えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

脳オルガノイド倫理に意識の一般理論は必要か? Shepherd (2018)

jme.bmj.com

  • Joshua Shepherd (2018), Ethical (and Epistemological) Issues regarding Consciousness in Cerebral Organoids, Journal of Medical Ethics, 44(9): 611–612.

 脳オルガノイドにかんする倫理的な問題は、オルガノイドに(どのような)意識があるかを確定するという認識論的問題と切り離せない。この点についてLavazza & Massimini (2018) は、意識の一般理論の必要性を強調している。しかし、そうした「理論」は本当に必要なのだろうか。

 現在、哲学者のあいだでも科学者のあいだでも、様々な意識の理論が対立している。各理論の細かな違いは、将来オルガノイドの発達の操作の制度がより上昇したとき、道徳的により重要になるかもしれない。しかし現状、各理論の対立が容易には解消しなさそうであることを踏まえると、道徳的に重要な意識過程を支えていると思われる生物・心理的構造について各理論でコンセンサスが取れている部分に注目したほうがいいのではないか。

 コンセンサスを探る範囲は、単に意識の有無だけでなく、意識的活動がどのような特徴を持つかという点にも及ぶ。例えば現象的意識過程は、「確定可能-確定的」構造を持つ。つまりある主体が意識的であるとして、その最も確定可能なありかたは「どのような性」(what-it's-like-ness)を持つということだ。しかしこの主体の意識状態は、より確定的に、知覚経験を含むかもしれないし、さらに確定的に、特定様相の知覚経験(視覚・固有受容感覚)を含むかもしれない。また認知的な意識や、さらに特定の形式の意識的認知(予期、判断など)を含むかもしれない。これらはすべて現象的性質という点では同じだが、道徳的重要性の点での違いがありうる。筆者自身としては、意識活動における価値は、感情的な現象的性質および、主体の心理構造の高階の特徴によるものだと考えている。しかしいずれにせよ重要なのは、問題となるオルガノイドについてこのような心理的構造をよりよく理解し、その構造と道徳的議論を対応させることにある。

 より具体的に言うと、脳オルガノイドの意識について考える際には、外傷性脳損傷のような難しい境界事例における意識の研究の中で開発されてきた概念を転用するほうが、何らかの意識の一般理論を適用することよりも有益だと筆者は考える。また、昏睡状態、麻酔状態、微睡状態、覚醒状態を区別する神経過程についての研究を参照することもできるかもしれない。意識の道徳的価値という問題は、快の良さや苦痛の悪さといった平凡な言葉ではうまく扱えない。関連する研究者たちが事柄に対してさらに深くコミットする必要がある。