えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

道徳的責任概念の文化相対性 Sommers 2011

Relative Justice: Cultural Diversity, Free Will, and Moral Responsibility

Relative Justice: Cultural Diversity, Free Will, and Moral Responsibility

  • Sommers, T. 2011 *Relative Justice*

Ch. 3 恥の文化、集団主義社会、原罪、ファラオのかたくなな心 ←いまここ
Ch. 7 メタ懐疑論は消去主義を極めて暫定的だが支持する

恥の文化

・ルース・ベネディクト (1946) 『菊と刀』……恥の文化/罪の文化の区別

  • 【恥の文化】:外的なサンクションによって善い行いを動機づける(行為を見られたことへの恥:「恥は聴衆を必要とする」)
  • 【罪の文化】:内面化された罪の自覚によって善い行いを動機づける(行為への罪悪感)

・道徳的責任との結びつきは――

  • 【恥の文化】:規範を破ったが見つからなかった場合、責任があるとはあまり感じない
  • 【罪の文化】:違反が見つかろうと見つかるまいと、責任があると感じる

・また恥の文化の成員は、自分が起こそうと意図したわけではないが何らかの意味で自分と関係する有害な表立った行為に対し、(恥のみならず)責任をも感じる(cf. 韓国の例)

・こうした区別は<程度の問題>ではあるものの、その差は大きく、両文化での道徳的責任に関する直観に含意を持つだろう。
・一方で東アジアの人々は恥に比較的大きな強調をおき、<責められるべきであること>を<世間からの不同意>に結びつけ、自分の制御下にない公的な行為にも責任を感じる。
・他方で、西洋の人々は罪悪感に比較的大きな強調をおき、公的な行為であれ私的な行為であれ、それを自分が積極的に引き起こした場合にのみ、責任を持つと考える。

個人主義と集団主義

・今日の心理学・社会学者は日本‐アメリカ(東洋‐西洋)の文化的差異について語る際「集団主義社会‐個人主義社会」の対を使う。
・そのはしりがGeert Hofstede (1980)Culture’s Consequences(=[1984] 『経営文化の国際比較』)ここでホフステードは、66カ国のIBM従業員刑117,000人の調査から、<権力格差>・<不確実性回避>・<個人主義>・<男性主義>という四つの「文化次元」を見出した。
・中でも<個人主義>の次元は文化心理学者の興味を引いてきた(Kim et al. 1994)。キムらによると、個人主義と集団主義が強調するのは以下のような点

  • 【個人主義】:「私」の意識、自律、感情の自立、個人のイニシアティヴ、プライバシーの権利、快楽追求、財産の安全、特別な友人関係を求める、道徳的普遍主義
  • 【集団主義】:「我々」の意識、集団のアイデンティティ、感情の相互依存、団結、共有、責務、義務、安定して予定調和的な友情を求める、集団決定、道徳的個別主義

・また、両社会では自己の捉え方が異なり、責任の条件に関する考え方に差が出る。

  • 【個人主義的自己】:自律的で合理的。はっきりとした自己の境界(Triandis, Bontempo et al. 1988; Markus and Kitayama 1991)

→集団主義社会より、相手の心的状態により重きを置く

  • 【集団主義的自己】:文脈依存的で身体的。役割をもち、集団との境界は浸透しあう(Triandis 1995)

→個人主義社会より役割や階級に関連する要素により重きを置く

・責任の条件に関する信念は、社会構造によく適応するようになっているようにおもえる(4章で重要)

責任に関する日本とアメリカの視点

・HamiltonとSandersは日本人とアメリカ人を被験者に、責任帰属と加罰に関して質問紙による研究をおこなった(1981, 1988,1992 )。この際、3つの要因が着目された。
(1)おこない:害はどの位深刻か? 行為者の心的状態は? 意図性の度合いは? (大きい‐大きい)
(2)文脈:過去の悪い行動のパターンは? 加害者はどの程度他人の影響下にあったか?(大きい‐小さい)
(3)関係の役割:加害者と被害者の関係は? (加害者の地位が高い‐ 大きい)

【結果】:日本とアメリカでは各要因への重み付けが異なることがわかった。

  • 【日本】:加害者が被害者に権威を持つ場合の帰属が非常に大きい。他人からの影響を重視し責任を減らす。<被害者と加害者の関係の近さ>を操作すると判断が大幅に変化する。
  • 【アメリカ】:行為者の心的状態や意図を重視(日本の二倍)。他人からの影響があっても責任は減らさない(権力関係はのぞく)。関係の近さの操作では判断はあまり変わらない。

・両文化の判断には変動があるだけではなく、この変動は社会構造の違いと相関しているとハミルトンらは考えた:行為者が孤立した個物と考えられる社会では、行為者の個人的な属性がsalientである。他方、文脈に重きを置く社会では他者の影響や社会的役割がよりsalientである。この違いが責任判断の差を生む(この描像は個人主義的/集団主義的な自己の理解と軌を一にしている)。
・哲学ではなぜか責任は1か0かの問題として考えられておりこれは忌々しき事態だが、程度を許容する責任の理論が出来たとすると、以上の結果は重要である。責任の条件についての直観の変動を明らかにするからだ(<責任の条件とは何か>ではなく<各々の条件がどのくらい重要か>という意味で)。そしてこの変動は、事実認識の違いというよりむしろ社会構造、価値体系、自己観に由来している。

原罪とファラオのかたくなな心

・古い宗教のテキストは責任に対する態度の変動の証拠の宝庫である。

例1:原罪

・どうみても不公平(リンゴを食べたのはアダムであって僕ではない!)
<反応>
→アウグスティヌス「われわれはアダムである(形而上学的な意味で)」
→トマス「個人は人という種を全体とする部分であり、アダムが有罪なら我々も有罪」
・どうしてなぜこの教説がキリスト教の支配的な特徴としてあらわれたのか?――しかしこのことがが奇妙に思えるのは、責任には制御条件がつねに必要だと我々が思っているからだ。原罪を考えた人々は神学論争が巻き起こるとは思わなかっただろう。
・それどころか、聖書の神は常に制御条件を欠いた行為を〔原罪に限らず〕非難しているように見える。神が全能なら人の自由意志は無く、悪行の究極原因は神だからだ(さらにゼウス(上述)や旧約の神は悪行の最近原因ですらある)。

例2:ファラオのかたくなな心

【概要】主はモーセをファラオに何度も遣わしイスラエルの民の解放を求めたが悉く拒否された。するとエジプトに病が流行り大量の死者が出たので(出 12:29)、ファラオはようやく折れた。
【問題点】ファラオのこころをかたくなにしたのは主本人だった。どうみても公平ではない。

あなたの兄アロンはあなたの預言者となる。わたしが命じるすべてのことをあなたが語れば、あなたの兄アロンが、イスラエルの人々を国から去らせるよう、ファラオに語るであろう。しかし、わたしはファラオの心をかたくなにするので、わたしがエジプトの国でしるしや奇跡を繰り返したとしても、ファラオはあなたたちの言うことを聞かない。わたしはエジプトに手を下し、大いなる審判によって、わたしの部隊、わたしの民イスラエルの人々をエジプトの国から導き出す。(出 7:2-5 新共同訳)

<反応>
→パウロ

ところで、あなたは言うでしょう。「ではなぜ、神はなおも人を責められるのだろうか。だれが神の御心に逆らうことができようか」と。人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か。造られた物が造った者に、「どうしてわたしをこのように造ったのか」と言えるでしょうか。焼き物師は同じ粘土から、一つを貴いことに用いる器に、一つを貴くないことに用いる器に造る権限があるのではないか。(ロマ 9:17-21 新共同訳)

→〔エラスムスら〕:これは「harden」〔にあたるヘブライ語〕の曖昧さからくる誤訳であり、「ファラオは自分の心をかたくなにするので」と理解すべき。(ルターは批判的でパウロに近い見解を採る)
→エドワーズ(1957[1754]):責任に必要なのは邪悪な欲求に従った行為であり、決定論は関係ない(TNR原理を否定するカルヴァン派的両立主義)。ファラオは自分のかたくなな心のゆえに罰に値するのでありその原因は関係ない。

・ここで注目したいのはエドワーズの議論の仕方。エドワーズはTNR原理が直観的に正しいと一切思っていなかった節があるが、もしそう思ったとしても、強い神学的コミットメントによってその直観の力は減じられただろう。つまりここでエドワーズは他の強い神学的確信(e.g. 神は不正ではありえない)との比較交渉した結果として、責任の条件に関する両立主義的な見解に達している。
・一方で、上で議論したように、集団主義社会や名誉社会においては、同じ両立主義的な信念が、その文化から自然とでてくる直観によって獲得される。従って、この事例に解くべきパラドックスはそもそも存在していない。別の時代・文化に生きた神学者たちはこの信念を、直観よりも強い神学的確信に訴えて<擁護>しなくてはならなかった。〔のであり、神学者がこのような戦略を採ったことがまた責任直観が文化/時代によって変異することの証拠である。〕
・普遍主義者はここで、エラスムスとルターは<責任の条件>ではなく<聖書の字義通りの真理性>の点で争っていたのであり、聖書の字句にとらわれなかったエラスムスの方が道徳的責任に関する「真理」をより把握することが出来たのだと言うだろう。この点は特に争わない。
・むしろファラオの例が責任のメタ懐疑論に重要なのは次の点である。
(1)聖書の物語が構想された文化〔聖書の記述〕と、それが展開してきた文化〔神学者たち〕の間で、正義の捉え方が抜本的に異なることが証されている。
(2)エドワーズの戦略が示すように、責任の条件に関する直観はつねに比較交渉可能である。信念体系に不整合が生じた時、責任に関する直観をなにもかんがえないで保持しなくてはならない理由などない。より確かな信念に基づいて直観を棄却するルター〔やエドワーズ〕の方法は完全に健全である。(第二部で重要になる)
(3)ルターとエラスムスは類似した文化環境に生まれた。従って、普遍主義者が言うように彼らが道徳直観を共有していてもそれは普通である。上の議論が有効だとしとも、異なる文化にいる個人間の不一致が同様に説明しさられることにはならない。

結論

・2・3章で、道徳的責任に関する視点に文化的な違いがあるという証拠をたくさん示してきた。これらの事例のいくつかはそれぞれなりの方法で説明し去られるのかもしれないが、全体としてみればやはり文化的な差異が存在すると考えるのが尤もらしい。
・自文化・時代の原理を普遍的なものとみなすのは人間あるあるである。普遍主義者はデータを自分好みに解釈できると言うだけでなく、データが文化的差異を示さ<ない>と考える方が尤もらしいと〔まで〕示さなくてはならない
・多くの普遍主義者は、責任の条件に関して真の不一致があると認めつつも、そのことは自分の理論を掘り崩すものではないと考えているだろう。<科学的探求は文化差・歴史差に頭を悩まされないものだとすると、なぜ道徳的責任が主題となったときにはそれが問題となるのか?> これが普遍主義者の問いである。この問題に関しては4章であつかう。