The Varieties of Reference (Clarendon Paperbacks)
- 作者: Gareth Evans,John McDowell
- 出版社/メーカー: Oxford University Press
- 発売日: 1982/12/23
- メディア: ペーパーバック
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- Evans, G. (1982) The Varieties of Reference (Oxford Univ Pr)
透明性手続き
ウィトゲンシュタインはオックスフォードで行われた議論で次のように述べたと伝えられている。
あるひとが空を見上げてこう言ったとしよう。「私は雨が降るだろうと思う。従って私は存在する」。私は彼が何を言っているかわからない。
この発言は確かに様々な示唆を含んでいる。私が思うに、ウィトゲンシュタインがやりたかったのは、自分の心的性質に関する自分自身の知識の本性をもっとよく見るよう促し、そして特に、この知識には<〔心的〕状態を内的にに見て>、<何か本人にしかアクセスできないことを行う>ということが常に含まれているという考え方を放棄するように強いることで、デカルト的な立場を受け入れようという誘惑をぶち壊すことなのだ。重要なのは、私が下線を引いたところだ。信念を自己帰属するとき、人の眼は、言わばあるいは時には文字通りの意味で、外に、世界に向けられているのである。もし誰かが私に「第三次世界対戦があるとあなたは思いますかね?」と聞かれたら、私はこの問いに答えようとして、外にある現象に注目するに違いない。この<外にある現象>というのは、「第三次世界大戦はありますかね?」という問いに答える時に注目するものと全く同じ現象なのである。pかどうかという問いに答えるためにわたしがもつ手続きがどんなものであろうとも、それを行うことによって、私は自分がpと信じているか否かという問いに答えられる立場に置かれるのである(この信念を決定する手続きはもちろん何かに対して行われるものであり、だから何か誤ったものに適用してしまうことももちろんある)。もし判断の主体がこの手続きを適用させた場合、必然的に、彼は自分自身の心的状態に関する一つの知識を得ることになる。もっとも確固たる懐疑論者でさえ、ここにギャップを見出してナイフを差し入れることはできない。
人が何を信じているかというというに答えるためのこの手続きは、次のような単純な規則で再定式化できる。あなたがpと主張できる立場にいるとき、あなたは「私はpと信じている」と主張する立場にいることに事実上なっているのである。しかし、このような手続きに習熟することが、「私はpと信じている」という判断の内実の完全な理解を構成していることはありえないということも全く明らかである。この判断の内実を理解することは、「ξはpと信じている」によって表現される心理的な概念を所有していることを含んでいる。そして主体はこの概念を、自分以外の人によっても例化されることができるものとして把握していなくてはならない。判断にこの概念が含まれているということは、次の二つのことによって顕在化されているだろう。まず主体は、他人への述語の帰属と関連するものとして認識するつもりであるような種の証拠は、自分自身の主張の真理に影響するものとして理解している。次に主体は、他人が(pであるか否かに関する判断をなす際に)述語の自分への帰属の根底にあるのと同じ手続きを行使したということを、他人への述語帰属とも関係するものとして認識しようとしている。このようないわば背景なしには、主体の思考(「p」)に真の「I think」(「think that p」)が伴っているということを確保できない。全ての思考に伴う「I think」は純粋に形式的なものである。しかし、背景を加えることによって、自己帰属の方法が変わるわけではない。特に、内側をのぞくというような考え方をする必要性は相変わらずない。 pp. 225-226
知覚のしくみ
一般に、知覚的経験は主体の情報状態と考えられるだろう。知覚的経験は特定の内容をもつ。世界が特定の仕方で表象されているのである。従って、知覚的経験は真または偽のような非派生的な分類わけをゆるす。内的状態がこのようなものとして考えられるためには、行動との適切な結びつきが無ければいけない。つまり、主体の行為に対して特定の動機的な力を持っていなくてはいけない。この動機的な力は、より洗練された有機体(概念を行使し推論を行うような有機体)のなかにある場合には、別の考察に基づいた判断によって撤回されることもある。こうした有機体における内的状態は、運動システムとの系統発生的により古い結びつきによって内容を持つことになっているが、この内的状態はさらに概念行使と推論のシステムへの入力としても働いている。このとき、判断はこうした内的状態に基づいている(つまり、信頼可能な形で引き起こされている)。そして内的状態が概念行使と推論のシステムへの入力になっている場合には、情報は主体にとって「アクセス可能」となっていると言うことが出来る。そして、意識的な経験が生じているのだということができる。
主体が知覚を通して獲得した内的状態は、非概念的あるいは概念化されていないものである。このような状態に基づいた判断は、必然的に概念化を含むものとなる。知覚経験から世界についての判断(普通何らかの言語の形式で表現されうる)へ移行する中で、人は基本的な概念スキルを行使することになるだろう。しかし(経験から判断へという観点からする)この定式化が全体的な描像を曇らせることがないよう気をつけなければならない。主体の判断はその人の経験に基づいている(つまり、その人にとって利用可能な概念化されていない情報に基づいている)が、この人の判断はその情報状態にについてのものではない。概念化のプロセスあるいは判断は、主体をある種類の情報状態(ある種の内容、つまり非概念的内容を持った判断)から、別の種類の認知状態(また別種の内容、つまり概念的内容をもった判断)へ移行させるのである。従って、主体が自分の判断が正しいということを絶対的に確信したい場合には、この人はもう一度世界をよく見るのである(それによって、自分の中に情報状態を生産あるいは再生産するのだ)。いかなる意味でも自分のな内的状態をよく見たり、それに集中したりすることはないのである。内的状態はいかなる意味でもこの人にとっての対象ではありえない(このひとは内的状態の中にあるのだ)。
しかし、主体は自分の内的な情報状態の知識を非常に簡単の方法で得ることができる。世界について判断をするときに用いたのと同じ概念化のスキルをもう一度適応すればいいのである。こうすればよい。 pp. 227-228
独我論について
例えば主体に痛みがあったり樹を見ているときに問題となる知識は、観察可能な世界の状態が成立しているときに問題となる主体の知識とまさに類似しているように思われる。日食が起こっている時、主体はかくかくの経験が予測されると言うだろう。そして、主体は日食があるか否かを知っている――主体はこの知識を適切なテストのなかでの振る舞いによって顕在化させることができる。同じように、自分に痛みがある場合には、主体はかくかくの経験が予想されるというだろう。そして彼はどれがこの痛みの経験かを知っている。この人に痛みがあることと他の人に痛みがあることの間には確かに違いがある。この違いはこの主体が検出することができるものであり、それは日食と月食の違いを主体が検出できるのとぴったり同じなのである。 p. 233