Moral Psychology: The Evolution of Morality: Adaptations and Innateness (A Bradford Book)
- 作者: Walter Sinnott-Armstrong,Christian B. Miller
- 出版社/メーカー: A Bradford Book
- 発売日: 2007/10/19
- メディア: ペーパーバック
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- Sinnott-Armstrong, W. ed. (2007) Moral Psychology: The Evolution of Morality: Adaptations and Innateness
- Ch.2 Cosmides. L. and Tooby, J. Can a General Deontic Logic Capture the Facts of Human Moral Reasoning?
- Ch.5 Tse, P.U. "Symbolic Thought and the Evolution of Human Morality" (noscience!)
- Ch.6. Sripada, C.S. "Nativism and Moral Psychology: Three Models of the Innate Structure that Shapes the Contents of Moral Norms"
- Ch.7 Prinz, J. Is Morality Innate? ←いまここ
・近年、多くの研究者が道徳は生物プログラムの一部であると考える傾向にあり、脳内の道徳モジュールの探求も始まっている。これに対しプリンツは、道徳は普遍的だが生得的ではなく、別の目的のために進化した能力の副産物であると考える。
道徳とは
・道徳はある種の規範である。プリンツは、「道徳情動」に基礎づけられる規範が道徳的規範だと考える。道徳情動には「賞賛情動」と「非難情動」があり、前者には感謝や尊敬、後者には怒り、軽蔑、嫌悪、反感、憤慨/罪悪感、恥などが入る。
・ある規範が道徳的であるための条件は3つある。(i)その規範が少なくとも自分と他人双方に向けられる情動を引き出す:(ii)道徳を基礎づける情動は、自分が直接関係しない場合の第三者にも向けられる:(iii)成熟した道徳判断はメタ情動によって強化される(人が悪行をしたが罪悪感を持たない場合、私はこの人の行為及び反省のなさに怒るだろう)。
・この見解「感情主義」には3つの証拠をあげられる(詳しくはPrinz (2007)をみてね)。(1)情動を誘発させることで道徳判断が変わる(Wheatley and Haidt (2005))。(2)感情の障害が道徳盲を帰結する。(3)情動と道徳判断の間には概念的関係があると思われる。他人がある行為をすると怒り、自分がそれをしたら後悔する人は、「その行為が悪い」という道徳信念を信じていることになっている。
生得性とは
・生得性とは、だいたい次のように特徴づけられる概念である。
- ある心理学的な表現形Pが生得的なのは、それがPのための心理学的メカニズムによ って獲得される場合である。
・ただし、生得的な特徴といってもその柔軟性には程度がある。
- 【虫特性】多くの虫の行動のように、固定した形で現れほとんど変化しない特性。
- 【ベラ特性】ベラが特定の状況下で性を変える(二択)ように、限られた環境に応じて現れる特性。言語能力にはベラ的な規則(パラメータ)が含まれるのかも。
- 【ムクドリ特性】ムクドリの歌まね能力のように、かなり開かれた〔変化の〕範囲を持つが、汎目的的な学習システムではないような特性。知覚的なプロトタイプを学習してカテゴリー化に使う能力など。
・他方、その他の能力の副産物であるような特徴もある。汎目的的な学習システムを用いて、ハトはピアノを演奏し、人間は運転する。また、有害物質を排除するという特定の目的のための能力を用いて、ノミはボールを蹴る。
・道徳が虫的なら、ロバストな道徳的普遍があるはず。ベラ的なら、同一の図式的な道徳規則のうえに、固定した数の変種があるはず。ムクドリ的なら、道徳の獲得はその他の学習メカニズムに訴えては説明できないはず。各々の仕方での生得主義擁護を検討する。
道徳は生得的か?
普遍的規則
・普遍性から道徳の生得性を導くには、(1)道徳的普遍があり、(2)それに対し尤もらしい非生得的な説明がなく、(3)それは道徳領域に特殊な生得的機構を必要とする、の3点が示されなくてはならない。ここでは(1)の強い形式「「特定の内容の」道徳的普遍がある」という主張に焦点を当てる。
- 【危害の禁止】
・ありそうな普遍的道徳規則として「危害の一般的な禁止」がある。しかしこれが普遍的である証拠は薄い。危害が容認されることは抑止されることと同じくらい一般的で、しかも誰がいつ危害を加えられても構わないかに関しては相当の文化差がある。
・勿論、多くの文化は「何らかの」危害は禁止するが、これは社会の安定性の維持の条件である〔ために禁止されると〕非生得的に説明できる。さらに、多くの文化が危害を禁止するのは、それが利得を生まないからである。だから問題の道徳的普遍は、よくて「利得が害悪を上回る場合のみ危害を加えよ」という、理由なき行為を排除する瑣末で一般的な主張の一例にしかならない〔ので、「道徳が」普遍的だと主張はできない〕。
・他人が苦痛を受けるのを見るのを好まないという事実は、人間の持つ苦痛に反対する生得的素質を示しているかもしれない。しかしこれは別に「道徳的な」素質ではない。〔苦痛を感じる際の〕叫びは同族に警告を発するものであり、これを聞くのが他の人間にとってストレスであることは何の不思議でもない。
・しかしBlair 1995 によると、人間には、攻撃相手が苦痛の表出を含む服従のサインを示す際、攻撃を停止することで同一種内の闘争を防ぐ「暴力抑止メカニズムVIM」がある。すると、他人の苦痛を好まない事は、まさに生得的道徳能力の一部と言えるのでは?
・違いそう。同族攻撃が進化したのは殺害ではなく恐らく支配のためであり、力を控えるのは別に道徳的な行為ではない。そもそもブレアのVIMは思弁的すぎ、その証拠とされる「他人の苦痛を好まないという事実」は別様に解釈できる(上述)。
・さらに言うと、社会化され、愛着を持ち、群れることに価値を置く我々は、生得的に友好的である。友好的である事それ自体は道徳的素質ではないが、道徳的含意を持つ。愛する人が害されることを我々は好まない。危害の禁止は、互いにポジティヴなまなざしの副産物なのかもしれない。
- 【共有と互酬】
・人間は広く財を共有・互酬し、これは道徳的に賞賛される。共有と互酬はほぼ普遍的だが、しかし大きな文化差もある。平等概念の文化差を比較するために、15の小社会に最後通牒ゲームを用いた調査がなされた(Henrich, Boyd, Bowles, Camerer, Fehr, & Gintis, 2004)。西洋でオファーされる額の平均は総額の45%だったが、例えばペルーのマチグエンダでは26%だった。共有の量は生物学的に規定されていない。
・しかし程度は別にせよ、共有へ向かう生物学的素質はあるのかもしれない。しかしこれには非生得的説明ができる。財を持つ者は共有する誘因がある。盗まれなくなるし、友達を作る事ができる。あなたに良くしておくと、あなたも良くしてくれるかも。
・そして互酬性の方も文化的説明ができる。互酬は協力を促進するが、協力はその文化での農業や狩りが大規模な場合不可欠で(こうした文化の人は最後通牒ゲームの平均が50%に近い)、文化的実践に役立つよう互酬性が現れたと考える理由がある。
・実際進化ゲーム理論者には、非血縁的互酬性は文化的に構築されているに違いないと論じるものもいる。気前良さが遺伝的に決定されるものなら、フリーライダーを生む遺伝子に負けて、この遺伝子は生き残れなかったはずである。一方で文化的に気前の良さを教えこめば、文化のほぼ全ての成員が互酬的になり、フリーライダー問題は減る。
- 【インセストタブー】
・親族に対して性的関係を持とうと思わない傾向はかなり普遍的で、遺伝的な説明まで付く。これは道徳生得説の良い事例になっているのではないか?
(1)しかしまず、直系家族以外との性交は普遍的に禁止されているとは言い難い。世界の20%程度の配偶はいとこによる結婚であると見積もられている(Bittles 1990)。
(2)そして次に直系家族との性交の禁止だが、これは発生論的に言って、我々の種、従って道徳よりもさらに古いものなのではないだろうか。そうだとすれば、我々は近親相姦を避ける生得の傾向性を持つが、それを禁じる道徳的な規則を持つ訳ではない。そもそも、何かを自然に避けることに、それを避ける道徳的規則は必要ない。
・近親相姦回避が近親相姦「タブー」になるには、近親相姦者が罰せられ、恥を知るよう条件づけられなければならず、文化的な力が必要である。そうだとすれば、タブーを持たない社会も多数あるはずである。実際「タブーを」持つのは世界の文化の44%ほどであり(Thornhill 1991)、生得的な「道徳」規則があるという主張は疑わしい。
普遍的領域
- 【ハイトとジョーゼフの「4つの道徳領域」】
・特定の道徳的教えは可変的だが、より広い道徳カテゴリーは普遍的だという生得説がありうる。まずはHaidt and Joseph (2004) に着目する。ハイトらによると、道徳規則は特定の情動によって統制される4つの領域に分けることができ、それは生得的な心的モジュールに対応している。領域自体は普遍的だが、特殊な内容は文化によって決定される。4つの領域とはすなわち、(1)「苦痛」:共感・同情を引き起こす、(2)「階級」:反感・尊敬によって強化される(3)「互酬性」:その違反が怒り・罪悪感を喚起する(4)「純潔」:その違反が嫌悪を引き出す。
・(A)道徳領域は普遍的か? :しかしハイトらも認めるように、4領域のどれを強調するかは文化によって違う(西洋文化は(1)を強調する)。この事実は、4領域は普遍的だが普遍的に「道徳的」である訳ではない可能性を開く。実際Haidt, Koller and Dias (1993)によると、アメリカの大学生は鳥の死骸との獣姦を嫌悪するが不道徳だとは思わない一方で、ブラジルの社会経済的地位の低い人々はこれを道徳的に非難する。またRead (1995)によれば、パプアニューギニアのガフク・ガマ族は、危害を加える事を不道徳だとは思わない(危害が自分の社会集団の成員に及ぶ場合を除く)。
・(B)その領域は学習できないのか? :ハイトらが考えるように上述の情動は生得的だとすると、〔生得的な領域を要請しなくとも〕それらの情動の存在のみから、道徳規則が各領域に分かれる事が説明できる。例えば嫌悪の場合、人間は様々なものを自然に嫌悪する。もしある社会が特定の行動を道徳的に非難するために、その行動と自然な嫌悪対象との間の類似性に注意を促せば、その行為に対する自己/他者非難が心に刻まれるようになるだろう。この時には、この文化の成員の道徳的な心理のうちには「純潔の領域」があると言える。
・(C)その領域は本質的に道徳的なのか? :結局のところ、4領域は確かに普遍的だがそれが本質的に道徳的だとは思われない。嫌悪したり共感することそれ自体は道徳判断を下すことではなく、各々の情動には非道徳的な適用のされ方がある。情動が道徳的な役割を果たすためには、それが〔文化によって〕「道徳感情」へと変換されていなければならない。つまり4つの道徳領域は、それ自身は非道徳的である基本的な情動の副産物であると考えられる。
- 【道徳的規則があるということが普遍的だよ派】
・そもそも道徳を持つという事が普遍的なのだと考える論者もいる。Turiel (2002) やNucci (2001) は、人間は全ての文化で道徳的規則と慣習的規則を区別すると主張した。この際道徳的規則は、(1)慣習的規則より深刻である(2)被害者が苦痛を被る事に訴えて正当化される(3)権威とは独立した客観的な真理だとみなされる、の3点で操作された。
・問題は、この基準が「道徳」という名に値する領域を適切に切り取っていない点にある(以下Kelly and Stich (forthcoming) に負う)。まず、(1)深刻でない道徳規則は普通に存在するし(「最後のお菓子はまず折半を申し出よ」)、逆に深刻な慣習的規則も存在する(「裸で仕事しない」)。次に(2)内在的に苦痛を伴うが道徳的に許されているものは普通にあるし(刺青)、逆に苦痛を伴わないが道徳的に許されないものもある(国旗でトイレ洗う(Haidt et al, 1993))。最後に、(3)権威に依存している道徳規則は普通にあるし(「神の命令」)、逆に権威から独立だが道徳的でない規則もある(「腐った肉は食べるべきではない」)。従って、たとえこの3基準で人が普遍的に規則を区別していても、人が「道徳」/慣習区別を把握しているとは言えない。
・そもそも、道徳的/慣習的と言う区別が排他的な規則の「種類」の区別だとは思われない。日本における「室内で靴を履いてはならない」という規則は一見慣習的だが、室内で靴を履くのは一種のディスでもあり、この規則は道徳的なものでもある。結局道徳/慣習という区別は、規則の「種類」ではなく、規則の「側面」の区別だと考えられる。規則の中でも、一定の情動パターン(上述)を基礎に持つ側面が道徳的であり、そうでないものがただの慣習である。
・しかしここで生得説論者は、その「道徳情動に根拠を持つ規則」をこそ全ての文化は持つのだとすぐ応答してくるだろう。プリンツとしては確かにそうだと思うが、しかしこの普遍性は、生得性の証拠にはならない。
・というのは、「4つの領域」を検討した時に示唆したように、道徳的規則はそれ自体では非道徳的な情動の副産物だと考えられるからである。情動的反応を条件づけることで人間の行動を変化させることが可能であるという事実を踏まえれば、「情動を基礎に持つ規則」が普遍的に見られることはそう驚くべきことではない(これがさらに「道徳感情に基礎を持つ規則」であるために何が必要なのかについては、最後の節で詳しく述べる)。
モジュール性
・脳の中に、機能及び解剖学的な意味での道徳モジュールを探す物もいる。一般的な認知資源を用いて獲得された能力が使用する表象や規則は、他の領域でも使用可能なことがおおいので、機能的モジュール性は生得説への支持を与える。また、生得的モジュールの最良の候補である感覚システムや言語は解剖学的に局在していることから、解剖学的モジュール性も生得説への支持を与えるだろう。
- 【裏切り者検出モジュール】
・例えば、Cosmides and Tooby 1992は、道徳に関係する4枚カード問題を人々がうまく解けることから、人間は裏切り者検出モジュールが存在しているのだと論じている。
・しかしこの実験には、課題間で構造的な類似性がないという欠点がある。すなわち、統制課題は「サラダを食べた女性は、ダイエットソーダを飲む」という「規則性」の真理を問うものであるが、道徳課題は「テレビを見ているなら、部屋を片付けたのでなければならない」という「規則」の真理を前提にし、違反者を見つけよと問う課題である。「規則性」の違反と違い、「規則」の違反は感情を喚起し、違反者を見つけるよう我々を動機づける。だから、規則性に関する推論と規則に関する推論は別のリソースを用いるものであり、一方でうまく推論が出来る事は何ら不思議ではない。
・裏切り者検出モジュールの存在を支持するためには、非道徳的「規則」と道徳的「規則」を用いた課題を対照させなければならない。ところがコスミデスらは、「プルーデンスに関わる規則」(「家に銃を置くなら、弾は抜いておけ」)を用いた課題もやはりうまく解かれることを見出している。ここからは、我々が持つのは裏切り者検出モジュールではなく、規則に関わる推論のモジュールであることが示唆される。
・しかしStone, Cosmides, Tooby, Kroll and Knight (2002) は、脳に損傷を負った結果、裏切り者検出課題はうまくクリアできないがプルーデンス課題はクリアできる人を見つけ出した。ここから彼らは、やはり裏切り者検出モジュールがあるのだと結論付けた。
・ところがこの結論は受け入れられない。この患者は、両半球の眼窩前頭皮質および扁桃体を含む古い側頭葉を広く損傷しており、社会的な領域に関する概念化一般に障害を持っていたと考えるのが理にかなっている。そして、裏切り者検出課題に正答するには社会的刺激に対して情動的に応答すること必要である。このため患者は裏切り者検出課題には失敗したのだろう。具体的には、患者は裏切り者検出条件が規則を表現している事を認知できなかった可能性がある。仮に認知できたとしても、規則違反に関わる情動が喚起されなかった可能性がある。いずれにせよ、この患者の存在は裏切り者検出モジュールの存在の証拠となるものではない。
- 【サイコパス・脳画像研究】
・Blair 1995は、サイコパスは道徳能力に選択的な障害があり、この障害はサイコパスにおいて前頭皮質と扁桃体における細胞の量が少ないことに関連していると論じた。これは確かに道徳モジュールの存在を示唆しているように見える。
・しかし、サイコパスは道徳領域特異的な障害を持っているのではなく、「否定的情動全て」に障害を持つのだと考えられる(このことは多くの研究によって確証されており、サイコパスの診断に関わる症候でもある)。既に述べたような、基本情動から道徳規則を構築するために必要な条件付けは、否定的情動なしには行えない。〔そのため、サイコパスは道徳に関しても問題が生じるのである〕。
・また、Oliveira-Souza, Bramati, and Grafman 2002は、「〔不快な〕道徳的情景」(身体的な暴行、放棄された子供、戦争など)および「不快ではあるが道徳には関係ない情景」(体の傷、危険な生き物など)を健常者に見せた時の脳活動から、脳内の道徳回路を同定しようと試みた。結果、眼窩前頭皮質および中前頭回の活動の増加がみられた。ここからは、道徳認知に特異的な脳の領域が同定されたと言いたくなる。
・しかし、このような解釈はできない。そもそも今同定された領域は多くの社会的認知課題にも関係している部位であり、さらに、両情景で活動する脳部位には大きなオーバーラップがあった(否定的感情に関わる部位)。とすれば、二種類の情景の認知の間の主な差は、「道徳的情景が社会的認知に関連する脳部位を刺激した」点にあると考えられる。従って彼らの実験は、彼らが意図したのとは正反対の結論:「道徳刺激は領域一般的な情動領域および社会的推論に関する領域を活性化させた」を支持しているのである。
刺激の貧困
- 【道徳/慣習区別の獲得】
・言語とのアナロジーから、刺激の貧困から生得性を主張する人々がいる(Dwyer, Mikhail, Hauserら)。Dwyer (1999) は、子供が明示的な教示を受けなくても道徳/慣習区別に対して感受性を持つ事が、生得能力の証拠となっていると論じた。道徳/慣習区別がよい区別だと認めたとして、しかしこの区別は生得的な能力なしには学習できないのか?
・できる。2つの規則は異なる推論パターンと結びついており、両者の違反は別様に扱われる。道徳規則違反は力づくの断定や権威への訴えで矯正されるだろうし、慣習的規則違反は分別や社会秩序に訴えて矯正される。つまり、二種類の失態は別々の結果を持っており、子供はそれを明らかに認知できる。とすれば刺激は特に貧困ではない。
・しかし、自分がまだ経験していない違反への一般化に関しては、刺激の貧困は依然として続いていると言われるかもしれない。いじめが悪いことは学ぶかもしれないが、そこから殺人が悪いという事にどうやってたどり着くのか(「帰納の問題」)。
・しかし、これは困難ではない。大人は〔いじめを叱責する時〕「人を傷つけてはいけない」と明示的に教えるのであり、これは新しい事例にも適用できる。生得論者は、刺激が不十分だが子供によって行われる帰納的推論の例をあげる必要があるが、なさそうである。
- 【野性児の例】
・道徳が生得的だと論じるのに、道徳教育を受けていない人間に道徳感受性の兆候があるかを見るという方法があるかもしれない。アヴェロンの野性児ヴィクトールは、二時間に及ぶ教育課程に対してただ褒められただけだった事に大きく反抗を示した、と養育者のイタールは報告している。ここに見られる不正の感覚は、道徳教育なしの道徳能力だと考えられないか?
・ないだろう。そもそもイタールはヴィクトールを教育しようと罰を与えたりしており、この手続きの中で正義の感覚は培われたのかもしれない。あるいは、イタールは状況を記述し誤っていて、この時は褒めないでつらく当ったので、期待された報酬が来ずにヴィクトールは暴力的にふるまったのかもしれない。この程度の反応はラットでも見せる。
固定された発達順
・予測可能な一定の段階を踏んで生じて来ることが、言語の生得性のひとつの証拠とされる。同様の議論を道徳でもしようとする生得論者は、コールバーグの道徳性発達理論に依拠するかもしれない。コールバーグは、以下の段階が発生論的に固定していると考えていた(ただし、各段階は社会的な経験によって学習されるとも考えていた)。
【1. 慣習以前レベル】 | 段階1:罰への恐れから行動を選択 | 段階2:自分の最善の関心を満たす行動を選択 |
【2. 慣習レベル】 | 段階3:「良い子」を志向するようになる | 段階4:社会的規範にかなった行為をするようになる |
【3. 慣習後レベル】 | 段階5:社会的契約によって義務だと感じられる行為を行う | 段階6:普遍的原理に従う行為を選択 |
・しかしこの戦略はうまくいかない。まず、これは「どのようにして道徳的見解を形成するか」ではなく「どのように道徳推論をするか」の理論である。前者は後者に依存すると思われるかもだが、道徳推論は後付けの合理化にすぎない証拠がある(Haidt, 2001)。そして道徳推論の発展は、道徳能力ではなく領域一般的な理性の能力の発展であろう。
・次に、実際の発達には諸段階の共存、省略、逆行などがみられ、線形には出てこないと言う経験的証拠がある(Krebs et al 1991; Puka 1994)。ま〜た、大人は段階4にほぼ留まる事が知られており、そこに達するのも10代後半20代位である(Mwamwenda 1991)〔遅い〕。また、道徳段階はむしろ教育の程度と相関しており、これは成長の産物であることが示唆される(Dawason 2002)。また、小規模の村や狩猟社会だと段階3でしか推論しないという文化差もある(Edwards, 1980)。
⇒コールバーグの諸段階が言語獲得の段階的発達と並行しているという根拠はない。
動物における前身
・他の種がある人間特性の初歩的な形を持つことを示し、その特性は初歩的特性に生物学的な進化が加わって現れたという主張を行うのがポピュラーになってきている。
- 【苦痛を見るのを避ける】
・例えばラット、ハト、サルは、別の個体が隣り合ったカゴで電気ショックを受けている場合には、えさの出るレバーを押すのをやめる(Church1959、Watanabe & Ono 1986、Masserman, Wechkin, & Terris, 1964)。しかし前述のように、他個体の叫びは警告でもあり、苦痛を受けるのを見るのを好まないことは、他個体へ関心についてはあまり教えない。Rice & Gainer (1962) は、ラットを空中に吊るしあげて喚かせると、地面にいるラットはただ見ているだけでなくレバーを押してそいつを下げようとすると示した。しかしこれも自分がストレスを受けるのを回避しているだけだと考えられる。
- 【公平性】
・Brosnan & de Waal (2003) によると、課題の報酬としてキュウリを与えられるサルは、もう一方のサルが同じ課題でブドウを受け取っている事を知ると、キュウリの受け取りを拒否する。これは公平性の感覚の萌芽だとブロスナンらは考えた。
・この解釈には説得力ある批判がある。Henrich (2004) は、キュウリの拒否は不公平さを増大させており、サルが公平性に反応していることはあり得ないと論じた。Wynne (2004) は、〔その辺に〕積まれているブドウをみたサルもキュウリを拒絶することに注目し、「視界にもっと良いものがあるときは二流の報酬を拒絶する」が自然な解釈だと論じた。
・これに対しBrosnan & de Waal (2004) は、積んであるだけの場合にはサルは数施行後にはキュウリを受け入れるという点で、見る条件とはやはり違うと応答した。しかしこの違いについては、公平さの感覚を持ちださずとも、置いてあるブドウより動く同族の方が強い刺激であるという点や、嫉妬によっても説明がつく。
- 【選択的互酬性】
・Hauser, et al (2003) はまず、サルは無私に自分に餌をくれた相手には互酬することを示した(相手にしか餌が行かないバーを互いに用意してやった)。そして次が重要で、サル1がレバーを引くと自分に1、サル2に3の餌が行くようにし、続いてサル2には、自分には何も出ないがサル1にエサ1が行くバーを引いて、互酬する機会が与えられた。すると、サル2は殆ど互酬しなかった。ここからハウザーらは次のように結論した。サル1が毎回自分でも(1の)餌を得ており、サル2へ無私に(3の)餌を与えてくれている訳ではない事をサル2は知っている。この行為は利己的な行為であってサル2には互酬する理由がない。このような選択的互酬はサルが利他性と利己性を区別していることの証拠であり、これは初歩的な道徳判断である。
・しかしこの結果は、萌芽的道徳感覚なしでも説明できると思われる。強化は、報酬が自分の行為の「結果」であるとサルが考えている場合にのみ働く。サル2は、自分が何をしようとサル1がバーを引くだろうと予測できる。サル2には、自分のバー押し行動に依存した報酬を知覚する機会がないため、互酬は起こらないのである。
- 【前道徳性・原道徳性】
・サルや類人猿が互酬するのは事実(de Waal 1996)だが、やつらが前道徳性を持つと言えるだろうか? 「前道徳性」は善悪の萌芽的な理解だと考えることもできる。この場合動物がプレ道徳性をもつのは、人間の道徳的動機と評価の進化的前身のホモログであるといえるような動機ないし評価を、その動物が持つ場合に限る。
・しかしどちらも、互酬行為をするサルや類人猿には帰属できない。互酬行動のあるものは思考なしの自動的なもので、またあるものは非道徳的動機に駆られているだろう(類人猿の食物共有は嫌がらせに結びついている(Steven, 2004))。高貴な動機をもつサルもいるだろうが、好き相手にはモノを与えるものであり、そこに道徳判断は必要ない。サルや類人猿が道徳的評価を行なえるなら、自己に向けられた非難の情動と第三者への関心の存在が予想される。しかしこれを支持する証拠は薄い(de Waal, 1996)
・ここで生得論者は、でもサルは「原道徳的」評価が出来ると食い下がるかもしれない。この語を「(自分や第三者へは向けられないが)相手へと向けられた非難の感情を伴う評価」の事だと理解する事は出来る。しかし、この種の類人猿と共有する生得のリソースを利用して我々が道徳化を行っているとしても、このリソースそれ自体は道徳的なものではなく、道徳に関する生得説の主張は支持されない。
道徳はどこから来るのか
まとめ:道徳が生得的なら期待できるもの
・虫的:普遍的な道徳規則/固定した段階を踏む種に典型的な発達パターン
・ベラ的:生得的な道徳領域
・ムクドリ的:道徳領域のモジュール性・刺激の貧困による議論の成功
⇒どれもなかった。少なくとも、道徳が生得的だと考える強い理由はない。
・宗教も道徳と同じく普遍的だが、こちらは人間の様々な認知能力の副産物だと普通考えられている。同じことが道徳にも言えるだろう。 重要な心的能力は4つある。
道徳に大切なこと
- 【1.非道徳的情動】
・情動的な条件付けによって、我々の生得的な情動から、行動規範が構成される。
- 【2.メタ情動】
・情動に対する情動も道徳に重要である。我々は(1)一階の道徳情動の不適切さについて判断するし、(2)人がどのような情動を持つべきかについての規範を持つからである。
- 【3.視点取得(心の理論)】
・我々が第三者に対する関心を持つのは、他者の視点を取得する能力にたけていることからの帰結だろう。
- 【4. 非道徳的な選好や行動傾向】
・互酬性や近親相姦の拒否などは、生得的な社会的行動の例かもしれない。これらは人間の情動的な性格と合わさることで道徳的なものになるだろう。
- 【社会的要因】
・全ての人間が直面する社会的な圧力もまた存在する。人間は集団で行動するので、行動の規則を考案してそれを伝えていく必要がある。人間の知能は、他人を出し抜く機会を増やし、フリーライダーにとって極めて役に立つ。これに対して文化は、その安定性を維持すべく罰の体系を生み出す必要がある。この問題は人間にとって普遍的であり、そして、我々がもつ心理的能力を考えると、また回答も普遍的である。すなわち全ての文化が道徳を構築しているのである。
感情主義の未来はまだまだこれからだ!
・以上のような示唆は荒っぽく思弁的だが、むしろこれはリサーチプログラムを提示する
ものと理解されたい。
・宗教が副産物にすぎないことから、これを排除すべきだと論じる傾向が一部にある。しかし同じことは道徳には言えない。道徳は社会的な協調問題に対する解であり、これがなくなると我々はひどいことになるだろう。
・かつて道徳感情論者たちは人間には一種類の道徳性しかないと論じた。しかし、道徳が構成されたものであるなら、それは幅の広いものであり、今日のわれわれのニーズに合わせて変化・改善することが出来る。道徳的変化の限界やそのために最適な技術を学ぶためにも、認知科学は役立つだろう。