えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

意志の弱さと「先延ばし」 Stroud 2010

The Thief of Time: Philosophical Essays on Procrastination

The Thief of Time: Philosophical Essays on Procrastination

  • Andreou & White ed. (2010) *The Thief of Time: Philosophical Essays on Procrastination*

【目次】
Part I
3 Sarah Stroud "Is Procrastination Weakness of Will?" ←いまここ
5 Jon Elster "Bad Timing"
7 Christine Tappolet "Procrastination and Personal Identity"
Part II
9 Elijah Millgram "Virtue for Procrastinators"
Part III
12 Chrisoula Andreou "Coping with Procrastination"

「先延ばしは意志の弱さか」という問いについて

・先延ばしは合理性の失敗だが、この問いは、それがいかなる種の失敗かを問う良いスタート地点である
・しかも先延ばしと意志の弱さには重要な類似点があるので、それを検討することで、なぜ/どの点で先延ばしが合理性の失敗なのかに関して何かしら学ぶことができる

「先延ばしは合理性の失敗である」という仮定について

・これは自明のことにみえるが、Silver & SabiniやAndreouはさらに<先延ばしは必然的に不合理だ>と主張する。これには2点で反対したい。
(1)「不合理」は非常に強い言葉なので、「先延ばしには合理性の観点から批判の余地がある」、「合理性の失敗」程度の表現の方が穏当に見える。
(2)彼らは、非合理性が先延ばしの規準の一つであり、純粋に記述的な先延ばしの特徴付けは不可能だと考えている。しかし、意志の弱さと同様、先延ばしを純粋に記述的に特徴づけることは可能である。
・ただし、「先延ばし」は単に「後にする」ことや「ギリギリまで後にする」ことと同じでないと考えた点で彼らは正しい。行為者は全てのことを同時に出来ないので、「後にする」ことは合理的行為者に欠かせない要件ですらある。また、「ギリギリまで後にする」ことも先延ばしにならない事例が含まれるので広すぎる。
・すると、先延ばしは後にすることのサブクラスだと思われるかもしれないが、そうではないのかもしれない。というのも、<tにおいてSがXするのを後にしている>ことを概念分析してみると、<tの時点でSはXしていない>だけでなく、<Xを後で行うという選択あるいは決定が行われている>ことが含まれるのではないか? そして、全ての先延ばしがこのような決定を含んでいるかについては疑念がある(後ろで扱う)。

先延ばしとアクラシア

・この論文では「意志の弱さ」を、「古典的」理解と「改定的」理解という2つの理解のもとで検討する。それぞれがこの章と次の章に対応する。

古典的な意志の弱さ(アクラシア):類似点

・古典的理解に基づけば、意志の弱い行為とは、「自分のより良い判断にも反した(自由な)行為」である(ここでは、行為者自身の現在の価値判断が問題となっている点に注意)
・この理解のもとでは、先延ばす人と意志の弱い人には、「Xを行うべきであると何らかの意味で判断しているのにもかかわらずXを行っていない」という類似点がある。
・ギリギリまで課題を行わないが先延ばしでないような例では、私は自分の能力を踏まえて課題を先にやるべきだとは考えていないのであり、確かに私の判断と行為の間には乖離が生じていない。
【仮想反論】
・問題となるのは、課題を先にやる理由がないと私が判断することではなく、私には本当にそうする理由が存在しないという点にあるのではないか?
・つまり――
(a)Sは実際にxを今すべきなのだが、そうは思っていない
(b)Sはxを今すべきだと思っているのだが、それは誤りである
ストラウドの見解:(b)は先延ばしになりうる候補だが、(a)はそうではない。
反論者の見解:(a)は先延ばしになりうる事例だが、(b)はそうではない。
・ここで、(a)に関するストラウドの直観はアクラシアの場合と同じである。つまり、他人の価値判断がある人の行為を意志の弱いものにする訳ではないように、誤った判断をしていても〔行為者本人の判断が今すべきだと思っていないならば〕行為が先延ばしになるわけではない。

古典的な意志の弱さ(アクラシア):相違点

・以上の類似点があるものの、アクラシアと先延ばしには2つの似ていない点があり、アクラシアのもとに先延ばしを包摂するのには問題がある。
(1)アクラシアとは個々の行為の性質を形容するものであるが、先延ばしはそうではない。
・それぞれの述語を帰属させる際の「原子文」は「Sの行為はアクラティックである」と「Sはxに関してtmからtnに渡って先延ばしをしている」で、「論理形式」を大きく異にしており、後者が前者のサブクラスであるのはどのようにしてなのかは明らかではない。
・また、アクラシアの根本的特徴の一つはしてしまう事であるのに対し、先延ばしのそれはしないことにある。先延ばす人は必ず何かをし損ねているのである。この点でも、先延ばしがアクラシアの一種なのか疑問が生じる。
(2)アクラシアは本質的に共時的現象だが、先延ばしは本質的に通時的な現象である。
・先延ばしをアクラシアの一部と捉えることは、先延ばしにとって本質的なものを曇らせてしまうだろう。

先延ばしと意志の弱さ

<意図に従うことの失敗>としての意志の弱さ

ホルトンとマッキンタイアは、意志の弱さを<意図に従うことの失敗>として特徴づけた。この特徴付けは古典的な理解と2点の大きな違いがある。
(A)行為と乖離している心的状態が、価値判断ではなく、意図であり、
(B)同時性の制約を落としている(意図は先行する状態である)

つまり意志の弱さの格子は
(1)tnでのxするという意図をtm形成に形成する(m < n)
(2)tmでxし損なう
・新たな理解のもとでの意志の弱さは、先ほど先延ばしとの比較で問題であった<「しない」こと>、<通時性>という特徴を満たす。
・さらに、より現象学的に見ても、先延ばしを意志の弱さと考えるポイントがある。(今日「明日やろう」 → 明日「明日やろう」 → 明後日「明日やろう」……→ × )
→この理解のもとでは、意志の弱さは先延ばしのモデルとしてなかなか良い

先延ばしは意志の弱さか?

・しかし先延ばしの<すべての事例が>意志の弱さだろうか?
・新たな見解では、意志の弱さとは<計画の実装の障害>に他ならず、計画のデザインや形成がまずい場合や意図が形成されない場合は意志の弱さの非難を受けるようなものではない。
・しかしこうした点に先延ばしの本質がある場合もある。例えば……
【形成がまずい】
Xについて先延ばす一つの仕方は、Xについて十分に特定的でない意図を立ててしまうことである(「Xの一部を来週のいつかにやろう」)
【意図なし(決定なし)】
研究費申請の書類を書かねばならないと感じ書類を準備はしたが、実際に仕事に取り掛かるのにはずっと逡巡しており、結局締め切りが過ぎた。
・この事例は申請しようという意図を形成しているとは言い難い。しかし、そうすべきだという価値判断はしている。ここから、先延ばしの定義の中に、<意図の形成>や<後にすること>含むことへの疑念が生まれる。

結論

・行為者は意志の弱さ同様、行為と状態・判断との間の不調和として記述的に特徴づけられる。
・しかし、行為者性の<遂行>段階だけでなく、<デザイン>と<プランニング>の段階でも先延ばしはありうるので、先延ばしは意志の弱さに完全に包摂されるものではない。
・様々な先延ばしの諸相を統一するのは、時間的に延長する行為者にとって本質的である計画にまつわる活動をうまくできていないという点である。