えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

意思決定における「2つの心」 Evans (2010)

Thinking Twice: Two Minds in One Brain

Thinking Twice: Two Minds in One Brain

  • Evans, J. (2010) *Thinking Twice: Two Minds in One Brain* (Oxford University Press)

Ch.1 The Two Mind Hypothesis
Ch.2 Evolutionary Foundations
Ch.4 Two Ways of Deciding ←いまここ
Ch.5 Reasoning and Imagination
Ch.8 The two mind in action: conflict and co-operation

・日常のおよそあらゆる場面で我々は、「他のこともできた」という意味での「意志決定」を行っている。しかしここでは、我々が「自分が決定を行っていることを知っている場合」〔つまり、普通の意味での決定〕をあつかう。
・しかしこれは、「反省的な心が関わっている決定を扱う」という意味であり、「反省的な心が行っている決定」を扱うということではない。意志決定は必ずしも反省的思考の結果ではなく、情動的なものや直観的なものがありうる。問題となる意志決定の例として、
A:友達を尋ねたらコーヒーを飲むか紅茶を飲むか聞かれた
B:ヘッドハンティングの人が仕事を変えないかと誘ってきた。給料は高くなるが、すぐに遠くへ転勤しなければならず家族がバラバラになるのは必定である。
・BはAより明らかに重要であり、さらにこれまでしたことない新たな決定である。一方でAに関しては習慣的な答えがあり、普通は直観的に答えを出すだろう。
・また、意志決定に関係した様々な種類の判断がある。意志決定は関連する事象の「予測」の判断に関連する。ただし、Aでの予測が単なる過去の経験の外挿にすぎないのに対し、Bではより複雑なシミュレーションを行う必要がある。
・また、直観的な決定には普通「正しい感」が伴っている。

株をやる

・この章の目的:決定における直観的な心と反省的な心の相互作用について論じる
・〔選択について理解するために〕まず市場について簡単に考察する。自由市場は合理的で熟慮的な判断を反映した形で動く。しかし群衆効果(パニック売りなど)が起こったりもする。こうした社会的影響は深く直観的な心に根を持つが、誤った情報に基づいて反省的に推論した結果生じてくることもある。
・また、市場は不確実性にさらされてもいる。市場に反映される反省的な判断は、将来に関する予測を含むものであらざるを得ないからである。

合理的決定の理論

・60年代以降、心理学は合理的決定に関する理論を経済学から借りてきた。なじみ深いのはゲーム理論である。ゲーム理論によれば、合理的な行為とは意思決定者の利益を最大化/損失を最小化するものである(不確実性な状況下では「期待」効用が問題となる)。
・合理性に関するこの理解から離れるのは難しい。自然選択は(生殖と生存の観点から)遺伝子にとっての期待効用を最大化しているし、スキナー的な学習も同じ原理をもつ。そうすると、遺伝子の力と経験による学習によって動く直観的な心は、経済学的な意味で合理的だと考えられるかもしれない。しかし良く検討してみると、人間が合理的であるためには反省的な心を持たなければならないと分かる。それは、合理的な人間は、単に過去によるだけでなく「未来について」計算をする事が期待されるからである。
・いま、リスクのある決定の例としてカジノでのギャンブルを考える。ゲーム理論は、平均して負けよりも勝ちが多くなる場合には、ギャンブルを行うべきだと教える。しかしギャンブルは長期的にみるとカジノの方が勝つようにそもそも出来ているので、我々はギャンブルをすべきではない。ところが多くの人はギャンブルに参加するので、ここにゲーム理論の問題があるよう思われる。
・ギャンブルに対する〔否定的な〕社会の態度を考えれば、ギャンブルは本当は不合理なのだと言ってやれなくもない。しかしギャンブルと同じ構造はあらゆる種の「保険」にも言える。保険に加入することが合理的であるなら、ゲーム理論は合理的決定の理論としてはうまくいっていないことになる。
・実際のところ、保険に加入する人は期待効用ではなく最悪の事態に焦点を当てている。保険を販売することと加入することは、どちらも合理的であり、しかし別の規則の下でそうなのだと考える事が出来る。
・もちろん、人々は金額に主観的な価値づけを行うと仮定することで、経済的な決定を「合理的」なものに見せることはできる。カーネマンとトベルスキーのプロスペクト理論はこの点で良い記述理論である。一般的に、人は将来の利益について考える時にはリスク回避傾向にあり、損失について考える時には追求傾向にある。さらに、人は極めて低い確率に重みづけしすぎる傾向も持つ。このため我々はギャンブルに手を出すのである。
・プロスペクト理論は経済学的に重要だが、しかし我々の関心である、決定の基礎にある心的プロセスについては何も教えてくれない。別の研究をみてみよう。

認知バイアスにおける直観と反省

・直観的な判断は、実験室状況で多くの認知バイアスを生み出す角で、歴史的に見てだいたい悪い扱いを受けてきた。直観を定義する特徴は、「その根底にあるプロセスに対して我々が意識的なアクセスを持たず、ただ正しい答えはこれに違いないという感じを持っている」というものである。さらに、反省的な心は直観に一見合理的な説明を作話するため、人はそれと気づくことなくバイアスにかかってしまう。いくつかの例をみてみる。

賛成・反対の理由

・「親Aは平均的な収入、健康状態で、子供ともふつうの関係を持ち、交友関係も安定している。親Bは高い収入で子供と密接な関係を持ち、社会的に極めて活動的で、仕事に関係した旅行にも頻繁に出かけ、健康上の問題も少ない。」
・以上の設定の下被験者に「あなたならAとBのどちらに子供の監護権を渡すか」と尋ねると、64%がB、36%がAを選ぶ。ところが「どちらに子供の監護権を認めないか」と尋ねると、55%がB、36%がAを選ぶ。これにはどこかおかしいところがある。Bは良い親と悪い親には同時になれないはずである。
・これは、問いのフレーミングによって情報の異なる側面が注目されることによって起こる(「渡す」場合は肯定的情報、「認めない」場合は否定的情報)。そしてこの事例は、決定における直観的な心と反省的な心の相互作用を良く示している。すなわち、反省的な心による推論によって判断が下されるのだが、その時に利用される情報は既に直観的で無意識の過程によってあらかじめ決定されているのである。

結果バイアス

・「外科医は心臓病の55歳男性を手術するかどうか考えている。手術を受けると苦痛がなくなる65-75歳程度まで生きることができるようになるが、過去同じ手術を受けた8%の患者は死んだ。外科医は手術することに決め、結果患者は生還した。」
・この外科医の決定がどのくらい良いものだったかを一群に問い、別の群には、最後に患者が死んだシナリオを渡したうえで同じ質問をすると、後者の群では外科医の決定はより良くない方に判断される傾向にある。これを「結果バイアス」という。
・ここからは、我々がある状況について判断を下す際、その結果を知ってしまっている場合、それに影響されずにはおれないことを示している。

あと知恵バイアス

・結果バイアスに関係した者にあと知恵バイアスがある〔あと知恵バイアスは、実際に起こったことは予想可能だったと考えてしまうバイアスである〕。
・あるサッカーチームが良い成績を上げることができなかったのだが、その明らかな原因は主力の3人が怪我をしていたことだった。あるスポーツ紙は1月の移籍市場の際に新しいフォワードを入れておかなかった角でマネージャをこき下ろしたが、この時点では怪我は発生していなかった。一方で、この時期にフォワードをいれなかったが、別に選手に故障が起きなかった別のチームのマネージャは賞賛された(実話)。
・マネージャがこの故障を予期して、選手を入れておくべきだったという推論は、反省的な心による推論ではあるが極めて疑問の余地がある。たしかに故障は予期すべきかもしれないが、その程度はシーズンによって極めて異なる
・反省的な心における最大のバイアスは、一つの可能性にしか着目しないことにあると思われる。反省的な心が考えられる可能性全てを分析することはめったにない。むしろ、直観的な心が特定の情報に注目し、それが分析される。結果バイアスとあと知恵バイアスも、実際に起こったことに注目が向う為に生じる。

選言効果

・過去に限らず、未来についても一つのシミュレーションしかしない傾向が人にはある。
・被験者は重要な試験を受け、また魅力的な旅行を予約する機会があるとされる。この時、「合格したなら旅行を予約するか」あるいは「落ちたなら旅行を予約するか」と尋ねると多くの人が「する」と答える。しかし結果はまだ分かっていないとされた群は「分かってからでも予約できるように手付金を支払う」ことを選択する傾向にある。なぜこんな無駄遣いをするのか。
・ひとは何らかの理由により、受かった場合と落ちた場合のシミュレーションを組み合わせることが出来ないのである。

直観の力(っぽいもの)

・二重プロセス理論者は、一般にバイアスを直観に、正しい推論を反省に帰す傾向があるが、反省的な心が経済学的な意味で合理的であると考えるのは誤っていると思われる。そもそもわれわれが何を考えるかは直観的な心によってあらかじめ方向づけられており、推論と反省は必ずしもうまい結果を生むとは限らない。
・そこで、では直観的な心にだけ頼ればいいと考える人々が最近あらわれている(「こころ無いよ派」)。例えばGladwell (2005) は、専門家が素晴らしい直観的判断を行う無数の例に訴える。またGigerenzer (2007) は、進化によって我々には認知的なヒューリスティックスが与えられており、これが信頼可能で適応的な直観的決定を可能にすると考える。それ以上の情報は部分的に忘れた方がよい。例えばドイツの学生は、ドイツの市よりアメリカの市の大きさの方を精確に答えられる。情報が少ないので、聞き覚えのある市の方が大きいと単純に判断できるのである。
・また別の論点として、利用可能な情報が多すぎる場合の決定について考えてみる。伝統的な決定理論によれば、まず「関連するすべての情報」を適当に重みづけすることが必要である。この重みづけは、大変複雑なものとならざるを得ない。
・ここでもグラッドウェルとギーゲレンツァーは同じ路線を採る。グラッドウェルは、少ない手掛かりの集合だけに反応するような単純なアルゴリズムに従った方が良いと主張する。またギーゲレンツァーは最もよい予測力を持つ情報だけに頼れと言う「一点突破」ヒューリスティックを勧める。
・「手掛かりが多い場合には考えない方がよい」という主張は、いくつかの心理学実験によっても支持されている。例えばWilson & Schooler (1991)は、ジャムなどの好みを内省で分析した大学生は、専門家の判定との齟齬が大きくなることを見出した。
・さらにDijksterhuis (2004) は、「無意識的」熟慮によってより良い決定が出来るとする。ディクステルホイスによると、決定までに時間的猶予があり意識的熟慮が求められる条件よりも、同じ猶予の間に妨害課題によって意識的思考が妨げられる条件の被験者の方が回答の成績が良い。この増加分が、無意識の推論プロセスに帰されている。

こうした主張の何がまずいのか

・「こころ無いよ派」にはいくつか問題点がある。まず、判断は「速い」からといって直観的だと言うことにはならない。Betsch (2008) が指摘するように、近年の心理学は、早い判断のうちに「直観的判断」と「ヒューリスティックによる判断」を混同している。直観的判断は直観的な心に属し、「正しい感」を伴う。そして確かにグラッドウェルが引く専門家の直観的判断は有効な事例だが、記述の認知バイアスのような直観的判断も多数あり、ある状況で有効な直観が別の状況でも有効である保証はどこにもない。
・そしてベッチが論じるように、「ヒューリスティックによる判断」は「反省的な心の」速い活動である。ギーゲレンツァーが単純な規則に従う医者について語る時、この判断は明らかに反省的である。「感じ」ではなく規則を反映しているからだ。
・ギーゲレンツァー以前、カーネマンとトベルスキーは、ヒューリスティックスを「直観的」判断におけるバイアスと関連付けて論じていた。実際、認知的ヒューリスティックスもやはりバイアスにつながりうる。そもそもヒューリスティックのポイントは、それが真理を保証しないが単純な規則であると言う点にあり、実験のセッティングしだいで良くも悪くも見える。
・もしヒューリスティックが進化によって獲得され、思考なしに自動的に適用される単純な備え付け道具だとすると、いくつかの状況で深刻な形で誤適用されうるだろう。これ対しギーゲレンツァーは、ヒューリスティックは文脈に従って選択されるので、有用な状況にしか適用されないと論じた。ここで、ヒューリスティックが有効とされる「都市の大きさ当て課題」についてもう一度考えてみる。もしヒューリスティックが思考なしに適用されるなら、実際は小さいが(例えば最近訪れたので)認識的価値が高い都市名を出された場合、大きさは大きめに見積もられる筈である。しかし実際は、その都市は大きくないと言う知識の下、その都市は小さいと判断されるだろう。従って認知的ヒューリスティックは反省的な心のコントロール下にある。
・また、ウィルソンやディクステルホイスの課題は、関連する情報が多いという、そもそも意識的反省で解くことが難しいものであり、これは直観的な心が反省的な心より良い成績を収める理想事例になっている。だから、この状況下では直観に頼った方が良いということまでは言える。しかしディクステルホイスの主張はさらに強力で、人々は「無意識的な熟慮」で問題を解いている、というものである。彼の証拠はこの強い主張を支持するようには見えないし、それどころか最近この効果の再現性が疑問視されている。

直観が我々をがっかりさせるのはいつか:確率の場合

・我々の確率に関する直観的理解がひどい代物だということには多くの証拠がある。特に根本的なのは、我々にランダムだと感じられるものがそうではなく、またその逆もあるという問題である。例えばルーレットのようにある出来事の系列がランダムかつ試行独立に生起する場合、二種の結果が交互にあらわれるように我々には思われてしまう。このことのもっとも重要な帰結がギャンブラーの誤謬である。この誤謬は「正しい感」に基づくもののヒューリスティック的な規則の事例であるようにみえる。しかしその根源は直観的な心の方にある。確率の訓練を受けた者にもルーレットの色は交互に出ると強烈に思われてしまうからである。
・我々はランダムなプロセスを見てもそうだとは思わず、誤った因果を帰属させてしまう。例えば、バスケのファンは一度シュートを決めた選手はまた決めやすいと信じているが(「ホットハンド効果」)統計によればそんなことは全くない。
・最も興味深い直観の誤りに「モンティ・ホール問題」がある:「ドアA・B・Cがあり、一つの後ろには景品の新車、2つの後ろにはヤギ(外れ)がある。一つのドア(例えばB)を選ぶと、モンティは残りの内1つのドアを開け(例えばA)そこにはヤギがいる。この時プレイヤーは、あけるドアを変更しても良いと告げられる。そのままにすべきか、それとも変更すべきか?」
・多くの人はそのままと答え、車がある確率はBもCも50:50だと考える。しかしこの直観は誤っている。実際はCの背後にある確率が2/3であり、手を変えるべきなのである。
・と言うのも最初の選択はランダムでBにある確率は1/3だが、Aが開いたことでB以外に入っている可能性のある場所はCしかないと分かった。Bにある確率は1/3のままなので、Cの方が2/3になる。ここでは、確率というのは観察者の信念であって、本人の知識に相対的だと理解することが重要である
・関係する問題として次のようなものもある:「子供の性別が50:50で男女になっているとする。ある夫婦には二人子供がおり、一人は男の子である。もう一人が男の子である確率はいくらか?」
・多くの人は1/2と答えるが、正解は1/3である。初めに2人の子供に関して(1)男男(2)男女(3)女男(4)女女の可能性があり、一人が男だと分かることで(4)が消えた。のこりの三つの確率は等しく、そして両方男なのは(1)しかないのだから、答えは1/3なのである。
・こうした例からも、ギーゲレンツァーの意味での直観は、確率に対しては信頼できないことがわかる。

結論

・直観も推論もどっちも重要だよ