えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

19世紀前半のイギリスの地質学 松永 (1996)

ダーウィンの時代―科学と宗教

ダーウィンの時代―科学と宗教

  • 松永俊男 (1996) 『ダーウィンの時代』 (名古屋大学出版会)

第二章 地質学の発展と自然神学

一 ウェルナーとハットン

  19世紀前半のイギリス科学を代表するのは地質学であり、その発展を支えていたのは18世紀以来の自然神学でした。自然神学による地質学は、「聖書地質学」とは異なるものですが、<科学的地質学はハットンに始まりライエルが確立した>という神話によってこの両者は混同されがちで、19世紀自然神学の誤解の要因となってしまっています。
  ウェルナー(1749-1817)は岩石を形成年代によって5種類に分け、原始の地球を覆っていた大量の物質を含んだ海水が徐々に減少することで、それぞれの岩石が形成されたという学説を唱えます。このように、地球の歴史には<方向性>があり、岩石は年代によって特徴づけられるというのが、この学説の特徴です。これに対しハットン(1726-1797)は非歴史的な理論を唱えます。削り取られた陸地が河川をへて海底に堆積し、地球の中心火のもたらす熱で隆起し陸地となる一方で、元の陸地の方は崩壊してやがて海になるので、全体として地球は常に同じ状態にあるというのです。この学説は、自然界は神のデザインによっており、動植物の生息地として一定の状態に保たれているというハットンの宗教的信念に基づいて組み立てられたものでした。
  ウェルナーの学説に宗教色は皆無ですが、ハットンを批判する人々によって、その記述と『創世記』の記述との合致が強調されることになります(カーワン・ドリュック・ジェームスらイギリスのウェルナー学派)。また、化石による地層区分の手法を確立したキュビエは、淡水成層と海水成層の急変を根拠に急激な海水の浸入(「革命」)の存在を主張しましたが、化石を生み出したとされる最後の「革命」が「ノアの洪水」と同一だとは考えませんでした。二つを結びつけたのは『地球の表面の革命についての論説』(1812)の英訳(1813)者ジェームスの注釈だったのです。このように、ドイツとフランスでは18世紀末までに地質学と聖書は独立したものになっていたのに対し、イギリスでは19世紀中ごろでもそれが問題であり続けたのでした。

二 バックランドの地質学

  ウェルナーやキュビエの歴史的地質学をイギリスに移植し、イギリス地質学の基礎を築いたのはバックランド(1784-1856)です。バックランドの『地質学の弁明』(1820)は、国教会の牙城であるオックスフォードの宗教教育に地質学が役立つことを説明したものでした。ここでは地質学が明らかにした「大洪水」は「ノアの洪水」に他ならないと強調されますが、バックランドはあくまで氷河堆積物と氷河地形を根拠に科学的に大洪水説を唱えたのであり、聖書の伝説を鵜呑みにしていたのではありません。地質学をキリスト教に従属させたのではなく、事実に基づく地質学研究の正当性を支配層に容認させたのです。バックランドの評価を確立することになった『大洪水の遺物』(1823)は、世界的大洪水を立証したものと受け止められました。しかしこの本は『創世記』を文字どおり理解する「聖書地質学」の本ではなく、バックランドはこの立場からはむしろ批判にあうことになります。バックランドは、関連する地質学的証拠の欠如から最後には洪水説を放棄しており、彼の地質学が聖書に縛られているという通説は誤りです。バックランドは歴史地質学の基礎となる地質年代区分の確立にも大きな貢献をし、地層の変化の研究の蓄積によって、地球には方向性を持った歴史があるという認識がイギリスの科学者の中で一般的になりました。
  バックランドの『自然神学との関係で考察された地質学と鉱物学』は当時の自然神学書の代表作の一つと言えます。ここでは、「『創世記』第一章は、地球の最後の異変の後の人類が直接関係する出来事だけを述べている。それに先立つ地球の歴史全ては、第一節「初めに神が天地を創造された」に含まれている。この期間は非常に長いもので、「百万年の百万倍」もあったであろう」(p. 78)という主張が行われます。「始めに」と創造の六日間の間には大きな時間的隔たりがあるという「隔たり理論」です。これは、聖書を尊重しつつも実質的に地質学を聖書の文言から解放する解釈であり、地質学者から広く支持されました。デザイン論に関しては、「デザインの単一性」から「唯一で同一の創造者」が証明されるという点が強調され、「プランの一致」自体に神の力を見ようとしてはいません。また、生物の変遷に関しては化石の証拠から生物の創造と絶滅は明らかだという形で進化論や特殊創造説を退けています。
 通説とは異なり、バックランドの研究は緻密な実証的研究でありました。それは自然神学の枠内にあったものの、地質学の進歩に合わせて聖書を解釈しなおしていくものでした(地質学的解釈論)。

三 歴史地質学の発展

  その後、古生代の層序の研究をイギリスに根付かせ、地層区分の基本単位「系」を導入したコニベア(1787-1857)、「シルル系」「ペルム系」の命名者で政治的活動にも優れイギリス地質学に一時代を築き上げたマーチソン(1792-1871)、「カンブリア系」の命名者で、自然神学を説く一方で聖書地質学の厳しい批判者でもあったセジウィック(1785-1873)らイギリスの地質学者が、とりわけ古生代の層序の確定に大きな貢献をなすことになります。彼らの間では自然神学は共通の土台であり、自然神学は科学を阻止するどころかむしろ推進する力となっていたのです。そして、自然神学による地質学と聖書地質学は対立していました。

四 聖書地質学の反撃

 聖書を文字通り解釈し、その枠内で地質学をとらえようとする「聖書地質学」者(ペン・バック・フェアホウム・ブラウンら)が最大の標的としたのはバックランドでした。エディンバラ・ロンドン・オックスブリッジでも聖書地質学は広く支持されました。伝統的な古典教育を受けた人にとっては、新興の地質学の解釈は頼りないものだったのです。

五 ライエル神話

 これまで、ライエルによって地質学が科学として確立したという神話がまことしやかに語られてきました。どうしてこうなったのでしょうか。ライエルの学説は、「斉一説」と呼ばれ、「激変説」と対立させられるのが標準です。しかし、ライエルの言う「斉一性」は多義的で、対立する学説が「激変説」と一括りにされることで、不当に評価されてしまったのです。ラドウィックによると、ライエルの斉一性には次の2つにわけられます。
(1)方法論としての主張 <現在主義>:現在見ることのできる現象を基に地球の過去を説明すべきである。
(2−1)地球の変化についての学説 <漸進論>:変化は常にゆっくりしたもので、全地球的な天変地異はなかった。
(2−2)地球の変化についての学説 <定常論>:地球は常に同じ状態に保たれている。
前者は当時の科学者で誰も否定する者はいませんでしたが、後者は地球の歴史に方向性を認めている歴史地質学と決定的に対立します。
  ライエルの『地質学原理』初版(1830)をとりあげると、第一巻では、まず地質学の歴史が概観され、ウェルナーが非難されハットンが称揚されます。斉一性の総論では、<現在主義><漸進説><定常論>が混然一体となって論じられています。つづいて前進論が(ゆっくり冷えて行く説)否定され、化石の進歩は見かけだけのものにすぎないと主張されます。第二巻ではラマルクの進化論が厳しく批判されます。地表の状態は常に変動し、種は次々に絶滅するのです。しかし種の生まれる仕組みは誰も見たことがないので不明とされており、ここでは現在主義は放棄されています。第三巻は定常論に基づく地球の歴史の再構成です。そして第三巻の「むすび」では、自然の探求によって創造者の英知と力の証拠を発見できること、定常論こそが神の英知を正しくとらえている事が主張されます。ライエルは理神論を信奉しており、彼の科学は宗教的信念と深く結び付いていました。これは、ライエルが定常説の確信していたことの大きな要因だと考えられます。
  この著書はその「科学的方法」の点で高く評価されましたが、定常論の方はコニベアやセジウィックをはじめ地質学者から厳しい批判を受けることになります。歴史的地質学の知見の蓄積で定常論の成り立たなさはますます歴然となり、ライエルも『人間の古さ』(1863)で自説を撤回することになります。『地質学原理』は諸問題の体型的な整理、基本的な方法の手際良い提示という特徴から教科書として歓迎されたのであり、これを読んだ新しい世代の地質学者も定常論は無視することになりました。このように、標準的な教科書の著者だったという点にもライエル神話が生じた原因の一つがあるでしょう。19世紀後半に生じた宗教を科学の敵とみなす科学史観も、ライエル神話と合致しており、神話がより普及していくことになります。
  ライエル神話は歴史地質学を聖書地質学と同一視し、ライエルだけが科学的に地質学を研究したと言います。しかし実際には他の地質学者も科学的方法を用いていましたし、宗教に縛られていたのはむしろライエルだったのです。