えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

サイコパスやVM患者が動機内在主義を論駁する事は無い Kennett and Fine (2007) 

Moral Psychology: The Neuroscience of Morality: Emotion, Brain Disorders, and Development (The MIT Press)

Moral Psychology: The Neuroscience of Morality: Emotion, Brain Disorders, and Development (The MIT Press)

・道徳判断に関する内在主義と外在主義の論争は、どちらのサイドも精神病理学からの証拠を用いるようになっている。本論文の主題はこれ。

サイコパスは道徳判断をするのか

・サイコパスは哲学者の想定するアモラリストに限りなく近い実例だとされてきた。問題は、アモラリストの道徳判断が真正のものか、「括弧付き」のもの(他人の価値判断に言及しているが自分でその判断を表出している訳ではない)なのかという点に置かれた。
・アモラリストは想像可能に思えるが、思考実験は人を誤らせやすい。そこでサイコパスの道徳推論・判断能力に注目が集まる。道徳的関心の欠如とは独立に、道徳判断能力が障害を受けていると考える理由はあるか? 

  • (A)道徳慣習区別

・Blair (1995) は成人に関して、Blair (1997) は子供に関して、サイコパスが道徳慣習区別に対する感受性を持たない事を示した。道徳慣習区別は普通39ヶ月程度でつけられるようになるのに、サイコパスは全ての規則を一様に扱う。
・ここで、全ての規則が慣習的に扱われていると考えたくなるかもだが、それはサイコパスの「慣習による正当化」理解を過大評価し過ぎ。むしろ、どちらの規則も無視しうる厄介な制約だと考えられており、サイコパスにとっては規範的な力を持っていない。

  • (B)道徳的見解の相違

・初期の研究によれば、サイコパスはコールバーク流の道徳推論課題で低い段階にしか達しない(Fodor, 1973; Jurkovic & Prentice, 1977)。ただし、差は無い(Chandler & Moran, 1990; Trevethan & Walker, 1989; O’Kane, Fawcett, & Blackburn, 1996)、むしろ高い(Link, Scherer & Byrne 1977)という研究もある。 
・しかし、O’ Kane et al., (1996) の被験者でサイコパシーチェックリスト(Hare, 1991)の規準を超えているのは一人しかいない。また、C&M (1990) や T&W (1989) からは別の興味深い違いが見えてくる。
・C&Mは質問紙でサイコパスの道徳的・社会的態度を調査した結果、強い自律の感覚と標準的な社会的規準や感情への強いコミットメントの欠如を見いだしている。T&Wは、より現実的状況ではサイコパスは自己関心の道徳的正当性の観点から道徳的推論を正当化することを見いだしている。どちらも、サイコパスは自分自身を例外にする事を示唆する。サイコパスにおいては、仮説的・三人称的判断が自分の現実的状況と行為に関する判断と整合していない。むしろ、自分に関しては道徳判断をしていないのではないか。

  • (C)サイコパスの喋り方

・サイコパスは不規則・不整合な発言をする事が多く(Hare, 1993)、評価語を使う能力が無いことが示唆される。また、Eichler (1966) はソシオパス的な非行者が「撤回」文をかなり多く使う事を示している(「ジョンは誠実な奴だよ。もちろん、ヤバいことに手を出してるんだけどね!」)。こうした文は、全体の発話によって前文が撤回されるため、話者の態度に関して聞き手に混乱を引き起こす(ムーア文に近い(Joyce 2006a))。サイコパスは自分が喋っている事がよくわかっていないように思われる。
・こうした能力の欠如は情動障害で説明できる部分があるだろう(普通情動を喚起する語がおかしな仕方で使われる:Hare, Williamson & Harpur, 1988)。実際、サイコパスは強勢による語への情動負荷をあまり区別できない(Williamson, Alpert, Pouget, & Hare, 1998)。関連して、サイコパスは会話中に非常に多くの「叩く」身振りをみせる(談話の中での概念的単位を区切ると考えられる)。ここから、サイコパスの思考はかなり小さなまとまりとして組織化されているとHare (1993) は示唆する。注意は素早く移り変わり、会話の筋を保つ事に困難をもつ(Gillstrom & Hare, 1998)。従って、規範的概念が含む思考の統一性を保持するのは、サイコパスには困難だと思われる。 
・これらの証拠を総合すると、やはりサイコパスの道徳判断なるものは「括弧付き」の意味で理解されるべきであり、動機の欠如は内在主義を反駁するものではない。

内在主義に反対するより良い事例?

・しかし最近Roskies (2003) は次のように論じた。VM患者は倫理的信念や判断に関しては無傷である。しかし、その道徳判断によって動機づけられる事が無い。このことは「倫理的負荷のある状況」における倫理的行動とスキンコンダクタンス反応(SCRs)増加の欠如からわかる。従って、道徳判断が内在的に動機的である事は無い。

ロスキースが標的にする内在主義

  • 標的

「動機が道徳判断/信念に内在的あるいはその必然的な要素である」と主張する動機内在主義

  • 標的じゃない奴

内在主義を実践理性に結びつけたり(スミス)、話を「普通の行為者」に限る内在主義

・後者は些末である恐れがあり、道徳判断の本性を明らかにしてくれないとRoskiesは考える。興味深い内在主義は道徳信念を他の様々な信念と分かとうと試み、動機付け力に着目する。Roskiesの敵はあくまでceteris paribus節を用いない厳密な動機内在主義。
・しかし敵は精確には誰なのか。Roskiesが念頭に置くような「厳密な動機内在主義者で認知主義者だが合理主義者で無い人」を見つけるのは難しいし、そういう人はふつう動機の不在を認知レベルの誤りの証拠だと見なす。

  • 【例1】McDowell (1979)

「世界自体は動機的に不活性な訳ではない」。有徳な人は動機付け力を持つ非自然的性質を把握する能力を持つ。有徳じゃ無い人は持てない。
……非自然主義的見解は〔経験的に〕検証/反証されうるものでは無く、これが標的とは思えない

  • 【例2】進化心理学的解釈

「動機的に不活性ではない」を「一定の自然的環境は道徳的反応を誘起する」と読む(進化心理学的解釈)
……この見解は普通に機能している個体にしか適用されないので標的ではない。
・【例3】道徳概念は厚い概念である(McNaughton (1988) のMcDowell)。
(適切に理解された)道徳語は記述と同時に情動的意味を持ち、道徳判断に至るプロセスも適切な肯定的状態を含む。
……これが標的っぽいのだが、はっきりとは分からない。なぜなら・・・

  • (1)こうした見解は厳密である必要が無い。例えば人が鬱のときに動機が防げられるということを認めても何の問題も無いだろう。逆に厳密性を採用すると真の道徳判断の数がかなり減ってしまうので、反例に対して殆ど無敵になってしまう。こんなのに勝っても嬉しくない。
  • (2)十分に認知主義的でないかもしれない。道徳語に記述的と情動的両方の意味があるというのはむしろ多くの非認知主義的見解の根本洞察である。また〔記述的側面に関して、〕Roskiesは道徳判断を法的判断と同じように記述的だと考えているようだ。しかしそこでRoskiesは、内在主義は〔「法は、私が○○すべきだと要求する」というように〕「道徳性は、私が○○すべきだと要求している」といった信念に関係すると考えているように見える。しかしこれは道徳規範の報告であって道徳判断ではなく、こんな信念を問題にしている内在主義者はいない。

・Roskiesはもっと明確化すべき。以下では単純に、Roskiesの引く経験的知見が内在主義的主張の全体的信用を掘り崩すかどうかという点に着目する。

道徳判断の5次元

・道徳信念/判断には5つの次元があると提案する。

  • 1.三人称:ある人が何をすべきか
  • 2.二人称:あなたは何をすべきか(対面でのアドバイス)
  • 3.一人称:私は何をすべきか
  • 4.アームチェア:仮説的な状況について、あるいはどのような道徳原理を採用すべきかについて
  • 5.その場:この実際の状況では何がなされるべきか

・Roskiesは問題とすべきなのは一人称のべき信念だという。しかしこれももう少し精確に見る必要がある。
・Roskiesは、判断は信念を含意するので信念内在主義を論駁すると判断内在主義も論駁できると考えている。しかし、べき信念はべき判断の必要条件だが十分条件ではない。べき信念があってもその場のベき判断に至らない事はある(その信念が頭に浮かばなかったのかも)。この場合に生じる信念と動機の乖離は、動機ではなく注意・記憶・推論などの失敗であり、内在主義を論駁するには不十分である。重要なのは、一人称でその場の判断だと考えられる。
・では経験的知見の検討に入る。Roskiesは次の事を示さなければならない。

  • (1)VM患者が関連する判断をなす事
  • (2)VM患者が(障害を受けていないとされる)道徳判断に従って行為しない(ようにみえる)ことの最善の説明は、道徳的動機付けに特定的な障害である。

VM患者における倫理的信念と判断

  • Rosikes第一の主張:VM患者は道徳に関する宣言的知識を保つ

・この主張の証拠は全てEVR氏の事例(Saver & Damasio, 1991)からとられている。ただしこの事例には2つ問題がある。

  • 【欠点1】

EVRに対して行われた道徳ジレンマ課題は三人称アームチェア問題になっている。その上、一般に仮説的ジレンマは実際に経験されるジレンマより成熟した道徳判断を引き出しやすく、サイコパス等の精神病理が影響するのは特に後者のジレンマである(Trevethen & Walker, 1989)。
ではEVRは関連する状況で一人称的べき判断をするだろうか? ヒントはある。社会的な問題に関する回答を思いつく必要がある課題において、EVRはいくつもの選択肢に思い当たっているのだが、「でも自分が何をすべきかは分からない」と言っている(Saver & Damasio, 1991)。同じような〔三人称と一人称の〕乖離は前頭に局所的損傷を受けた患者にも見られる(Struss, 1991)。

  • 【欠点2】

別の患者(Blair & Cipolotti, 2000)は道徳慣習区別にうまく正答しない。
もちろん、EVRの事例だけでも内在主義論駁には十分かもしれない。しかしその結論を出す前にEVRの実践的な障害に関する別の説明が無いか見てみなくてはならない(次節)

VM損傷に伴う道徳的動機

  • Roskiesの第二の主張:VM患者は道徳的動機を欠く

・この主張は倫理的負荷のある状況における行動と情動的反応を証拠とする。

倫理的行動

・Roskiesの主張のソースはフィニアス・ゲージとEVR。RoskiesはEVRの破産、離婚、不幸な再婚、就労を維持できない、計画を立てられないなどの特徴をひいて道徳的に不能である事の証拠としているのだが、EVRの行動が道徳的違反なのかという点は明らかではない(★)。例えば雇い主はEVRの遅刻や秩序の無さに不満を持っていたようだが(Eslinger & Damasio, 1995)、そのことはEVRが例えば(サイコパスのように)他人の権利や福利に興味を持たないといった人物である事を意味しない。
・さらに、EVRの行動障害は道徳的動機に特定的ではないように思われる。ダマシオらの記述によれば、EVRの障害は(一般に)意思決定の障害である。同様に、ゲージの事例に見られる責任感の無さや約束守れなさ(Damasio et al., 1994)も、一般的意思決定の障害に起因するものと見るのが尤もらしいと思われる。
・Roskiesは動機一般に関わる解釈と道徳的動機にのみ関わる解釈を比較しているが、あまり説得的でない。

  • 【議論1】VM患者はご飯を探したり食べたりする欲求を保存している

⇔ 彼をセルフケアや摂食といった日常的でルーチンな活動に従事させるような、内的で自動的なプログラムの証拠となるものは無い」(Eslinger & Damasio, 1995, p.1738)。

  • 【議論2】味判断や美的判断は影響されてないように見える

⇔ EVRは古くて役に立たない持ち物を捨てられない。小さな買い物や何を食べるかでも意思決定できない。

  • 【議論3】(★に関して)約束を守る・責任を果たす・真実を言う等の様々な行為も道徳的行為として数えるべき。

⇔ 一般的な動機の障害でもそれらの行為の失敗は説明できるし、〔いずれにせよ〕EVRが自分のために人を傷つけたとか嘘をついた報告は無い。ゲージには空想を根拠に喋っていたという間接的報告があるが(Harlow, cited Damasio, 1994, p. 11)、詳細は分からないし意図的に嘘をついていたのとは違うようにみえる。

  • 【議論4】RoskiesもVM患者が暴力的なのは稀である事を認める。しかしこれは、脳損傷以前に深刻な道徳違反を防ぐ習慣が形成されたからだという。証拠として早期にVMを損傷し、暴力的な患者(Anderson et al., 1999)を挙げる。

⇔ しかしVM損傷前に形成されていただろう食事習慣が影響を受けるのに、なぜ暴力に反対する習慣は残るのか、Roskiesは説明していない。Anderson et al. (1999) 自身の解釈は、「VMは道徳的知識の学習に必要だ」というもの。そうすると早期のVM患者には道徳理解に障害があると考えたくなる。

倫理的負荷のある状況における感情的な応答性の欠如

・行動の失敗は動機の欠如を示唆するがその証拠ではない。そこで、倫理的負荷のある状況でVM患者は生理学的相関物のレベルでも適切な情動や動機的反応を欠いているというRosikiesの主張が重要になる。ここで引用される証拠は2つ。

  • (A)VM患者はアイオワギャンブル課題中に「ソマティックマーカー」(意思決定中の先行的なSCR)を発現させない(e.g. Bechara et. al., 1997)
  • (B)VM患者は社会的刺激に関して通常のSCRを示さない(Damasio et al., 1990)

・ここでは2つの反論をおこなう。

  • (1)VM患者がSCRを示さないのは倫理的負荷のある状況ではない。

・勝率が最も高くなるようなカードの組を学習するというアイオワギャンブル課題はもちろん倫理的な課題ではない。
・また社会的刺激というのは社会的災害・身体切除mutilation・裸体などの図であり、これが倫理的負荷をもつと言うならば、被験者は特に教示無しに図に関して倫理的な判断を行っていると想定しなくてはならない。これはあり得なくはないが証拠は無い。この実験では単に図を見るだけの「受動条件」と、図を見て何かコメントし好きか嫌いかを言う「能動条件」がある。能動条件では倫理的判断してそうだが、この条件下ではVM患者が示すSCRは通常なのである。

  • (2)SCRは行為の動機の信頼可能な指標ではない

・SCRが道徳的動機を表象するとRoskiesが主張するとき、これはダマシオらの解釈から外れている。ダマシオらの支配的な見解によれば、SCRが表象しているのは、意思決定を導く考察を行っている際の、刺激あるいは見解の情動的価値に関するcovert/overt な知識である(Bechara et al., 2000a)。ソマティックマーカーは選択肢の数を減らす機能を持ち決定プロセスの制度と効力を上げるもので、VM患者の障害は「推論」プロセスの後ろの方の段階に現れる(Damasio 1994)。

要約と結論

  • 1.EVRの道徳判断は三人称的仮説的判断で、Roskiesがテストしたいものではない。
  • 2.EVRの行動が非道徳的であるとは記述しがたい。
  • 3.VM患者が道徳的動機に障害を持つという主張は支持できない。

→従って、Roskiesは道徳判断と道徳的動機の間の乖離を示せてはいない。

・さらに言うと、道徳理解に障害を持つ患者JSが明らかに倫理的配慮を欠いた行為をすることは興味深い(Blair and Cipolotti 2000)。これはAnderson et al., (1999) の早期のVM患者と同じ行動パターンである。また発達性のサイコパスは、道徳理解の障害(Blair 1995)と道徳的行動の障害や反社会的行動(Cleckey, 1950; Hare & McPherson, 1984)の連合を示す。
・つまり、これまでのところ臨床的な研究が外在主義を支持する例はなく、むしろ道徳行動の障害と道徳理解の障害の連合を一貫して支持している。このことは内在主義に対する決定的な証明にはならないが、その全体的な信用を高めこそすれ堀崩す事は無い。
・EVR以上に外在主義に都合の良さそうな事例が出てくるかもしれないが、それまでは議論の中心は様々な内在主義の間ということになるだろう。