれば、欲求が不合理であることはない。しかし普通は、自分の指をひっかくことよりも世界の滅亡を欲する人は「狂っている」と言われ、理性が欠けていると見なされる。
- ただし、ある行為が自分たちにとって「考えられない」ということは、その行為を「考えられる」他人をまともではないとする根拠にはならない。
- 考えられなさは基本的に個人的なものである。中にはより一般性をもったものがあるように思われるが、しかしそれにも限界がある。行為や選好のまともさは文化によって異なるし、そもそも一個人の中でも人生の時期によって異なると我々は知っているからだ。
- 一個人の中で「考えられない」ことは、単に変えようと意志するだけで変えられるものではない。だが間接的な方法で変化させることはできる。
- ただし幾つかの場合では、「考えられない」ことを「考えられる」ことにしようと意図して行為することそれ自体が、その人にとって「考えられない」ことである。この意味で、行為の「考えられなさ」は人の本性を構成する要素である。
- ある人にとって何が「考えられない」行為であるかは、その人がなそうと意志できる事柄の限界を決め、従ってその人の「意志する生きもの」(volitional creature)としての本性を定める。他方で、帰結によって何でも行いうる個体にとって、それが何をなそうと意志するかは常に状況の関数にすぎない。人とは意志する生きものであるならば、そうした個体は人ではない。
- ただし幾つかの場合では、「考えられない」ことを「考えられる」ことにしようと意図して行為することそれ自体が、その人にとって「考えられない」ことである。この意味で、行為の「考えられなさ」は人の本性を構成する要素である。
V
- 理性に従って行為することは、判断に従って行為することであり、情動は判断に抵抗する不合理なものだと考えられがちである。だが、感情は判断よりも理性に沿っている場合がある
- 世界よりも小指を優先すると判断し、しかもそれを実行できると考える人は精神に深刻な障害があるが、世界よりも小指を優先すると判断しつつも圧倒的な情動の力によってその行為を実行しない人はより健全である。
- 理性的な行為者の意志が、実質を欠くものでなければならないなどということはない。それどころか、人の合理性/まともさの一部はまさに、〔「考えられないもの」によって特徴付けられる〕意志の実質的性格にこそ存している。