えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

集団ベースの理由と行為者性の多元主義 Woodard (2003)

http://link.springer.com/article/10.1023%2FA%3A1024458623591

  • Woodard, C. (2003) "Group-based Reasons for Action"

・集団的行為に参加することへの個人ベースの理由が存在する。では集団ベースの理由は存在するか?(集団ベースの理由:集団的行為の合理性から派生するような理由)
→Yes
・それは何か興味深い種類のものか?→Yes
する気要請に従うと集団ベースの理由は別に面白いものではない。これは廃される。
【する気要請】
人が、集団的行為の中で自分の担当部分を行う集団ベースの理由を持つ only if (十分な数の)他のメンバーが協力する気がある

非決定性による論証(Regan 1980)

・集団ベースの理由は「純粋な調整問題」場面で顕著に表れる。例えば、

  HIGH LOW
HIGH 10 0
LOW 0 6

・個人ベースの理由は、HighにはHigh、LowにはLowで返すことを教える。しかし、HighとLowどちらを選ぶべきかは教えない。この意味で、二つの解の間には非決定性がある。
・High-HighはLow-Lowより良いのは「明らか」だが、そのことを説明するためには斜めにHigh-HighとLow-Lowを比較しなければならない。→集団ベースの理由の存在が要

請される。
・相手の尤もらしい振る舞いに関する情報があればHigh-Highの優位性は説明できると良く反論されるが、全てのケースを説明できるわけではない。

非決定性による論証の3つのポイント

【1】純粋な調整問題以外でも同じ議論が使える
【2】個人ベースの推論は最適解から逸らせる訳ではないが保証しないという点にポイントがある
【3】集団ベースの推論が非決定性に完全な回答を与えるわけではない。しかし、集団ベースの理由を認識すれば非決定の発生が減らすことは事実である。

計画ベースの理由による論証

・計画ベースの理由は、より広い行為計画合理性から派生する、行為の理由である。計画ベースの理由も集団ベースの理由も、全体の合理性から部分の合理性を派生させる。違う点は「全体」にあたるのが集団的行為か一人の行為者の一連の行為かという点
・計画ベースの理由を認めるなら集団ベースの理由の存在を受け入れていけない根拠がない

・多くの哲学者が【する気要請】を受け入れる傾向がある。
・なぜ【する気要請】は集団ベースの理由をつまらないものにしてしまうのか?
→個人ベースの理由と集団ベースの理由が深い意味で衝突することが不可能になってしまう
深い意味で衝突:個人ベースの推論と集団ベースの推論で出てきた結論に同時に従うことが不可能

する気要請を排した方がよいと思われる事例

・化学者であるジョーンズには化学兵器を作るといういやな仕事しかオファーがない。これを受け入れると本人と家族は利益を得るが、断った場合、この職に就く気がある他の人が就職し、ジョージと同じ程度の能力で研究を進めるだろう。
→ジョージがこの仕事を断るのは合理的か? 恐らくYes。職を受け入れることは、非合理あるいは邪悪な集団的行為に参加するということを意味するからである。
→集団ベースに考えれば断るのが最善の選択であり、このジレンマは個人ベースの理由と集団ベースの理由との衝突としてとらえられる
・しかし他の科学者はこの最善の選択をとる気がないので、する気要請は満たされていない。
→する気要請が満たされていないのに集団ベースの理由が存在する事例

・する気要請を排すると、<ある行為は、その他の部分が実現しないだろうより大きな行為パターンの一部であることによって、合理的でありうる>と認めることになる。
・ジョージのお断りは、その性格や価値の一部を、実現しない化学兵器研究の遅延から受け取っている。

する気要請を保持すべき理由1:(大部分が)実現しない行為パターンに訴えてその構成要素の合理性を説明するのは誤りである。

根拠1:実現しない全体が部分の合理性に寄与するというのは端的にあり得ない

再反論:何故あり得ないのか。実践的推論は実際の事物を仮想的な事物と比較するものだと考えられているではないか(「この選択肢は他のどの選択肢よりも良い帰結をもつ」)。
・仮想的な事物は実際の事物の価値を示すが、寄与することはないということなのか? しかしこの区別への訴えは説得的でない。行為の価値は、それと比較される仮想的選択肢が何なのかによって影響を受ける。
・(a)仮想的な事物の価値について語り、(b)そうした価値が実際の事物の価値に影響するという考えを持ち、さらに(c)全体の性格は部分の性格に寄与するという考えをも

もつなら、この考えに何のおかしなところもない。

根拠2:実現しない可能性への訴えは恣意的ではないのか?

訴えるべき可能性を決める原則はある:(個々のメンバーが自分の役割をする気があるかは無視して)問題の集団がその状況でふるまうことが可能だった行為パターンを考慮せよ
→この原則は恣意的か? そうではない。一人称的な事例で考えると、tでXをなすべきかについて熟慮する際、合理的行為者は自分がtでXをするか否かに関して持ちうる予測は無視して、何ができるかを考える。上の原則はこうした可能性へ熟慮の態度を集団へ一般化したものにすぎない。
・この一般化は不当か? 一人称的な予測は熟慮の結果と独立していないが、別の人物が協力しないだろうという予測は、行為者が自分の役割を果たすか否かの熟慮から全く独立なことが多い。熟慮と予測の依存性に非対称性がある。
・しかしこの一人称的な依存性は予測を無視していい理由とは別物である。予測は端的に熟慮に関係ないから無視される。実践的推論が前提するのはもし行為者がそれを選択するならすることができる行為群の存在であり、この行為群の特定に予測は全然関係していない。
・もちろん、する気は自分の役割を行う理由の強さの算定には重要である。しかし、する気がないからといってそうした理由の存在が無くなるわけではない。

する気要請を保持べき理由2:集団ベースの理由を信じる者は、<多くの状況で破滅的な帰結をもたらすようなことをなす理由行為者にはある>という結論をさけるために、これを支持することを止めたほうがいいのではないか?
・理由になってない。する気要請は集団ベースの範囲に制限を加えるものであり、かえって状況への柔軟性が減っている。
・こうした制限をかけるよりはむしろ、集団ベースの理由と個人ベースの理由の衝突を認識すべき = 行為者性の単位にかんして多元主義をとるべき。
・多元主義はジョージに職を拒否すべき理由を与えることができ(集団ベースの理由の方が強い)、制限あり一元論より制限なし多元主義の方が破滅的な含意を排することができる。
・熟慮の問題にかかわる行為者性の単位が常に一つであるという考え(集団ベース理由の支持者も、行為者性の単位の可変性を認めれば、多元論にコミットすることなく、こう考えることができる)は奇妙である。我々は対立する行為の様式(個人として、計画のあるなし・様々なサイズと構成の集団の一員として、計画のあるなし)によって生み出された衝突する理由に直面する。こうした衝突が生み出す判断の複雑性が、単に行為者性の単位の可変性を認めるだけで適切にとらえられるとは思えない。〔さらに進んで多元主義をとるべきである。〕

〔省略; まとめ〕