えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

行為の哲学の根本問題 Velleman (2000)

The Possibility of Practical Reason

The Possibility of Practical Reason

http://quod.lib.umich.edu/cgi/t/text/text-idx?c=spobooks;idno=6782337.0001.001

  • Velleman, D. (2000). The Possibility of Practical Reason (Oxford University Press)

2. Epistemic Freedom
5. The Guise of the Good
6. What Happens When Someone Acts? ←いまここ

「人間の行為に関する標準的なお話」と行為者 121-127

 デイヴィドソンに帰されるような行為の説明においては、行為において行為者の持つ役割がうまく捉えられていない。行為者は様々な出来事がおこる<場所>としての役割しか持っていないからだ。
 関連する出来事の総計が行為者の参与になるのか(「ケーキのレシピの中にケーキが入っていないのはおかしい!」)?。そうではない。行為者によって行われる独自の役割は、少なくとも<理由の影響のもとで意図を形成する>、<その意図に応じた振る舞いを生み出す>の二つがあり、ここで行為者は心的状態と相互作用している。
 行為者は心的出来事の主体として標準的なお話の中に暗黙に登場しているのか(「隣り合う波の間にある因果関係の一部に大洋が含まれていないのはおかしい!」)?そうではない。フランクファーとが強調したように、欲求や信念は行為者を無視して意図を形成することがあるし、意図が振る舞いを引き起こすのに行為者が関与し損ねる場合もある。有名な例は逸脱因果だが、逸脱していなくても同じことが起こりうる。*1

概念と現実:行為の哲学の根本問題(行為者の問題) 127-132

 標準的な物語は、<世界の説明の秩序の中に行為者の居場所を見つける>という行為の哲学の根本問題の犠牲になったのだ・・・。我々の行為概念は、行為者によって生じ、行為者にさかのぼって説明される出来事・事態なるもの要請している。
 こうした概念と現実を調和させる障害となっているのは、<全ての出来事や状態は他の出来事や状態によって引き起こされており、従ってそれによって説明される>という科学的な世界観であり、このもとではチザムのいう非還元的な「行為者因果」は存在しえない。
一方この世界観を引き受けても(ヴェルマンはそうする)、<常識が行為者に割り当てている因果的役割がいかにして出来事や事態間の因果関係に還元/SVされるか>をしめせば、概念と現実を調和させることが出来る。そうした試みのなかでこれまで最良のものはフランクファートの業績である。

フランクファートの挑戦 132-137

 フランクファートは、行為者を原因としないで起こる行動(行為者が動機から疎外されている事例)に焦点を当てることで、そこから見失われているものを特定しようという戦略をとった。そこで見出されたのが<行為者による心的状態の同一化>であり、この同一化を構成する心的出来事や状態を探しはじめた。
 その候補としてまず「2階の動機」が挙がった。しかしワトソンが指摘しフランクファートも認めたように、二階の動機から行為者が疎外されていることもありうるので、この方針はうまくいかない。続いてワトソンは「行為者の持つ価値」、フランクファートは「決定・決定的コミットメント」を挙げたがこれもあまりうまくいっていない。
 動機への同一化をその他の心的状態(欲求・価値・決定)へ還元しようという試みにはジレンマが生じてしまう。こうした心的状態は常に疎外が起こりうる(「答えになっていない」)が、一方でこの心的状態の存在が行為者の参与を保証すると仮定すれば既に行為者因果を導入していることになる(「問題を回避している」)。

行為者の機能的等価物:理由に従って行為しようという欲求 137-143

 フランクファートの根本的な失敗は、ある行為者因果の事例を別のターゲット事例に置き換えたところにある。還元主義が前進する道は、行為者因果なるものをさらに部分に分割してしまうことだ。<行為者の動機への自己同一化>の役割をする出来事・状態を探すのではなく、<行為者>の役割をする出来事・状態を探すべきなのである(行為者と機能的に等価な出来事・状態システムの探求)。
 ここでは上で挙げた行為者の役割ではなく、フランクファートが強調した役割<競合する動機の調整>に注目したい。競合する動機を調整するものは、動機から批判的距離をとり全ての階の態度を反省できるものでなくてはならない。この役割が可能なのは実践的思考それ自体を駆り立てているような動機だけである。そしてそれは、<理由に従って行為しようという欲求>である。
 <理由に従って行為しようという欲求>とは特定の欲求ではなく、様々な欲求が含まれる(例:意味をなすこと、自分にとって知解可能で、説明可能なことをしようという欲求)。また、この欲求は行為者によって所有されないということがありえない。ただし人は動機の理性的評価をやめることでこれを所有しないことがありえ、このときにはこの人は行為者ではない。

*1: ささいな意見の違いを解消するために、古い友人とようやく会ったとしよう。しかし喋っている途中、相手の何気ない発言によって私は声を荒げ、攻撃的で辛辣な返答をしてしまい、けんか別れしてしまった。後になって反省してみると、友人に会う数週間前から私の心の中には不満が積もり積もっていて、今回の議題をこえて友情そのものまで断ち切ってしまおうと決意していたのだということに気がついた。そしてこの決意によって、私の発言は刺々しくなっていたのだった。つまり私は、自分の欲求がある決定を引き起こし、そしてこの決定が対応する行動を引き起こしたのだと結論するかもしれない。さらに、これらの心的状態は何か特異な狼狽や強制に扇動されていたわけではなく、普通の動機づけの力を発揮していたと認めるかもしれない。しかしこのとき私は、私がこの決定をした、下したのだと必ず考えなくてはいけないのだろうか? この決定は、確かに私の欲求によって動機づけられたが、そのことによって<私の中に引きいれられた>のであり、<私によって形成された>訳ではなかったと考えることができるに違いない。そして、たしかにこの決定は私の行動となって遂行されたが、それは私にはどうしようもないことだったと考えることができる。それどころか、この決定は私の欲求によって直接動機づけられたものだと理解し、私の行動はその決定によって直接支配されているものだと理解すると、まさに次のような考え方に導かれる。私の言葉が容赦ないものとなったとき、〔容赦なかったのは〕私の反感に満ちたしゃべり方であり私自身ではない、と。