えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

シェーラー的な共感概念へむけて Zahavi (2008)

http://www.sciencedirect.com/science/article/pii/S1053810008000445

  • Zahavi, D. (2008) "Simulation, Projection and Empathy"

アブスト

 近年シミュレーション説論者は、他者の心に関するもっとも基礎的な理解を特徴づける際に「共感」という語を用いるようになってきている。私は共感が重要であることには賛成だが、それはシミュレーション説論者によって誤って解釈されていると思う。そこで私は、シェーラーが共感に関して行った古典的な議論から得たアイデアを用いつつ、共感と概念の別の理解を支持するような議論を出す。詳しく言うと、シミュレーション+投影ルーチンの観点では明確にならないような間主観的な理解――特に、情動表現の理解――が存在していると論じる。

1.他者をシミュレーションする

・他者理解に関するシミュレーション説は、自分の心をモデルとし、それを他者の心を「まねる」のに使うことで、他者の心に関する情報を手に入れることができると考える。つまり他者理解は、他者の状況に自らを想像的に投影する能力にかかっており、この点をしてゴールドマンは他者理解のプロセス全体を「シミュレーション+投影」と呼んだ。
・社会性認知に関する理論は、典型的で日常的な対面状況での「心の理解」を扱えなければならないが、しかしこうした基本的な場面で「まね」や「想像的な投影」が大きな役割をはたしているようには見えない。より一般的に言うと、他者の心を説明予測する能力に焦点を当てすぎているという風潮があった(社会性に関する「工学的な」視線(Rochant 2008))。
・〔こうした風潮を受けて〕最近では、多くのシミュレーション説論者が2種類のシミュレーションを区別するようになってきている。例えばゴールドマンの言う「低レベル他者理解」は、怒りや嫌悪や恐れなどの基本レベルの情動を、表情を基盤にして他者に帰属させるための、単純・原初的・自動的な能力である。この能力〔の基盤には〕、間主観的なミラーメカニズムがある。つまり、標的の情動表現の知覚が、直接的に、同じタイプの情動の神経基盤の賦活をトリガーするとされる(Goldman 2006)。
・このような低レベルの直接的なミラー処理には「架空の状態pretend states」が含まれないのでこれは「シミュレーション」ではないのではないかと思われるかもしれない。しかしゴールドマンは、<処理Pが別の処理P´を何らかの重要な点で複製している/似ているかぎり、PはP’のシミュレーションである>と考えており、「架空の状態」は「高レベル他者理解」でのみ必要だとされる。「重要な点」の解釈は厄介だが、少なくとも標的と自分に同じ情動が生じる場合には、処理はシミュレーションだと言っていい。そしてこうした基本的な他者理解能力をゴールドマンらシミュレーション説論者は「共感」と特徴付ける事が多い。
・ザハヴィは共感が間主観的な理解の原初的な形式であることは認めるが、シミュレーション説論者が「共感」のよい説明を与えているかには疑問を持つ。ここではシェーラーに着目することで、非シミュレーション説的な共感の概念について考えたい。シミュレーション説を批判すると言って理論説を擁護しようというわけではなく、シミュレーション説対理論説の対立から漏れててしまう別の選択肢を考えようというものである。

2.シェーラーにおける共感

・シェーラーは『共感の本質と形式』(1923)で次の区別を設けた。
(1)【病的な例】赤ちゃんが泣いているのを感情の表出とは見ない
(2)【共感】赤ちゃんが泣いているのを感情の表出だと見るが、全然気に掛けない(より基本的な他者理解)
(3)【同感】赤ちゃんが泣いているのを見て、子供に同情を感じる (共感 + 関心/ケア)
(4)【感情伝染】バーに入ると楽しげな空気にのまれる
(5)【感情共有】赤ちゃんの死体を前にした夫妻
・共感と同感の違い:相手に関心をもつわけではない
・情動伝染と情動共有の違い:情動の対象ではなく情動の質だけが問題となる
・情動伝染と共感・同感の違い:それぞれ個別に人々に気付いているわけではない
・情動共有と共感・同感との違い:共感・同感では相手の心的状態と自分の心的状態は質的に異なる

・つまりシェーラーは、自分がその情動を持つことなく相手の情動を経験すること(あるいは知覚すること)を「共感」と呼んでいる。
・従ってこの理解のもとでは、共感には<類似による推論>、<投影>、<シミュレーション>、<模倣>などは含まれていない。基本的な<共感>においては、焦点は他者、他者の思考、感情に〔直接〕向かうのであって、自分に向ったり、自分だったらどうかという点に向かうものではない。

3.類比と表現

・シェーラーは<類比による他者理解>というアプローチに次の3点で反論する。

1 論点先取

・例えば私が自分の笑いと相手の笑いの間に類似性を見出すためには、その相手の身体運動を喜びの表出だとみなしているのでなくてはならない。しかしそれができるのは、我々が既に相手を心を持った生き物とみなしている場合だけである。

2&3 自己意識の過大評価&他者の経験の過小評価

・このアプローチには(1)自分にとって最初に・直接的に与えられているのは自分の意識であり(2)他者の心に直接的にアクセスすることは決してできない、という仮定がある。しかし、
(1)自己の経験は身体化されているので、自己の見知りが純粋に心的であるというのは虚構であり、
(2)他者は身体化された精神という統一体として出会われるので、他者の心を直接知覚することは可能である。
・つまりシェーラーは、我々が世界において相遇するのは<表情を持った現象>であると考えており、<まず心的性質や意味抜きの身体運動を経験し、その後それを付与する>といった二段階のモデルを否定する。

4.反論と明確化

・以上のようなおはなしに対するシミュレーション説側からの仮想反論を3つ検討する

A レベルの混同

反論:現象学はパーソナルな記述だが、シミュレーション説はサブパーソナルな話をしているので批判になっていない。しかもサブパーソナルなシミュレーションルーチンの存在は神経科学の知見からも明らかになっている。
再反論:重要な問いは、情動表現の意識的な認知を支えるサブパーソナルな機構が<「シミュレーション」という名に値するようなルーチンをどれだけ含むか>という点である。<相手の情動の認知は、自分の中に同じ情動が経験されることを要請する>という主張と<ある情動経験とその情動の認知には同じ神経基盤がある>という主張は異な〔り、シミュレーション説論者は前者をも主張している〕。
・また、怒り、幸福、悲しみなどのパーソナルレベルの語彙をサブパーソナルなメカニズムに使うのは有意味なのだろうか? 何故別の語彙を使わないのか。この問いをやり過ごすと、<標的との情動の一致>なるものについて語る正当性が無くなり、シミュレーションへ訴える根拠はより弱くなる。

B 人称の無視

反論:他人の心を経験出来るという主張は、他人の心には一人称的アクセスがないという事実を見過ごしていないか
再反論:そうではない。二(三)人称的な視点と一人称的な視点は確かに違うが、経験的アクセスと一人称的アクセスを同一視すべきではない。他者の表情を経験するとき、私は別の主観性を経験しているのであって、想像したり理論化しているのではない。

・トマセロは最近、他者の理解の仕方を(1)生き物(生得的)(2)意図的行為者(9-12か月)(3)心的行為者(4-5歳)に分けた(Tomasello, 1999)。(3)への移行に時間がかかる理由としてまず、生きてる性、意図、思考はこの順に行動によく表出される点、また、社会性認知の発達が遅いのはそれが現実世界での社会的相互作用に多く負っているという点が挙げられる。すぐには他人からアクセスできない心の側面があり、他者の心の理解は漸進的だと考えた点、発達過程における文化・社会的次元を指摘した点でトマセロは正しい。このような見解は、内的な認知モジュールが自動的に成熟した結果他者理解が複雑化すると考えるより尤もらしい。

C 背景

反論:表情/表出だけに注目しているのは視野が狭いのではないか。というのも、情動は志向的であり、その志向対象を十分理解するためには表情/表出の<背景>にも注意を向けなくてはならない。背景は表出を脱曖昧化する。
再反論:そのことで他者の情動理解が直接的でなくなるわけではない。直接経験の典型例である視覚に関して言えば、確かに我々は対象を視野の中でとらえるから、その対象の与えられ方は共に与えられているもののが何かに依存する。しかしそのことは、その対象の視覚が与えられていないということを意味しない。知覚の文脈性と直接性は矛盾しない。〔おなじように、背景が情動の知覚を間接的にするわけではない〕。

まとめ

・ゴールドマン的な共感理解が、<我々は他人へ経験的にアクセスする>という事を正当に認めていないと批判した。
・シェーラー的な共感理解を提示した。
・ただし、共感で他者理解のすべてが尽きるわけではない。例えば情動や行為の理由を知りたければ、共感からはわからないようなより広い文脈の理解が必要になる。