- 作者: 信原幸弘
- 出版社/メーカー: 勁草書房
- 発売日: 1999/06/01
- メディア: 単行本
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- 信原幸弘 [1999] 『心の現代哲学』 (勁草書房)
第2章 命題的態度と合理性
3 因果説の批判
デイヴィドソンが行った反因果説批判には二つの論点があった
批判1 行為の理由が行為なした理由ではない場合がある
【反論】
行為を合理化する複数の信念と欲求の組があるばあいでも、ほかの命題的態度を含めた包括的な合理化の考察を行えば、どれが行為をなした理由であるかは決まる。
・例えば、花子にバラを贈った太郎が次のような命題的態度を抱いていたとする
D1:花子を喜ばせたい
B1:バラを贈れば花子は喜ぶ
D2:花子の誕生日を祝いたい
B2:バラを贈ればお祝いになる
ここで、太郎に次のような(誤った)信念があったとする
B3:花子の誕生日は明日である
この場合、B2とD2はもはや行為を合理化しない。
・もし複数の欲求信念組が行為を包括的に合理化するなら、どちらもが行為の理由なのである。
【想定反論1】
ある信念欲求組が包括的に合理化するにもかかわらず、なおそれが行為をなした理由ではないことがあるのではないか?
【応答】
本当にそんな可能性はあるのか? そのようにふるまう行為者は合理性を著しく欠いている。というのも、欲求をもつ行為者はその手段となる行為を行うべきであるから、行わないのだとすれば他の命題的態度が妨げになっているはずである。しかし包括的に合理化されている状況ではそのような妨げとなる命題的態度はないのだから、行為を行わないのは不合理だということになる。
【想定反論2】
明らかに因果的考慮が働く場面がある。例えば、太郎が行為の際に、D1B1を意識的にもち、D2B2は全く意識に上らなかった場合、前者の組が行為を引き起こしたこと、ひいては理由であることは明らかではないか。
【応答】
本当にそうだろうか。太郎にさらに次のような心的状態があったとせよ
B4:花子は喜ばせすぎると有頂天になってどうしようもなくなる
B5:つい先日花子に宝石を買ってあげたばかりだ
この場合D1とB1は、いくら意識に上っていても行為を包括的に合理化しないので、太郎の行為は不可解なものにとどまるだろう。従ってこれらは行為の理由とは言えない。
このとき、D2B2の方は行為を包括的に合理化するとすると、これらが意識に上らなかったとしても、こちらの組が行為をなした理由ということになる。真の理由は太郎の意識とは別のところにあったのである。
批判2 理由による行為の説明は行為の生起の説明でなくてはならない
【反論】
合理性の観点からも行為の生起の説明はできる。「ある欲求と信念がある行為を包括的に合理化しながら、その行為がなされないことはあり得ない」という既述の論点からして、行為が包括的に合理化されてることでもって行為の生起を説明できる。
結論
⇒因果説が因果関係に追わせようとした役割は全て包括的合理化の関係によって果たすことができる。