Epistemology and the Psychology of Human Judgement
- 作者: Michael A. Bishop,J. D. Trout
- 出版社/メーカー: Oxford University Press
- 発売日: 2004/12/23
- メディア: ペーパーバック
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- Bishop,M. and Trout, J. (2005) *Epistemology and the psychology of human judgment* (Oxford University Press)
1. 手札を見せる
2. 統計的予測規則の驚くべき成功
3. 向上心理学から認識上の教訓を汲み取る
4. 戦略信頼性主義:ロバストな信頼性
5. 戦略信頼性主義:卓越した判断のコストと利益
6. 戦略信頼性主義:認識的重要性
7. 標準的な分析的認識論の問題点 ←いまここ
8. 認識論を実践へ:心理学における規範性論争
9. 認識論を実践へ:積極的なアドバイス
10. 結論
補遺
【言うこと】
・標準的な分析的認識論(SAE)は自然主義的アプローチと構造的に類似している。そのコアには記述理論があり、そこから処方的主張がなされる。
・SAEがis-oughtギャップを克服できる見込みは薄い。
・戦略信頼性主義はSAEより優れている。
1 標準的な分析的認識理論の記述的なコア
・SAEは知識と認識的正当化の説明を与えようとするが、その説明によって「我々の認識状況が大きく変化しないこと」(Kim 1988)が求められる。この「安定条件」は、認識論者の熟慮された判断への一致でもって理論を評価するというSAEの実践に埋め込まれている。しかし、どうしてなぜ熟慮された判断をそんなに信用しなければならないのか?
・SAEは結局何についての理論なのか。SAEは科学に近い〔世界に関するものだ〕と思われるかもしれないが、認識論では世界ではなく認識論者の直観に対して仮説がテストされる。なのでSAEは素朴な人々の正当化概念についての理論でもない。この点は、認識の事はその専門家に聞くのがよいので問題ないと言われるかもしれないが、しかし認識論者とは精確には何の専門家なのか。
・SAEの方法は、「哲学で博士号を持っている西洋人の熟慮された判断」に説明を与えるという課題に適している。これは記述的な試みであり、SAEは(ふつう認識されていないが)自然主義的な本質を持つのである。SAEが規範的な問題に関する知識「をも」与えてくれるかという点はオープンである。
・SAEが分析的認識論者の判断の記述である事は、SAEを他の集団の中で行ってみると良く分かる。Weinberg, Nichols and Stich (2001) は、西洋/非西洋あるいは社会経済的地位の違いによっていかに知識判断が変わるかを示している。
・従ってSAEは実際のところ認識論者の認識的評価を記述する奇妙な文化人類学なのである。そうすると、SAEの擁護者が人間の知識の本性や源泉や限界について普遍的な規範的主張をまともにできるかという点はあやしい。文化帝国主義の匂いがする。こうした知見の多様性は、話を大きくする装置にすぎない。仮にSAEが人間の普遍的な営みの記述を行うとしても、SAEが記述的試みであることに変わりはない。
・そして、このタイプの記述的試みに関しては、SAEより心理学の方がうまくやれると考えるべき強力な理由がある。哲学者諸君、心理学の院生を雇おう!
2 標準的な分析的認識論:ガラスの家のなかから〔自然主義に〕石を投げる
・SAEの擁護者は記述的主張からどうやって規範的主張を導き出せるのか(自然主義者の困難)。これは不可能ではないが、SAE擁護者は自然化された認識論を叩くので自らこの道を閉ざしている。
・ウィリアムズ「認識判断は一種の価値判断であり、こうした強力に規範的要素を持った探求が完全に「自然化」されるかどうかは全く不明である」(2001)
・フェルドマン「我々がどう推論するかを扱う[心理学が]利用可能になっても、それが認識論の中心にある規範的問いに答える適切な代替物になると考えるのは難しい」(2003)
・バンジョー「自然化された認識論は科学や常識の正当化に関して何ら積極的な事を云わず、懐疑論に対して不能である。同様に、よくなさそうな種の信念の正当化に関して否定的な事を云う事も出来ない」(2002)
・プランティンガ「認識論における自然主義の一番極端なものは、規範性をも消し去ってしまう」(1993)
・しかし既に論じたようにSAEはまずは記述的理論なので、これらの批判は自分にも当てはまるのである。
3 SAEは記述的なコアからどうやって規範的な処方を取り出そうとするのか
・ある基礎づけ主義が認識論者の判断を完璧にとらえたとしよう。この時我々は何をすべきなのか。基礎的信念に適切に関係する信念獲得に向かうべきだとSAEの擁護者は言うかもしれない。しかし何故なのか。認識論者の判断の何がそんなに偉いのか。
・SAE擁護者「規範的な認識的主張はアプリオリなものだ。そして概念的真理を知るためには概念の精確な記述が必要で、それこそSAEがやっていることだ」
・議論のためにアプリオリ性は認める。しかし、SAEがそうしたアプリオリな真理を発見する適切な方法だと言うことにはならない。深く熟慮された判断にアプリオリな真理を簡単に読みこめない事は数学の歴史からも明らかだし、ワインバーグらの知見はSAE擁護者が誤った認識的概念を分析している可能性を示す。
・SAEがアプリオリな真理を生まない事は別の観点からもわかる。素朴物理学者が自分のインペトゥス概念を完全にとらえる説明を構築したとしても、これは本人の言語的傾向に関する真理以外物を我々に与えないので無駄である。一方で遺伝子や地質累乗や力といった概念は、世界に関する成功した理論の中で説明・予測・実践上の役割を果たす点で重要であり、こうした概念の明確化は大きな価値を持つ。
・この点で、SAEと向上心理学を比較せよ。向上心理学の規範的判断とは違って認識論者の規範的判断は、<重要な事柄をどう推論するのが最善か>について我々が学んできた事と、お花畑的にも切り離されている。
・SAEが正しい規範的主張を生むとする唯一の議論は、認識論者の「専門性」に訴えるものだろう。しかし、認識論者が本当に推論や信念の専門家ならば、認識論の領域で成功を積み重ねてきていないのはおかしいのではないか? 推論や信念なら向上心理学だってその専門であり、こちらは人々の推論改善に成功を積み重ねている。
・自分たちの判断が東アジアの人や向上心理学者や配管工の判断よりも信用する価値がある理由を示さない限り、SAEの擁護者は自然主義者の困難を乗り越えられないだろう
4 戦略信頼性主義ならどうやって自然主義者の困難をのりこえるか
・B&Tにも自然主義者の困難がある。B&Tから見れば、「アリストテレス原理」(長期的にみると、悪い推論は良い推論より悪い結果を導く傾向にある)が「is」(良い結果)と「ought」(どう推論すべきか)を橋渡す動機の一部である。戦略信頼性主義の処方に従えば、従わない場合よりも良い結果が出る。
・もちろん、もっと直接的に規範の領域にアクセスできると主張する方がドラマティックだが、あなや、ないのである。我々は世界の規則性に関して我々が推論できることを通じて、規範の領域にアクセスする。これは間接的で経験的だが、現代科学という強力な方法に頼ることが出来る。
5 戦略信頼性主義と標準的な認識論理論の関係
・信念トークンの正当化を問題にするSAEとは違い、戦略信頼性主義は卓越した推論戦略の理論であり、そこから生み出される個々の信念トークンが正当化されているかどうかにはコミットしない。しかし、両者の関係について考える意味はあるだろう。
・「戦略信頼性主義によって推奨される推論戦略によって獲得される信念は正当化されている」。この命題を戦略信頼性主義にとっての非本質的な付録として考えてみる。SAEが理想的な正当化理論Jを手にした時、戦略信頼性主義は理論Jによって正当化されている信念のみを生み出すだろうか?
【シナリオ1:はい】
・この場合、戦略信頼性主義がそのまま正当化の理論になるので、SAEは必要ない。
〔この議論は誤りである。戦略信頼性主義が推奨しないが理論Jが正当化する信念の存在が排除されていない〕
【シナリオ2:いいえ】
・ではどちらの理論に従えばいいのか? 戦略信頼性主義の推奨する信念は、重要な問題に関して真なる信念にいたる可能性を最大化した卓越した推論の産物であり、長期的に見て良い結果を導く。一方、理論Jが推奨する信念のメリットは、それが賢い認識論者の判断に合致していると言う点にしかない。仮にもっと多くの人の判断と合致するとしても、認識論的な視点から言えば、認識的良さと認識的成功に関して重要な経験的アドバンテージを持つ信念のほうが良いに決まっている。
・かくしてSAEはジレンマに追い込まれる。