えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

反応的心情に基づく責任概念 成田(2004)

責任と自由 (双書エニグマ)

責任と自由 (双書エニグマ)

  • 成田和信 (2004) 『責任と自由』 (勁草書房)

【目次】
I 責任
第一章 ストローソンの責任概念 ←いまここ
第二章 責任とは何か
II 自由をめぐって
第三章 「別の行為も行うことができた」ということ
第四章 意志の実現
第五章 「別の意図も持つことができた」ということ
第六章 本心の実現
第七章 通時的コントロール
III 合理的<実践>能力と自由
第八章 合理的<実践>能力

1 責任概念とその解明法

 この本で扱われるのは「責任に必要な自由」であり、ここで言う責任とは<行為の責任>である。そして、責任と密接に関連する一群の心情に注目して責任概念を解明する「ストローソン派」の手法を用いる。

2 反応的心情

 恨み、憤り、軽蔑、賞賛、尊敬と言った心情は特定の対象にしかむけられない。「人」である。これらの心情をストローソンに倣いつつ「反応的心情」と呼ぶ。
 反応的心情の要因として、まず「相手がその行為を行った」という信念がある(この行為を「要因行為」と呼ぶ)。さらに、要因行為に関する特定の価値判断が必要である。

3 ストローソンの責任論

 責任を語る際には常に決定論との関係が大きな問題だった。ストローソンは両立論と非両立論との対立を背景とし、両者を批判しつつ独自の両立論を展開した。

両立論(公益説)への批判

公益説:「ある人が、自分の行為に関して責任がある」ということは、「その行為を理由にその人を罰したり非難したり、あるいは、褒賞を与えたりすることが社会の利益になる」ということを意味する。
 ストローソンは「対物的態度」という概念を持ち出す。対物的態度とは、相手を訓練・規制・操作・観察の対象としてあつかったり、単なる手段としてみなすことである。対物的態度だけで結ばれた「対物的関係」の中では責任は成立せず、むしろ「人々相互の人間的な関係」(「対人的関係」)の中でしか成立しないとストローソンは主張した。
 人々は、ある程度の善意を持って相手に接することを互いに要求しあっており、この要求が反応的心情と言う形をとってあらわれる(両者は同一だと考えていた節もある)。また、善意の要求は自分と相手の関係を超え、反応的心情も一般化する。このような善意の要求と反応的心情をとおした人々の結びつきが「対人的関係」である。

非両立論への批判

非両立論:責任の成立には非決定論的自由が必要
 しかし、我々が相手に反応的心情を向けるのを控えるのは、相手が強制されていたり、精神疾患を負っていたり、幼かったりするからであり、こうした理由は決定論とは何の関係も無い。責任は対人関係の中で初めて成立するのであるから、責任の有無は非決定論的自由の有無とは何の関係もないのである。

ストローソンの責任論

 ストローソンは「責任を負うことのできる主体」の問題と「個々の行為に関する責任」の問題を区別する。対人的関係の中に身を置いていなければならないというのは前者の問題にかかわることで、個々の行為に責任を負うためには、これに加えてさらに他の条件(例:強制されていない)を満たす必要がある。成田はここで、「ある個別の行為に関して責任が無い」ということを「その行為がなされたときだけ一時的に、責任を負うことのできる主体としての資格を失うということ」と等しいと解釈する。そこで、ストローソンの責任概念は次のように定式化されうる。

  • (R1)ある人Sは、行為Aを行ったことに関して責任がある = Sは対人的関係のネットワークの中に身をおいており、かつ、SがAを行ったことを理由にSに対して実際に何らかの反応的心情が向けられている。

4 対人的関係

 ストローソンの対人的関係においては<相手の善意に対する要求>が重要な役割を果たす。しかし成田は、対人関係においては価値判断の方が重要な役割を果たすと考える。そしてその方が反応的心情を統一的に把握できる。
 確かに反応的心情が生じるのは相手の善意を要求しているからではあるが、この要求は「相手は善意を示すべきだ」という価値判断を含むと考えられる。だからこそ善意を示さなかった時には憤慨や恨み、然るべき以上の善意が示されたときには感謝の念が生じる。また軽蔑・賞賛・尊敬などの心情は善意だけからは説明しがたいが、関連する価値判断から生じると説明する事が出来る。「反応的心情は価値判断に伴って生じる」。
 この修正でも、<対人関係は反応的心情によって媒介されている>という点は変わらない。この点で、価値判断だけをするが反応的心情を抱かないような「審判的態度」からなる「審判的関係」(特に「道徳に関する審判的関係」)と対人関係は決定的に異っている。