(https://mospace.umsystem.edu/xmlui/handle/10355/5510)
- 作者: Justin Patrick McBrayer
- 出版社/メーカー: Proquest, Umi Dissertation Publishing
- 発売日: 2011/09/11
- メディア: ペーパーバック
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- McBrayer, J. (2008) *A Defense of Moral Perception*
Chapter 1: 道徳知覚の擁護
Chapter 2: 道徳知覚経験
Chapter 3: 道徳知覚
Chapter 4: 道徳知覚の認識論 ←いまここ
4.0 序
やること:道徳知覚は道徳知識にとって十分である場合があることを示す
方法:知覚と知識がいかに関係しているのかについては定説がないので、現代の4つの知覚的知識の理論どれをとってもちゃんと知識が得られると示す。
4.1 正当化信念と道徳知識
・その前に、道徳知覚がそもそも正当化された道徳「信念」にとって十分か?
・一般に、(知覚ではなく)知覚経験だけでも信念を抱くには十分だと考えられる。というのも、「気がつかないうちに悪霊が認知プロセスを信頼不可能にした」状況下(新悪霊問題)でも、外界に関する信念を抱くことは正当化されているように思えるからである。
・知覚経験がどう信念を正当化するかにも定説がないので、2つの有力な見解を検討する
Huemer 2001
・that X is Fの知覚経験は、あたかもthat X is Fと人に思わせる。このように〔知覚経験とは区別される〕「思われている状態seemimg state」を導入し、次の原理を採用する。
【現象的保守主義】
もし、SにあたかもPのように思われているのなら、〔Sが〕Pと信じることには少なくともとりあえずの正当化がある。
・道徳経験の場合も、道徳的性質が例化されているように主体には思われているので、ここから対応する信念への正当化が与えられる。
Pollock 2005
・ポロックは次のような原理を採用する
【直接実在論】
適切なPについて、もしあたかもPのように見えるということを根拠にSがthat Pという信念を持つなら、それは撤回可能な形で正当化されている。
・(「見える」/「思われる」のスコープを文字通りの現象学的な思われに限っている点、および命題Pに「適切な」と制限を加える点でHuemerの見解と異なる。)
・適切なPは、(A)経験から低次性質を直接読み取る(「直接的に見ること」)ような知覚システムに備わる能力【直接的符号化】か、(B)経験から高次性質を検出(「再認」)できるよう学習された能力【P-検出器】によって捕えられているものの事を言う。どちらも意識的推論を介さない過程である。
・道徳性質が直接的符号化の能力によって捕えられることはないだろうが、ありうるP-検出器の検出範囲が物理的対象に限られると考える原則的な理由はない。人を殴る行為を何回か見た結果、類似の光景を見ると「これは悪い」という信念を形成する「悪さ‐検出器」を知覚システムが生み出すということはあるだろう。
- 【反論1】他人を殴ることが悪いという正当化された信念がなければ、「あれは悪い」という内容を持つ知覚的入力と相関するP-検出器を形成する事はできないのでは?
応答1:いま必要なのは命題的な情報と知覚データを結び付けることだけである。知覚的入力と相関することになる道徳的信念は、最初から正当化されてなくてもよい。
応答2:たとえ事前の正当化が必要だとしても問題ない。道徳的信念は例えば伝聞など任意の方法で手に入れることができる。
- 【反論2】経験と内容の結び付けに原則的な制限がないのはラディカルすぎて、例えば、夕暮れを見る知覚経験から「名馬レックスが行く」という信念が正当化されてしまうかもしれない。しかしこの信念には何らかの認識論的欠点があるのだとすれば、道徳信念にも同じ欠陥があるかもしれない(ジレンマ)。
応答1:名馬信念には何らかの認識論的欠点があるかもだが、それだけではその信念を持つ事は「正当化されていない」という主張には不十分である。認識論的なメリットには様々なものがあるからだ。
応答2:名馬信念の認識論的欠点はおそらく信頼性の欠如であり、これは重大な欠陥なので正当化されないと言えるかもしれない。しかし、道徳信念に同じ欠陥があるかは明らかではない。道徳に関する学習では、信頼可能な認識実践によって学習が行われることはありそうである。
⇒結論:道徳知覚は正当化された道徳信念にとって十分である場合がある。
4.2 間接的実在論と道徳知覚
・Bonjour は、知覚によって獲得されるのは感覚的な現れの存在と特徴についての知識であり、これらに対する最善の説明への推論によって、われわれは知覚的知識に到達すると(おおよそ)主張した。
・この種の見解には不満も多いが、哲学の歴史の中では伝統的なものであり、道徳知識が可能になるか検討する価値がある。この問題は、感覚的な現れの「存在」と「特徴」について最善の説明を行う際に、道徳性質が本質な役割を果たすかどうかにかかっている。
- 【存在に関して】
・問題は、道徳性質の存在論にかかっている。道徳性質が自然的性質であるか還元可能なら、感覚的現れの存在の説明に道徳性質を使うのには何の困難もない。厄介なのは、道徳性質が非自然的性質で自然的性質にSVしている場合。
・〔一般に〕性質Aが性質BにSVしており、Bがデータの最善の説明の中に登場するとする。この時、データの最善の説明の中にAが入ると考えられるならば、道徳性質に関しても問題は生じない。
・他方で〔説明には因果関係が必要だと考えれば〕性質Aは最善の説明の中に登場しない。この場合、道徳的性質はもちろん色などの二次性質に関して知覚的知識は得られなくなり、間接的実在論それ自体の尤もらしさがかなり失われてしまう。
・ハーマンは、<色と基盤となる性質の強固な結び付き>、<色に言及した説明の簡便さ>に依拠して、説明と因果関係の結び付きを緩め、色が知覚経験を説明しうると主張した。道徳知覚の擁護者も、この両者に訴えることができる。なぜハーマンの例の人がそのような知覚経験を持ったのかと言えば、残酷な出来事に出会ったからである。
- 【特徴に関して】
・道徳性質はセンスデータの特徴についても最もよく説明することができる。
・道徳性質は信念とは関係ない事実を最もよく説明し(ヒトラーの道徳的腐敗が、彼の残虐行為を説明)、この事実が道徳信念を最もよく説明し(ヒトラーの残虐行為が、ヒトラーは道徳的に腐敗しているという信念を説明)、道徳信念は知覚経験を最もよく説明する(2章)からだ。
⇒間接的実在論者は、色も道徳性質も通らないほど説明の要請を強く解釈するか、両方通る位緩く解釈するかの一方しかない。非懐疑論者なら後者をとることは明らかである。
4.3 直接実在論と道徳知覚
・直接実在論者は、外界の日常対象に直接気付くことができ、外界に関する知識を得るのに推論は必要ないとする。ここではDretske (1969) を代表例として取り上げる。
・見ることが知ることを結果する場合に必要な条件を、ドレツキは「一次的認識的に」見ること名付け次のように分析した。
Sが、b is Pであることを一次的認識的なかたちで見ている only if
(i)b は P である ←知覚の事実性条件
(ii)Sはbを見てnいる
(iii)Sがbを見てnいる際、<もしbがPでなかったら、bは今Sに見えているような仕方LでSに見えることはないだろう>という条件が成立している。
(iv)Sは(iii)の条件が成立していると信じており、bはPだと考えている。
・〔つまり以上の条件がそろう場合、Sはb is Pという知識を持っている〕
【(ii)について】見るnの「n」は、これが「非認識的な仕方での見ること」であることを示している。非認識的な仕方で見ていることは、その主体が何らかの(ましてやbについての)信念を持つ事を含意しない。これは赤ちゃんや動物でもできるもので、主体が対象を見てnいるのは、bの見え方によって、Sはそれを背景的環境から視覚的に識別できるまさにその場合である。
【(iii)について】この背景条件は論理的な主張をしているわけではない。<BがLのように見えていれば、ふつうはPである>ことだけが必要とされている。
【(iv)ついて】これは背景条件に関する信念および〔知識のために必要だが非認識的な見ることでは確保されない〕信念についての条件である。背景条件に関する信念は傾向的なものでよい。
道徳知覚は道徳知識にとって十分か?
・(i)は実在論の仮定よりOK。(ii)は、道徳性質を例化している出来事とか人と視覚的接触を持つ事が出来ると考えられる限り満たされる。これは懐疑論者以外誰も否定しないだろう。(iv)も明らかに満たされうる。厄介なのは(iii)の条件。
・ドレツキは、素朴な傾向性や学習経験、信念、学習された連合などの背景条件(「原知識」)によって、一次的認識的な意味で見えるものは異なると考える。
・不良たちの行為を悪くしているのは、それが残酷だという点である。従ってこの行為が道徳的に悪くないと想像するには、残酷さの点でも異なると想像しなければならない。
・以上を踏まえると、(iii)を評価するためには、主体の背景条件を固定した上で、不良たちが残酷でない行為をしている最近の可能世界を考え、主体にとって、その行為がこの世界と同じように見えるかどうかを考えればよい。見えるならば(iii)は誤りである。
・残酷でない行為、例えば不良が猫をなでるという行為は、猫を燃やすという行為とは明らかに異なって見えるだろう。したがって、(iii)は成立する。
反論1 ……(iii)について
・不良は猫に火をつけているが、テロリストが「猫に火をつけないと100人殺す」とか言っている世界を考える。これはこの行為が「道徳的に悪くないがこの世界で見えているような仕方で見える」事例になっているのではないか。
【応答】テロリスト可能世界は、要請される変化と存在者の点で、猫をなでる可能世界よりも現実から遠い。これは決定的な再反論ではなく、知覚によって道徳知識が得られない事例は確かにあるだろうが、この点を指摘しておけば「知覚による道徳知識は絶対に手に入らない」と主張するほどの強さは反論からは無くなる。
反論2 ……(iv)について
・(iv)が要請する(iii)の信念、つまり<行為の見えは行為の悪さの信頼可能な指標だ>という信念がそれ自体〔事前に〕正当化されてなければ、道徳知識には到れないのでは?
【応答】今の目的は、「もしドレツキの説が正しいとすると、道徳知識は可能か」を示す事で、この反論は関係ない。仮に正当化が必要だとしても、道徳知識に障害は生じない。
4.4 証拠主義と道徳知覚
・知覚に関する証拠主義によれば、Pと知覚するのが知識Pの源泉であるのは、この知覚がPの証拠だからである(世界についての知識の証拠である点で、間接実在論と異なる)。Steup (1996) は、正当化を他の信念に頼らないという意味での「基礎的」信念が知覚によって獲得されるとし、その際の条件を次のように定式化した。
次の条件が成立しているなら、私の「Fが私の前にある」という信念は基礎的である。
(i)私にはFのように見えている
(ii)「Fが私の前にある」という信念を正当化する信念が他にない
(iii)Fであるものを識別することに関して自分が信頼の置ける主体であると信じる良い証拠を持っている (推定上の信頼性条件)
〔これで信念が知覚的に正当化される条件が特定された。このように〕証拠主義は「知識」でなく「認識的正当化」を主に扱う。そこでここでは、<知識とは、真で、適切に正当化されており、阻却不可能な、信念である>という知識の阻却可能性説を組み合わせ、〔基礎的信念を(知覚的)知識とする〕証拠主義的な知覚的知識理論を採用することにする。
道徳知覚は道徳知識にとって十分か?
・(i)と(ii)は問題ない。厄介なのは(iii)。人は、道徳性質を識別することに関して自分が信頼の置ける主体だと信じる良い証拠を持ちうるか? 以下で「良い証拠」に関していくつかの解釈を提示し、Steupの説を改善しつつ、道徳的知識の可能性を論じる。
- 【解釈1……過去の識別に関する信念】
・直観的に言えば、自分がFであるものの識別に関して信頼出来ると信じる良い証拠は、<これまでそれを精確に識別してきた>事である。そこで、今必要な良い証拠は、<ある行為が悪いということを、その行為の見えから精確に識別してきた>という信念だと考える事ができる。この信念は普通に可能である。
・ただし、この解釈はSteup自身の基礎付け主義とは反りが合わない。「基礎的信念」の良い証拠が信念だという事になり、この信念は基礎的ではなくなってしまうからだ。
- 【解釈2……メタ知識】
・Steup本人の出す例からは、必要な証拠は、<Fであるものがどう見えるのかについての知識>を自分が持っているという知識(メタ知識)だという解釈ができる。
・しかしこれは強力すぎる主張である。私(McBrayer)について言えば、例えばキウイがどのようにみえるのかの知識は持っているかもしれないが、それに関してさらに信念を形成することは殆ど無い。
- 【解釈3……知識】
・必要なのは、ある性質がどう見えるのかについての知識だと考えたほうがまだ尤もらしいだろう。しかしこれも上と同じ理由で基礎付け主義とは反りが合わない。
- 【解釈4……他人との判断の一致】
・Steup (1996) の注を見ると、必要な証拠は、<私がFであるものだと同定しているものと他人がそのように同定しているものの間で整合性がとれているという事実>だという解釈ができる。
・この読みの下では、他の人と道徳判断を確認するという経験を十分積んでいる人は、道徳性質を識別することに関して自分が信頼の置ける主体だと信じる良い証拠をもてることは明らかである。
⇒証拠主義によっても、道徳知覚は道徳知識をもたらすことがある。
4.5 適切な機能主義と道徳知覚
・知覚的知識に関して、本人が内的にアクセスできない要因に訴える外在主義者がいる。外在主義の中でも主要なものは、信頼性主義と適切な機能主義である。
・信頼性主義は、プロセス信頼性主義と徳信頼性主義に分かれる。前者には「宗教知覚は宗教信念に十分である」と論じたAlston (1991)があり、これは道徳性質にも応用できると思う。後者ではGreco (2000) 明示的に道徳知覚が道徳知識に十分だと議論している。
・しかし、適切な機能主義についてはこれまで論じられていない。そこで、Plantinga (1993) を取り上げて、適切な機能主義でも道徳知覚が道徳知識に十分だと論じる。
・プランティンガは、信念と真理と一緒になって、知識への十分条件を為す「根拠warrant」概念に注目し、次のような分析を提示した。
Sの信念BがSにとって根拠あるものである iff
(1)Bを産出した認知能力が適切に機能していた
(2)Bが産出された認知的環境は、問題の能力がそれのためにデザインされたところの環境と十分に類似している。
(3)Bを産出した能力のための設計プランの原理は、真なる信念を産出することに向けられている。
(4)その設計プランによって特定されるような仕方で形成された信念が真である客観的確率が極めて高い
・(2)は悪霊に欺かれた世界を排除するために導入された。(3)では例えば、生存に有利になるように過度に楽観的な信念を形成するような認知能力は排除される。(4)は信頼性基準である。
道徳知覚は道徳知識にとって十分か?
問い:(真理と信念に関しては問題ないとして)猫が焼かれているのに直面した時に形成される道徳信念は、主体にとって根拠あるものか?
- 【(1)は満たされているか?】
・認知能力が適切に機能していることをどう決定するにあたっては、<同じ状況で他の普通の人が同じ事を信じるなら、問題の人の(機能は)適切に機能している>という基準が良く使われる。この方法が正しいなら、ハーマンの事例は(1)をみたす
・(実際、同じ信念を抱かない人は、機能不全者(サイコパス)だと考えられるだろう)
- 【(2)は満たされているか?】
・ここでは、<問題となる認知能力とは精確には何なのか>という問題に取り組まなければならない(一般性問題)。知覚能力一般なのか、とりわけ視覚能力なのか、それとも視覚刺激に応じて道徳信念を産出する能力なのか。しかしここでは、知覚能力一般を問題にすることにする。そもそも、この条件は悪霊世界を排除するために設けられた。そうするとハーマンの事例の環境は、(2)を満たすものだと考えてよいだろう。
- 【(4)は満たされているか?】
・道徳性質検出に関する信頼性について完全な議論を提出することはここではできないが、2つ言うことがある。まず、外的世界の知覚を含むいかなる知覚能力に関してもこの種の議論を提示するのは困難である。〔問題の一つとして、〕外的知覚の信頼性をテストにあたってある様相の感覚情報を検証するには、別の様相の感覚情報をぶつけるしかないという循環の問題がある。これが信頼性を確保するのに十分な方法であるとすれば、道徳能力の信頼性について類似の方法がとれるだろう。
・次に、道徳知覚が信頼可能なものではありえないと考える原則的な理由はないと思われる。主体が道徳的事実とラフにでも対応する信念を形成している限り、この信念を生み出す能力は信頼可能だろう。
- 【(3)は満たされているか? ←むずかしい!】
・ここでこそ「一般性問題」が立ちはだかってくる。実際、この問題は難しすぎて、適切な機能主義を採らない十分な根拠になるほどである。しかしここでは仮に、適切な能力は同定されたものだとし、道徳知覚が(3)を満たすと考えられる論拠を3つあげる。
【A:有神論に訴える ←全く有力ではない】
・ながいこと、宗教的信念は認知能力の機能不全か、真理ではなく困難の対処のためにデザインされた能力から産出されると考えられてきた。これに対しプランティンガは、もし有神論が真であれば、人間の認知能力が真なる宗教的信念を生み出すようデザインされていることはきわめてありそうだと論じた。
・同じように、もし有神論が真なら、愛ある神は人が道徳事実を識別できることを望み給うただろうから、知覚能力が真なる道徳信念を生むようデザインされている筈だろう。
【B:オマエモナー論法】
・適切な機能主義者にとって、この問題は「知覚的」道徳信念に限らず全ての道徳信念に生じている、と応じることができる。そもそも道徳信念があるなら、〔知覚に限らず〕それを生みだした一群の認知能力があるはずだからだ。そして、このより一般的な問題がどう解かれるかは明らかではない〔が、挙証責任が我々だけにかかっている訳ではない〕。
【C:学習に訴える ←有力】
・我々の知覚システムはマックをPCから識別するようデザインされているわけではない。しかしかといって、〔学習によって獲得できるようになった〕「あれはマックだ」という知覚的信念が根拠のないものだと考えるのは馬鹿げている。ここで、マックを識別する能力は、色とかサイズの識別能力に寄生的であると論じることができる。〔この意味で、〕「あれはマックだ」という信念は真理を目ざす能力によって生み出されたと言える。
・これと同じように、我々の知覚能力は低次のパターンを認識するようにデザインされているが、一定の刺激パターンに応じて道徳信念を産出するよう学習することができるのだと考えることができ、道徳知覚も(3)を満たすということができる。
4.6 不一致からの議論と道徳知識
・もし道徳知識が知覚的なものなら、道徳的不一致はきわめて少なくなるだろう。ところが我々は多くの道徳的不一致を経験している。同じ猫焼き場面を見ていた他人がその行為は悪くないと信じていることにハーマンの例の主体が気づいた場合、道徳知識は認識論的な身分を切り下げられてしまうのだろうか?
・そうではない。道徳知覚に不一致が起こるのは驚くべきことではない理由が2つある。まず、色盲者と健常者の間で色知覚に関する不一致が起こっても驚くべきでないのと同じように、不一致は道徳盲者と健常者の間で起こっているのかもしれない。また、道徳知覚は学習過程を必要とするが、我々全てがそのような過程に参与しているわけではないことから不一致が生じているのかもしれない。
【反論】ハーマンの主体自身が不一致の説明をあらかじめ持っていない限り、やはり上記の気づきは本人の知識を脅かすのではないか。
【応答】<本人があらかじめ不一致を説明できなくてはならない>という認識論的原理は誤りである。私とあなたが窓の外をみており、私は木のところにフィンチがいるのを見、「あれはフィンチだ」という信念を得たとする。しかし貴方はそれには同意しないと言う。このとき私はこの不一致を説明できないが、かと言ってその鳥がフィンチだということを知らないという事になるとは〔筆者には〕思われない。
後記〔:知覚の限界について〕
・なんでもかんでも知覚できるわけではない。ここまで、知覚には内的制約と外的制約があると論じた。内的制約に関して言えば、知覚経験が表象できないような性質は、知覚できない。様相的性質がこれに当たるかもしれない。外的制約に関していえば、道徳性質が知覚可能なのは、それが主体の知覚経験を引き起こす自然的事実と同一か還元可能であるからであった。様相的性質に関してはおそらくこれも成り立たない。
・以上の事は道徳知覚の限界をも示す。例えば同僚を悪く思うことが道徳的に悪だとしよう。しかし貴方がこう考えていても私の知覚環境は変化しない。従ってこの場合には、貴方が何か悪いことをしているという事を私は知覚できない。道徳知覚の限界を示すには、関連する道徳事実と知覚環境の間の結び付きを明確化することだ。