えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

「概念の能力と合理性−−実験哲学は心理学以上の含意を持つか」 飯島・太田 (2014)

http://www.info.human.nagoya-u.ac.jp/lab/phil/todayama/njp.html

  • 飯島和樹・太田紘史 (2014) 「概念の能力と合理性−−実験哲学は心理学以上の含意を持つか」 Nagoya Journal of Philosophy, 11: 39-61.

  実験哲学は、例えば道徳認知により意図性判断のパターンが変わるという、ノーブ効果(Knobe, 2003)のような現象を発見しました。こうした現象は、意図性概念という概念「能力」(competence)の内実を反映しているのか、それとも、道徳認知によってその能力の「運用」(performance)にエラーが起こっているのか−−このような問いが立てられてきました。つまり、意図性概念というのはそもそも道徳的なものを含み込んだ概念なのか、それとも、そうではないのだが意図性概念を使うときに道徳的な考慮が干渉しているのか、どっちなのか、ということです(1節

能力・運用区別によって実験哲学の成果を解釈する

  この論文の前半では、概念の「能力・運用」区別の観点から実験哲学の成果を解釈するための枠組みが提出されます。
  まず、実験の可能な解釈は概念の理論に依存するという点が指摘されます。ある表象が別の表象に因果的影響を与えるという(ノーブ効果のような)現象が「ある概念能力の内実を明らかにするものだ」と解釈することが可能であるためには、問題の概念がその2つの表象によって構成されているのだと言うことができなくてはなりません。つまり、概念には何らかの「構成的な構造」がなければいけないということです。そこで、「能力・運用」の観点から解釈を行うには、概念原子論はとれず、全体論やプロトタイプ説などをとる必要があるということになります。
  概念に構造を認めた上で、では具体的に意図性概念は道徳認知から構成されていると主張するためにはどうすればいいでしょうか。一つの方法は、道徳的認知を巻き込んだ仕方で作動することが意図性概念の適切な「機能」の仕方だと考えることです。すると次の問題は、ある概念の機能をどうやって特定すればいいのかということになります。著者らが着目するアイデアは、ある存在者が「個体発生上」どう振る舞うようにプログラムされているかによってその対象の機能を特定するというものです。つまり、意図性概念は標準的に発達すると道徳認知を巻き込んで作動する「ようになっている」、すなわち、ノーブ効果は生得的なものである、このように言えれば、意図性概念の適切な機能の仕方の一部には道徳的認知が関わっていると考えられるでしょう(2節)。
  では実際どうなのか。発達研究(Leslie, Knobe and Cohen, 2006)は、ノーブ効果はシナリオ中の「(悪い副作用を)気にしない」という概念の理解と平行して、4歳頃から現れることを示しました。Segal (2008) はこの心理解の発達パターンは学習によらない生得的なものであると論じました。これが正しいなら、意図概念は道徳的認知から構成されているということになるでしょう。その一方、意図性概念を中心に含む「心の理論」の障害であるとされるAS/HFAの被験者群が、定型発達群と同じくノーブ効果を示すことも知られています(Zalla and Leboyer, 2011)。これはつまり、定型な意図性概念がなくてもノーブ効果は生じているということであり、ノーブ効果は意図性概念の能力を反映している訳では無いことが示唆されます。結局、現状の証拠はこの問題に関してまだどっち付かずだと言えます(3節)。

「能力/運用エラー」は「合理的/不合理」に対応しない

  しかし「能力の反映なのかいなか」をめぐるこうした研究は、哲学に何を含意するのでしょうか。哲学者の中には、能力を反映した直観的判断を哲学理論の基礎として採用すべきだとする人々が居ます(実験哲学の「ポジティヴ・プログラム」)。しかし筆者らは、それが可能なのは、<概念能力を反映した判断は合理的である(真なる信念を生む)>という前提もとでしかないと論じます。哲学の議論は合理的な思考に基づくべきです。しかし、能力/運用の区別は基本的には生物学的機能に関する純粋に記述的な問題なので、それが合理的/不合理の区別に対応しているという保証はどこにもありません。従って、仮に我々が「何が概念能力なのか」という問題を解決したとしても、その能力から生み出される判断は「合理的である」ということには必ずしもならず、哲学に対して興味深い含意が直接出てくることは無いのです(4節)。
  概念能力そのもののうちに概念適用の規範は無い。そうすると、残された道は能力の「外部」から規範を導入することです。筆者らは、公共的規則の観点から概念に対して合理性/不合理性の評価軸を課すという観点を示唆しつつ論考を締めくくります(5節)。

  ◇  ◇  ◇  

   実験哲学に関する本邦初の本格的な理論的検討論文と言えるでしょう。関係者必読文献ですね!