えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

論理学の原理がそのまま推論の規範原理だよという描像に反論する Stein (1996)

Without Good Reason: The Rationality Debate in Philosophy and Cognitive Science (CLARENDON LIBRARY OF LOGIC AND PHILOSOPHY)

Without Good Reason: The Rationality Debate in Philosophy and Cognitive Science (CLARENDON LIBRARY OF LOGIC AND PHILOSOPHY)

  • Stein, E (1996) *Without Good Reason: The Rationality Debate in Philosophy and Cognitive Science* (Oxford University Press)

Chap 2 Competence (noscience!)
Chap 4 Charity
Chap 5 Reflective Equilibrium (noscience!)
Chap 7 Standard Picture ←いまここ
Chap 8 Conclusion

・人間の推論能力の中には推論規範に合致しないものがあると言う不合理性テーゼに反論する方法は2つある
(1)推論実験は不合理性テーゼを支持しないと論じる → うまくいかなかった
(2)合理性に関する標準的描像が誤りだと論じる ← いまここ
・標準的描像:推論には規範的な原理があり、それは論理や確率論の原理に基づいている
・この章では、標準的描像への反論を深刻でない順に3つ取り上げる。どれも標準的描像を打ち倒すのには失敗しているが、標準的描像も無傷ではおれない。そこで標準的描像の長所と短所を改めて検討し、代案として「合理性の自然化された描像」が提出される。その後、この描像とこれまでの章の結論との関係が検討される。

1 アクセス欠如論証

・人間が合理的か否かを探求する際には、探求対象となる当の推論原理が用いられている。とすると、不合理性テーゼは自己論駁的なのではないか? すなわち、もし不合理性テーゼが正しいとすると、不合理な推論者である我々にはそれが正しいと知ることが出来ないということにならないか?

1.1 自己論駁

・Mackie (1964) によると、自己論駁には3種類ある〔強い順に〕。

(A)絶対的自己論駁:X「私は自分が何も知らないことを知っている」
言明が自己論駁的/その言明を整合的に発話するやり方はない
(B)操作的自己論駁:X「私は自分が何の信念も持っていないと信じている」
発話が自己論駁的、言明は真でありうる/その言明を整合的に発話するやり方はない
(C)語用論的自己論駁:ジョージ「ジョージはしゃべれない」
発話が自己論駁的、言明は真でありうる/その言明を整合的に発話するやり方がある

・まず、より強力な主張として「人間の全ての推論は規範的原理を侵犯している」という「最大不合理性テーゼ」を考える。このテーゼは操作的に自己論駁的である。最大不合理性テーゼを主張することはそれを信じる理由があることを示唆しているが、もしこの言明が正しいならばそれを信じるいかなる理由もない。
・最大不合理性テーゼは不合理性テーゼを含意するので、不合理性テーゼの自己言及性に関して行える最も強い主張は、それが操作的に自己論駁的だというものになる。

1.2 認識論的なアクセス不可能性

・もし不合理性テーゼが操作的に自己論駁的であるなら、我々は不合理性テーゼを信じるいかなる証拠を手にできない。ただし、絶対的自己論駁の場合には可能なように、その言明が偽だと言う強い主張はできない。

1.3 不合理性テーゼは認識論的にアクセス可能か?
1.3.1 個別例:連言実験

・例えば連言実験を取り上げると、アクセス不可能性論証は次のように進むだろう。

(C1)連言実験の証拠から、人間の推論能力は連言原理を欠くと信じるべきである。(仮定)
(C2)もし人間の推論能力が連言原理を欠いているなら、人間の推論によって得られるいかなる結論を信じることも、人間には正当化されない。
(C3)連言実験の証拠から人間は連言原理を欠くと信じることは、人間には正当化されない(C1とC2による)
(C4)従って、(C1)と(C3)が矛盾する。仮定(C1)を棄却すべきである。

・しかし(C2)には二つの問題がある。第一に、人間の行う全ての推論が連言原理を必要とする訳ではない。第二に、たとえ我々の推論原理が連言原理から逸脱していても、リンダ事例のような場合でなければ、連言原理と一致した推論結果をもたらすかもしれない。この時には我々の推論は正当化されていると思われる。したがって、(C2)は次のように訂正されなければならない。

(C2’’)人間の推論能力が連言原理を欠いており代わりに原理Pをもっている場合、原理Pに基づくいかなる結論を信じることも人間には正当化されない。ただし、Pと連言原理が個別のコンテキストの中で同じ結論を出す場合にはこの限りではない。

・では(C2’’)は(C1)と組みわせた時(C3)を帰結するか? これは、「人間の推論能力は連言原理を欠く」に至る信念形成のプロセスが連言原理を必要とするか否かにかかっている。ただし、必要かどうかは全く明らかではない。

1.3.2 不合理というのはいつも不合理だということなのか?

・話を一般的に戻す。一般的なアクセス不可能性論証はこうなるだろう

(1)推論実験の証拠から、我々は不合理性テーゼを信じるべきである。(仮定)
(2)もし不合理性テーゼが真なら、人間は自分の推論能力に依存したいかなるものを信じることも正当化されていない。
(3)人間は不合理性テーゼを信じることについて正当化されてない。(1と2による)
(4)従って、(1)と(3)が矛盾する。仮定(1)を放棄すべきである。

・不合理性テーゼは人間の推論原理が規範原理から逸脱しているコンテキストがたくさんあると言う。(2)が正しいためには、人間の推論の全ての事例がこうしたコンテキストのうちどれかに入っていなければならない。これは流石になかろう。
・(C2)に対する二つの問題は一般化されうる。第一に、非規範的原理が全ての推論事例で用いられる訳ではない。第二に、我々の非規範的な推論原理が規範的原理と同じ結論を出すコンテキストがあり(具体的な選択課題とか)、この時の推論の結果は正当化されていると思われる。

1.3.3 「注意深い」認知科学者

・この二つの反論に対しアクセス不可能性論証の擁護者は(2)を改定するかもしれない

(2’)もし不合理性テーゼが真なら、人間は非規範的な推論原理に依存したいかなるものを信じることも正当化されていない。ただし、その推論が適切な規範原理に基づく推論と一致する場合はこの限りではない。

・(2’)と(1)から(3)を帰結させるためには、不合理性テーゼに至る信念形成の全てのプロセスにおいて、非規範的な原理が規範原理に一致しないコンテキストで用いられていると示さなければならない。これは困難であり、注意深い認知科学者なら不適切なコンテキストで推論原理を使うのを避けられると思われる。
・しかし、この認知科学者はどの場面でどの原理を避けるべきなのかをどうやって知るのか。あらかじめ避けるべきものが分かっていなければ、注意のしようが無いではないか。
・確かに一等最初は自分の推論が規範から逸脱しているか否か分からないかもしれない。しかし探求を進めつつ、これまでの自分の推論を振り返ってチェックすれば、そうした例はかなり減ると思われる。さらに、認知科学者の多さを考えれば、推論過程で本当に一切の非規範的な原理を用いていない幸運な人はいると思われる。
⇒アクセス不可能性論証の問題点まとめ:(1)仮に前提が正しくても、不合理性テーゼは認識論的にアクセス不可能になるだけで、偽だとはいえない。(2)不合理性テーゼは全ての推論が規範原理から逸脱しているとは言わない。しかしアクセス不可能性論証が成功するためにはなんとかこれを言わせなければならない。

2.人間の外に規範ないよ

・推論の規範原理は人間の推論能力に紐づけられていると主張する「人間の外に規範ないよ論証」も、標準的描像に反対する。この場合、人間の推論能力が〔経験的に〕何であると明らかになったとしても、その能力に埋め込まれている原則が推論の規範原理である。この議論は二ステップを踏む。すなわち、(1)人は、出来る限り最善に推論していれば合理的である;(2)推論能力に従って推論し運用エラーを排除していれば、我々はできる限り良く推論している。
・推論実験は推論能力を明らかにしていると解釈されるが、そこから不合理性テーゼは出てこない。我々が推論の規範原理に関して持っていた理想が間違っていたのだとされる。我々が合理的であることはアプリオリに真である。

2.1 類似性実験

・このような実験解釈はTversky (1977) の類似性実験にみられる。ここではあるカテゴリの中から幾つかの事物が選ばれ、被験者はそれらがどのくらい似ているか尋ねられる(「北朝鮮は中国とどのくらい似ていますか」)。類似性は対称的であり、推論の規範原理にも対応する原理(対称性原理)が考えられる。しかし被験者は対称性原理に従わない。
・ここでツベルスキーは、被験者が不合理なのではなく、類似性は対称的ではなく対称性原理は推論の規範原理としては誤りだと解釈した(「規範排除戦略」)。人間の外に規範ないよ論証は、われわれは常にこの戦略をとるべきだと示唆するものである。

2.2 反照的均衡による議論の単なるうつしではない

・この議論は、規範原理の決定と推論能力の決定には同じ手続きが用いられると考える反照的均衡による議論と似ている。しかし、反照的均衡による議論は標準的描像を維持した上で、人間の推論能力が規範原理から外れることを否定しようとした。一方人間の外に規範ないよ論証は、標準的描像を否定し、推論実験の結果が人間の推論能力と規範原理の両方に洞察を与えるものだと考える。
・第二章で、言語とは違い推論では規範が能力に紐づけられていないように一見思われると論ぜられた。人間の外に規範ないよ論証が成功していればこの直観は覆される。

2.3 人間の有限性の苦境/2.4 合理性の実践的描像

・人間の外に規範ないよ論証は、有限性の苦境を次のように利用する。すなわち、有限性の苦境ゆえに人間は論理・確率的原理に従った推論能力を行使することはできない;出来ない推論をやらねばならないと言うのは誤りである;だから標準的描像は誤りであり、有限性の苦境の下でも実行可能な規範原理をもつ合理性の描像を採用すべきである。それは「実践的描像」であり、「出来る限り最善に」推論している時、人は合理的である。
・「出来る限り最善」が一体何に関して最善なのかについては説明出来たとする。そのうえで人間の外に規範ないよ論者は、推論実験の下でも人が合理的であるとする議論を出す必要がある。ここで、実践的描像が「我々が実際に持っている能力は、我々が持ちうる最善の原理である」という楽観主義と結び付けられ、次のような議論が展開されうる。

(1)人間が合理的であるということは、出来る限り最善に推論しているということである(合理性の実践的描像)
(2)人間は出来る限り最善に推論している(人間の推論能力に関する楽観的描像)
(3)従って、人間は合理的である

・有限性の苦境によって(1)の擁護は成功したと仮定し、ここでは(2)を取り上げる。この楽観主義を支持する議論は、「我々は自分の持つ能力でしか推論できない」というものである。なぜ連言原理に違反した推論が最善の推論かと言えば、我々は推論能力の中に連言原理を持たないのでそれ以上うまく推論できないから、となる。
・しかしこの答え方には問題がある。例えば、「出来るだけ頑張った人にはAをあげる」という評価方針をとる学校があるとする。しかし、生徒に関するあらゆる要因を考慮に入れれば、結局生徒はテストの点数とは無関係に、かならずAに値する事になるだろう。このテストでは生徒の「能力」を測ることができない。同様に、実践的描像の上で楽観主義を採用すると、人間の推論能力を評価する事が不可能になってしまう。
・さらに、実際のところ我々は推論実験で「よりよく」推論できると思われる。有限性の苦境のために信念の整合性保持原理に従えない〔よりよく推論できない〕というのは分かる。しかし、連言原理に関しては同じような理屈はない〔つまり、連言原理に関してよりよく推論できない理由を示すべきである〕。また、推論実験には正答者もいるわけで、これは人間の制限された能力を前提としても、やはり課題には正答できる〔つまりよりよく推論できる〕事を示唆している。
・では、楽観主義なしで、実践的描像から合理性テーゼを導く方法はないのか?

2.5 規範排除戦略

・ここで人間の外に規範ないよ論者は、全ての実験に規範排除戦略を用いることを提案してくるだろう。しかしこれには3つの問題がある。
・第一に、連言原理を規範として認めないとすると、人間の合理的なあり方がダッチブックを許すことになる。合理性についていかなる説を立てようと、こうはならない方がよいだろう。また、選択課題に規範排除戦略を採用すると、「条件法は前件肯定かつ後件否定によって偽とされない」が規範として採用されることになる。これは、論理全体に巨大な影響を与える。それどころか、規範原理が実際の人間行動から導出されるとした時、整合的な体系が出てくるかどうか全く明らかではない。
・第二に、仮に有限性の苦境に関する考察により規範原理Nが棄却されたとしても、実行可能だが人間の推論能力中の原理Pとは異なる原理Qがある場合、これを規範原理として採用してはいけない理由が無い。この場合、人間は規範原理に従っていないので不合理ということになる。実践的描像を採用するだけでは、合理性テーゼを守れない。
・第三に、我々は自分の推論能力の中に無い規範を学んで、それに従うことが出来る。人間の外に規範ないよ論者によれば、このような規範に従って推論する事は不合理だと言うことになるが、これは意味不明である。
⇒まとめ:人間の外に規範なんてないよ論者は、(1)標準的描像に代わって実践的描像を採用し、さらに合理性テーゼを導くために(2)今持っている推論原理が最善だ、と示さなければならない。ところが(2)は上手くいかないので、合理性テーゼを導くような形で標準的描像を倒すことには失敗している。

3.一般的規範はないよ

・標準的描像に反対する第三の議論は、合理性を個々人に紐付ける。この時、規範原理はそれぞれの人の持つ推論原理であり、我々はいつも自分の推論原理に従って推論するのだから、人間が規範原理を犯していると実験が示すことはあり得ない。
・有限性の苦境の存在は標準的描像の排除に十分かもしれない。しかし人間の推論能力を評価する方法を探すことは誤りで、全ての人間に適用できる規範原理はない。むしろあるのは、個々人の推論技量と関心に紐づけられた規範である(「合理性に関する相対的描像」)。相対主義的描像は、我々は各々自分の技量と選好に合致した個別の規範に従って推論するように、と述べる(ただし、人は自分の推論能力を選べないので話はこう単純ではない)。
・相対的描像はある種の実践的描像でもある。前節では、「何が最善な推論」かに関して全人間に共通の答えがあると想定した。しかし、個々人のもつ様々な関心や技量に焦点を当てるなら、何が最善かは人によって異なると考えるべきなのかもしれない。
・合理性テーゼの擁護に関して、相対的描像は実践的描像より優位な点がある。既にみたように、実践的描像に対しては、最善の実行可能な原理が本人の推論能力の中に無い可能性があると言う批判があった。この可能性は、相対的描像でならブロックできるかもしれない〔???〕。
・しかし相対的描像は、「自分が現に従っている原理は何であれ、自分の関心と技量の下で従える最善のものである」と言うように思われる。そうすると、今度は個人の合理性を評価する事が出来なくなってしまうという問題が生じる。
・これに反論するためには、「個々人に紐づけされているが、本人によって従われていない事がありうるような規範」を手に入れるためのちゃんとした手続きを見つけなければならないが、これは難しいだろう。
・仮に成功したとしても、この場合個々人の実際の推論能力と規範能力が乖離するため、相対的描像が標準的描像に対して持っていたポイントが失われてしまう。〔すなわち規範に従い損ねる可能性が開けるので〕合理性テーゼを擁護する役に立たないのである。従って、合理性テーゼ擁護のための一般的規範ないよ議論はうまくいかない。

4. 標準的描像へのダメージを査定する

・以上の戦略は望み薄である。しかし既に示唆したように、有限性の苦境の存在は標準的描像を脅かすかもしれない。この事は、標準的描像の排除が合理性テーゼ擁護につながらないとしても、注目に値する。この節では標準的描像の長所と短所を改めて検討する。

4.1 長所
  • (A)合理性の持つ規範性を説明する

・いかなる推論原則も同等に良いとする「虚無的描像」と比べ、標準的描像は合理性が規範的概念であること〔すなわち良い推論と悪い推論がある事〕をよく説明する。ただしこの点では実用的描像や相対的描像もトントン。

  • (B)よく直観に合致する

・直観的には、合理性の説明は「普遍的に適用可能」で、どの原理に従うべきか「明確な指針を与える」はず。実用的描像は○△、相対的描像は×△で、標準的描像だけ○○。

  • (C)数学や論理学といったよく確立された学問と整合的
4.2 短所
4.2.1 人間の有限性の苦境・再訪

・有限性の苦境により、標準的描像が推奨するが我々はそれに従って推論できないような原理がたくさんある。できないものをやるべきと言うのは誤り。標準的描像は誤り。
・この主張に対しては、考えるべき応答が2つある。

  • (1)有限性の苦境によって実装不可能になる原理は幾つかしかないよ

・たとえば連言原理はおそらく人間の脳内にリアルタイムで実装可能である。連言実験に正答するものがいることもこの事を示唆している。
・しかし、今の話の焦点は標準的描像の擁護なので、幾つかの原理が実装不可能と言うことだけでも標準的描像には深刻な問題になりうる。

  • (2)パフォーマンスの問題だよ

・標準的描像の擁護者は、言語の再帰的な原理とのアナロジーに訴えて次のように議論するかもしれない;信念の整合性保持原理は実際に規範で人間はこれを推論能力の内に持つことは可能なのだが、記憶容量や時間の制約のせいで従うのに失敗しているだけである。この応答はあらゆる規範原理に関して可能である。
・ただし、これはあまり説得的ではない。例えば再帰的原理については、我々はこれを(あまり複雑でない文に対し)使った事があるはずだが、推論の際に信念の整合性保持原理を一度でも使用したことがあるとは思えない。そんなものが推論能力の内にあると言うことに意味があるのだろうか。
・また2章で論じたように、能力‐運用区別に訴えるだけでは、規範原理が推論能力に内蔵されていることが「可能である」と示されるにすぎない。「実際に」どうなっているのかに関しては何も言われない。

4.2.2 認識的ショーヴィニズム

・スティッチも言うように (1990)、なぜ我々は推論の規範原理に関して自分自身の直観を信頼しなければならないのか? 数学や論理から来る原理を好むのは、認識に関する排外主義の産物ではないか? この批判は、直観への合致が標準的描像を支持する大きなポイントであることを考えると深刻である。これは、前節の最後の論点と合わせて、「何故標準的描像は可能なだけでなく実際に正しいのか」を明らかにするように迫る。

  • 【反論1】直観は規範原理を決定する唯一の手段だよ

・そんなことはない(5章参照)。

  • 【反論2】標準的描像を排除すると、猛烈な不整合やダッチブックが生じて推論実践そのものを脅かしかねない。我々が知っている推論実践を可能にしてくれるのは標準的描像だけ!

・しかし、推論が出現するために、標準的描像が推奨する「全ての」原理が必要なわけではない(上で見た対称性原理とかはどうでもいい)。また、有限性の苦境がある以上我々の信念集合には既に不整合性がしみ込んでいるのだから、不整合が増えようがなに大した問題ではない。
⇒やはり標準的描像は有限性の苦境と認識的ショーヴィニズムに対して脆弱のようである。両者への応答を組み込みつつ標準的描像の利点をも取り込んだ描像が求められる。

5.合理性の自然化された描像

・どうやって推論の規範原理を決定するのかについて、5章では「広い反照的均衡」が極めて尤もらしいと論じられた。推論原理に関して言えば、5章3節で描かれた広い反省的均衡は、(i)何がよい推論かに関する一階の信念の批判的反省、(ii)推論の規範的原理は何かについての直観、(iii)一般的な哲学理論、の3者を入力とするものだった。
・5章5節ではここに(iv)科学的証拠が加えられた。これは推論実験に関する科学的証拠が考慮されることでもあり、反省的均衡によって合理性テーゼを擁護しようと言う議論にとっては悪いニュースだった。
・しかし今の問題は合理性テーゼではなくて合理性の描像である。この節では、4者を入力とした均衡こそが合理性の描像の核となると考える。これが合理性の「自然化された描像」である。自然化された描像によれば、推論の規範原理が存在し、それは全ての人に適用され、そしてその原理は4者を入力とした広い反省的均衡によって産出される。

5.1 どうしてなぜ自然化された描像は標準的な描像より優れているのか

・自然化された描像は、有限性の苦境と認識的ショーヴィニズムを考慮できる。

  • 【有限性の苦境】

・自然化された描像は、諸科学の証拠を考慮する。従って脳の構造や記憶や進化に関する証拠も考慮され、計算論的に脳に実装できない原理は規範原理としては採用されない。
・しかし、実際の推論行動に関係するありとあらゆる要因を考慮に入れると、人が実際に持っている推論原理と規範原理が一致してしまい、合理性の評価が不可能になると2節で論じられたのではなかった?
・その可能は否定できない。しかし、科学的証拠は入力の一つにすぎない。それは、(恐らく標準的描像に好意的な)我々の直観にぶつけられるため、推論能力に関する科学的な証拠をそのまま引き写したものが規範原理だと言うことにはまずならないだろう。

  • 【認識的ショーヴィニズム】

・逆に、我々の直観は科学や哲学の考察にぶつけられる。このため、〔自分自身の直観だけを無批判に特権化していると言う〕認識的ショーヴィニズムの謗りは逃れられるだろう
・(科学や哲学も我々〔西洋人〕の「ローカルな」直観を不適切にも重視しているという批判がありうる。これは確かに深刻な問題だが、ここでは詳しく検討しない)

  • 【標準的描像の長所を掬う】

・また、自然化された描像は標準的描像の3つの長所をちゃんともっている。自然化された描像は、広い反省的均衡が産出する規範に従うよう示すから「規範的」だし、全ての人が従うべき規範を示すので「直観的」である。
・また、「数学や論理学と整合的」でもある。ただしこれは、標準的描像が整合的であるのとは少し様態が異なる。標準的描像が数学や論理学と整合的なのは、その規範原理が数学や論理学の原理を推論原理に「変換」しているからである。一方で自然化された描像では、数学や論理学の原理が「入力になる」と言う形で整合性を確保する。だからもしかすると、強力な哲学的見解にぶつけられて例えばモードゥス・ポネンスが規範原理として採用されなくなると言うこともある、かもしれない。
・さらに、科学とも整合的であるという点は標準的描像にはない強みである。

5.2 反論

・【反論1】:標準的描像は、精確にどの規範に従うべきかを教える点に利点がある。一方で自然化された描像は、こうした特定性を欠いている。
・応答:それはそうだが深刻な批判ではない。反省的均衡は、正当化を生み出す「過程」に関係するものであって、正当化される「原理」に関係するものではない。何が原理なのかを知るためには実際に反省的均衡を行えばよい。
・再反論:言うは易く行うは難しだ
・応答:それはそうだが深刻な批判ではない。誰も、反省的均衡を行うのが簡単だなどとは言わないからだ。しかもこの点に関しては標準的描像に劣っている訳ではない。標準的描像は幾つかの直観的規則を与えるが、それは完全なリストではない。あとは、数学・論理学の原理をとって規範原理を返すアルゴリズムが与えられるが、それで全ての規範原理が導出される訳ではない(対称性原理のような〔実質的な〕ものは出てこない)。一方で、自然化された描像は全くリストを与えないが、導出プロセスは完璧に示す。部分的リスト+部分的プロセス vs リストなし+完全なプロセス でトントンである。
・【反論2】:哲学や科学を始めるためにはまず推論原理が確立されていなければならないはずであり、広い反省的均衡には始まりが無い
・応答:現在の哲学と科学から始められるのが自然化された描像の強みのひとつなのである。この点で、自然化された描像は自然化された認識論に似ている(ノイラートの船)。
・【反論3】:次のようなことが起こるのではないか。まず、直観的だが規範的ではない推論原理Pがあるとする。そしてこのPが、科学理論Sと哲学理論Tを導く推論過程で役割を果たしたとする。すると、広い反省的均衡によってPが規範原理として釣り上げられてしまうように思われる。しかしPは規範的な原理ではないので、自然化された描像はどこかおかしい。
・応答:この反論の尤もらしさは、PがSとT導出に関与している点にかかっている。しかしそうだからと言って、この事によってPが規範原理だと判断されやすくなるわけではまったくない。なぜなら、一般的に言って、PがSとT導出に役割を果たしたという事(発見的文脈)は、SとTがPを支持する事(正当化の文脈)を全く含意しないからである。(我々は「多くの直観的原理は規範的でない」という事実を反省的均衡の中に入れられるので、Pはちゃんと棄却されるだろう)。たとえTやPがSを正当化するようなものだった場合でも、それらが広い反照的均衡に入ることを考えれば、P擁護への重みづけが強くなるとは必ずしも限らない。

6 結論

〔省略〕