http://ci.nii.ac.jp/naid/110000469398
- 渡辺実 (1993) 「「ひとごと」風「私」小説の表現 : 堀辰雄『風立ちぬ』の文章」 『上智大学国文学科紀要』 10, pp. 115-129
『風立ちぬ』には次のような表現が頻出しています。
- 「私はなんだか不満さうに黙ってゐた。」(全集一巻 p. 453)
- 「私は〔……〕いかにも歩きにくさうに歩いて行つた」(p. 454)
しかし、このような表現は破格ではないでしょうか。「そうに」という言い回しは、普通一人称の「私」に関しては使用されません。これは(ニ)三人称的な言い回し、「ひとごと」の表現なのです。
一人称のもとでも、自分の意志の制御下にない出来事を表現する際や(e.g. 「私は死にそうだ」 「私は吐きそうだ」)、また、夢や空想に自分を登場させて一人称を三人称と同じ発話主体から切り離す場合(e.g. 夢のなかの私は、得体の知れぬものを、さも美味しそうに食べていた)には「そうに」は使用出来ますが、『風立ちぬ』中の表現はこのような例に尽くされるものではありません。
さらに、「ひとごと」風の表現として、
- 「私はいかにも焦れつたいように小さく叫んだ」(p. 483)
に見える「ように」や、
- 「私は〔……〕それをおもちゃにし出してゐた」(p.462)
に見える「だす」などの表現がみられます。
『風立ちぬ』の「私」は、自分の行動を自分で意志する主体ではなく、様々な事態の中心に自然となっている人物として描かれているのです。
「何をそんなに考へてゐるの?」私の背後から節子がとうとう口を切った。
「私達がずつと後になつてね、今の私達の生活を思ひ出すやうなことがあつたら、それがどんなに美しいだらうと思つてゐたんだ」
「本當にさうかも知れないわね」彼女はさう私に同意するのがさも愉しいかのやうに応じた。
(p. 482)