えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

「意識は脳過程なのか?」 Place (1956)

http://onlinelibrary.wiley.com/doi/10.1111/j.2044-8295.1956.tb00560.x/abstract

  • Place, U. T. (1956). Is consciousness a brain process? British Journal of Psychology, 47(1), 44–50.
要約

 意識は脳内の過程であるというテーゼは、理にかなった科学的仮説として表現できるものであり、論理的根拠のみによって排除されるべきものではない。二群の観察が、二つの独立するが相関する過程の観察ではなく、まさに同一の過程の観察であるための条件が論じられる。意識を特定の脳活動のパターンと同定できるのは、主体の内観的観察をそれと相関する脳過程を参照しながら説明できる場合であると考えられる。内観的観察に生理学的説明を与えるという問題はこれまで、実際以上に困難なものだとされてきた。これは「現象学的誤謬」という誤りによるものである。事物の見かけについての記述を、神秘的な内的環境の内部にある実際の事態についての記述であるとしてしまうのは、誤った考えなのである。

I. 序論

 物理科学がもちいる概念では記述できないような独立の出来事、すなわち心的出来事というクラスが存在するという見解は、もはや以前のように哲学者や心理学者の中で普遍的に異論なく受け入れられるようなものではない。とはいえ、現代の物理主義は17世紀や18世紀の唯物論とは異なり、行動主義的なものである。今日の見解によれば、意識とは特定のタイプの行動であるか、あるいは一定の仕方で行動する傾向性である。前者の例としてトルーマンは「調査」行動や 「往復」行動を考えている(Tolman 1932, p. 206)。後者の例としてたとえば、かゆみとは掻くことへの一時的性向だと考えることができる。「知る」、「信じる」、「理解する」、「憶えている」といった認知的概念や、「欲する」、「意図する」といった意志的な概念の場合、行動傾向という観点からの分析が究極的には正しい方向を向いているということは疑問の余地の少ないものと思う(Wittgenstein 1953; Ryle 1949)。ただ他方で、このような分析では手に負えない残り物があるように思えるのも事実だ。この残り物は、なんらかの種類の内的過程について語らざるをえないような概念たち、すなわち意識、経験、感覚、想像といった概念を中心にして固まりをなしている(Place 1954)。もちろん、この概念的な残り物たちに対して満足いく行動主義的説明を与えることは究極的には可能だろう。だがこの論文では、このような説明は不可能だと仮定しておく。つまり、痛みやかゆみにかんする言明、事物がどう見え、聞こえ、感じられるかにかんする言明、夢見られたり心の目によって描かれたものにかんする言明、こうした言明は、述定される個人にとってなんらかの意味で内的で私秘的な出来事や過程を指示している言明だとしよう。ここで問題を提起したいのだが、この仮定をおくことことによって私たちは二元論的な立場にコミットしなければならないのだろうか。つまり、感覚や心的イメージなどの過程は、それらと相関していることが知られている物理的・生理的過程以上の、それとは独立なカテゴリーを形作るのだと認めざるをえないだろうか。この論文では、内的過程の存在を受け入れることは二元論を含意しないこと、そして、意識は脳内の過程であるというテーゼを論理的根拠から退けることはできないこと、これらを示す。

II. 定義の「である」と構成の「である」

 はじめに強調しておきたいのだが、意識は脳内の過程であるというテーゼを擁護するにあたって私は、私たちが自分の夢や空想や感覚を記述している時には脳内の過程について語っているのだとは論じない。つまり、「認知言明」が行動にかんする言明へと翻訳できるのと同じように、感覚や心的イメージにかんする言明も脳過程にかんする言明に還元あるいは分析可能だ、とは主張しない。意識にかんする言明が脳過程にかんする言明だというのは明らかに誤りである。このことは次の三つの事実からわかる。(a)脳過程について何も(その存在さえ)知らなくても、感覚や心的イメージを記述することができる。(b)意識にかんする言明と脳過程にかんする言明はまったく違うしかたで検証される。(c)「Xは痛みをもっているが、その人の脳内ではなにも起こっていない」という言明に自己矛盾的なところは何もない。では私が主張したいことは何か。それは、「意識は脳内の過程である」という言明は必然的に真というわけではないが、必然的に偽でもない、ということだ。私の考えでは、「意識は脳内の過程である」は自己矛盾してもいなければ自明でもない。これは理にかなった科学的仮説なのであり、「稲妻は電荷の移動である」と同じようなものなのである。
 意識と脳過程が同一だという主張は論理的根拠のみから却下できるという見解は、満場一致というわけではないが広く受け入れられている。だがこの見解は定義の「である」および構成の「である」とでも呼ぶべきものの混同に基づいているのではないかと私は考える。これはどういう区別かというと、「正方形とは等辺の長方形である」、「赤とは色である」、「教示を理解しているとは適切な状況下で適切に行為できることである」といった言明における「である」という語のはたらきと、「彼の机は古い荷造り箱である」、「彼女の帽子はワラを糸で結びつけたものである」、「雲は浮遊している水滴その他の粒子のかたまりである」といった言明における「である」のはたらきの違いのことだ。この二種類の「である」言明は一つの共通点を持つ。それは、これらの言明に「他のなにものでもない」と付け加えることが意味をなすという点だ。この点でこれらの言明は、述定の「である」が登場する言明とは異なっている。というのは、「トービーは80歳であり他のなにものでもない」や「キリンは背が高く他のなにものでもない」といった言明はナンセンスだからだ。〔「他のなにものでもない」を付加できるという〕この論理的特徴は次のように記述することができるかもしれない。すなわちこれらの言明では、言明法上の主語と言明法上の述語の両方が、指示対象となる事態の適切な特徴づけを与えているのである。
 だが別の側面では、二種類の「である」言明は大きく異なっている。「正方形とは等辺の長方形である」のような言明は、定義により真となる必然的な言明だ。だが「彼の机は古い荷造り箱である」のような言明は、観察によって検証される偶然的な言明である。「正方形とは等辺の長方形である」や「赤とは色である」のような言明の場合、文法上の主語と文法上の述語のあいだには、前者が適用できる場合には後者も必ず適用できる、といった関係がなりたっている。もしなにものかを赤だと記述できるなら、それには色があるとも記述できるのでなくてはならない。一方でこのような関係は、「彼の机」と「古い荷造り箱」という表現のあいだにはなりたたない。二つの表現が共に適用可能で同一の対象の適切な特徴づけを同時に与えるというのは、今回たまたまそうなっているというだけの話なのである。「意識は脳過程である」という言明は論理的に維持できないと考える人は、二つの言明あるいは表現の意味のあいだのつながりが極めて薄い場合には、それらの両方が同一の対象や自体の適切な特徴づけを与えることはできないという誤った仮定を基にして主張をすすめていないだろか。つまり、なにものかが意識状態であればそれが脳過程ではありえないという主張の根拠として、誰かが痛みをもっているが頭蓋骨の中では何も起こっていないという想定に自己矛盾的なところがないということを挙げていないだろうか。だがこのように議論していいなら、机は古い荷造り箱ではありえないということになる。なぜなら、誰かが机をもっているがその人は古い荷造り箱はもっていないという想定には何の自己矛盾もないからである。

III. 表現の論理的独立性と存在者の存在論的独立性

 もちろん、テーブル/荷造り箱の場合と意識/脳過程の場合にはひとつ重要な違いがある。それは、「彼の机は古い荷造り箱である」という言明はひとつの個別事例だけを指示する個別命題であるのに対し、「意識は脳内の過程である」はすべての意識状態に適用される一般あるいは全称命題であるという違いだ。仮に私たちの住んでいる世界にある机が例外なくすべて荷造り箱であったなら、私たちの言語における「机」と「荷造り箱」という概念は今日のように論理的に独立ではなかっただろうと私は考える。このような世界では、テーブルは一種の荷造り箱であり、これはちょうど赤が一種の色であるようなものなのだ。一定の対象または事態のあつまりが二つ以上の特徴をもち、そのうち一つ(一群)がそのあつまりに固有のものであるとしよう。このとき、問題の対象または事態のあつまりを定義するこの〔固有の〕特徴(群)を指示するために用いられる表現は、その他の特徴(群)を指示する表現をつねに含意する。これは言語にかんする一つの規則であるように思われる。もしこの規則が例外なしに認められるなら次のことが言えるだろう。すなわち、特定の対象や事態のあつまりをそれ固有の仕方で特徴付ける表現と論理的に独立な表現はどれも、その対象や事態に普通はあるいは必然的には結びついていないような特徴(群)を指示するのでなくてはならない。この規則がほとんど普遍的に適用できるがゆえに、二つの表現の論理的独立性からそれらが指示する事態の存在論的独立性にすすむ議論が普通は正当となるのではないだろうか。こう考えてよいなら、意識と脳過程を指示する表現は論理的に独立なのだから意識と脳過程は独立の存在者に違いないという議論の確かな力を説明できる。さらに一般的に言えば、宇宙になにがあるのかにかんする問いをひきおこす興味深い現象が存在し、しかもその問いは論理だけでは解決されないことが多いということも説明可能になる。
 だが、二つの表現の論理的独立性からそれらの指示対象の存在論的独立性に進む議論は、脳過程と意識の場合にはなりたたないと私は考える。なぜならこの事例は、上の規則が適用できない比較的少数の例外事例のひとつだからだ。この例外事例はどういう場合に出てくるかというと、問題の対象や事態に備わる二つの特徴群の現前を検証するためにおこなわれなければいけない〔二つの〕手続きが、同時におこなわれることがほとんどありえない場合だと私は考えている。この好例が、雲と浮遊している水滴およびその他の粒子の事例だろう。雲は大気中に浮遊しているふわふわとした半透明のかたまりで、その形状は次々と連続的に変化する。だが、非常に接近して観察してみれば、それが絶えず運動する微細な粒子(主に水滴)のかたまりによって構成されていることがわかる。この第二の観察にもとづき私たちは、雲とは微細な粒子のかたまりであり他のなにものでもないと結論する。だが私たちの言語においては、雲と微細な粒子のかたまりの間にはなんの論理的つながりもない。つまり、浮遊状態にある微細な粒子によって構成されていない雲について語ることは自己矛盾していない。雲が密集した繊維組織のかたまりであると想定することに矛盾はないし、それどころかこの想定は、童話や神話のなかで雲がはたす多くのはたらきから考えるとむしろ整合的であるようにすらおもわれる。以上のことから、「雲」という語と「浮遊状態にある微細な粒子のかたまり」という語が完全に別のことを意味しているというのは明らかである。だがここから私たちは、雲と浮遊状態にある微細な粒子のかたまりという二つ別のものが存在していなければならないなどとは結論しない。これはなぜかというと、雲であるという特徴と浮遊状態にある微細な粒子のかたまりであるという特徴は分かちがたく連合してはいるものの、「あれは雲だ」という言明を検証するのに必要な観察と「あれは浮遊状態にある微細な粒子のかたまりだ」という言明を検証するのに必要な観察を同時に行うことはできないからだと思われる。雲の微視的構造を観察できるのは、私たちが雲によって包まれている時しかない。言い換えると、遠くから見たときになにものかを雲だと記述することを可能にする特徴を観察することが事実上不可能であるような条件においてのみ、雲の微視的構造の観察は可能になるのだ。実際、この二種類の〔観察〕経験がはなはだしく異なっているからこそ、それらを記述するのに異なる語が使われるわけである。遠くから観察したときに雲であるものは、それに包まれている場合には霧かモヤになってしまう。

IV. 二群の観察が同じ出来事の観察であるのはどういう場合か

 ここで雲と浮遊状態にある微細な粒子のかたまりの例をとりあげたのは、これが構成の「である」を含む一般命題であってしかも科学の細かい専門的な話と関係ない少数の事例のひとつだからだ。この例は、机/荷造り箱事例のような日常的でわかりやすい構成の「である」事例と、より専門的な「稲妻は電荷の移動である」のような事例が連続的であることをはっきりさせてくれる。意識/脳過程事例は後者の事例ともっともよく似ている。だが、雲/浮遊状態にある微細粒子の事例には限界もある。それは、二つの表現によって指示されている事態の同一性がどのように確立されるのかという重要な問題に十分明確な回答を与えないという点だ。雲の事例の場合、なにかが雲であるという事実となにかが浮遊状態にある微細な粒子であるという事実を検証するための過程は、どちらも視覚的観察という標準的なものだ。それに、二つの表現によって指示される存在者の同一性が、観察者が雲に近づくあるいは遠ざかる場合のように、二群の観察のあいだの連続性によって確立されると考えるのには議論の余地がある。脳過程と意識の場合には、関係する二群の観察のあいだの連続性なるものは存在しない。周到[closer]な内観による吟味を行ったとしても、神経インパルスが千をこえるシナプスを通過していくさまはあらわにならないのであり、これは近くで[closer]雲を吟味すれば浮遊状態にある微細粒子のかたまりがあらわになるのとは話が違う。意識にかんする言明を検証するために必要な手続きと脳過程にかんする言明を検証するために必要な手続きは、根本的に異なるものなのである。
 このような特徴と並行するものを見つけようと思えば、日常的な観察過程によってその生起が検証されるようなものと、特殊な科学的手続きによってその生起が確立されるようなものとのあいだに同一性が主張される事例を検討しなければならない。このためにこそ上で、稲妻は電荷の移動であるという事例を選んでおいたのである。意識の場合と同じで、いかに近くで稲妻を吟味したとしても、私たちには電荷を観察することはできない。そして、意識状態の本性を決定するための手続きが脳過程の本性を決定するための手続きと抜本的に異なるのと同じように、稲妻の生起を決定するための手続きは電荷の移動の生起を決定するのに関連する手続きは全く違うのである。では、二群の観察が同じ出来事の観察であると私たちが言う根拠はなんなのか。二群の観察が体系的に相関しており稲妻があるときには常に電荷の移動もあるという単なる事実ではありえない。というのは、この種の相関が存在するが、二群の観察が同じ出来事の観察だとはとても言えない事例はたくさん存在しているからだ。たとえば、潮の満ち引きと月の満ち欠けのあいだには体系的な相関がある。だからといって、潮位の記録は月の位相の記録なのだなどとは言えないだろう。そうではなくここでは、二つの独立の出来事あるいは過程のあいだに因果的なつながりがあるのだと言われるはずだ。
 この問題に対する答えは、次のようなものだと思われる。私たちが二群の観察を同一の出来事の観察だと扱うのは、ひとまとまりの適切な科学理論という文脈のもとで、専門的な科学的観察群が、普通の人による観察を直接的に説明する場合である。たとえば、稲妻が電荷の移動以外のなにものでもないと私たちが結論するのは、稲妻が記録された場合に生じるような空気中での電荷の移動は、特定のタイプの視覚刺激をうみだし、これによって観察者は稲妻の光が見えたと報告するということを、私たちは知っているからなのだ。一方、月/潮の事例では、月の位相と、潮位を測っている人がおこなう観察とのあいだに、上のような直接的な因果的つながりが存在しない。月と因果的なつながりがあるのは潮であり、潮の観察ではない。

V. 内観の生理学的説明と現象学的誤謬

 以上の説明が正しいなら、意識と脳内の特定の過程の同一性を確立するためには、主体によって報告される内観的観察をその人の脳中で生じているとわかっている過程という観点から説明できなければならない。この考え方からすると、以下の点は非常に興味深い。哲学者ではない生理学者が、いかにすれば意識が脳内の過程でありうるのか理解するのに困難をおぼえると言う時、この人が困惑しているのは、意識が脳内の過程であるという想定に何か自己矛盾が含まれているという点ではない。そうではなく、被験者によって与えられる意識についての報告を中枢神経系の既知の性質の観点から説明することが不可能に思われるという点なのだ。サー・チャールズ・シェリントンは次のように問題を提起している。「太陽の放射が目に入るところから、一方では瞳孔の筋肉の収縮、そして他方では脳の皮質における電気的な乱れにいたる出来事の連鎖。これらはすべて物理的な「因果」の継起のうちでの直線的な諸段階であり、科学のおかげで理解可能なものとなっている。だがこの二つ目の系列のなかには、脳の皮質の反応という段階に引き続いて、あるいはそれに付随して、私たちにとって全く説明がつかない出来事(群)がある。この種の出来事そのもの、この種の出来事同士の因果的結びつき、この種の出来事と先行するものとの因果的結びつき、どれの理解にかんしても、科学は私たちの助けになってくれない。この出来事たちは、そこにいたるまでのいかなる出来事とも共約できないように思われるのである。自己が太陽を「見る」。そこで自己は、二次元的な輝きの円盤が「空」に位置しているのを感覚する。空はそれなりに明るい領野としてずっとむこうまでひろがっていて、頭上では、自己および何千もの可視的な事物をおおうかなり平べったいドームを形作っている。これらのことが頭の中でおこっているなどという気配はみじんもない。視覚に染み付いているこの奇妙な性質は「投影」と呼ばれる。これは、見えているものは見ている「自己」と「距離」をおいているという当たり前の推論のことだ。これまでも十分強調されてきたように、出来事の系列の中で、脳の生理学的条件から精神的なものに到達する一歩というものが存在する。だが心理的なものは、脳やその他の身体部位の気配を全く含んでいないのである。…. 出来事の連続的系列には二種類あり、一方は生理化学的なもの、もう一方は精神的なもので、それらは場合によって相互作用する。このように想定しなければならないように思われるのである」(Sherrington 1947, pp. xx−xxi)。
 生理学者は、意識が脳過程でありうるという想定にはなんらかの自己矛盾があるという哲学者の主張には心を動かさないだろう。だが同じように哲学者も、生理化学的出来事と精神的出来事という二種類の出来事があるという結論にシェリントンを導いた考察に心を動かされないだろう。シェリントンの議論は私たちの感情に訴えかける力を持っているが、それはわりあい単純な論理的な誤りに基づくものにすぎない。だがこの誤りは不幸なことに、心理学者や生理学者によってあまりにしばしば繰り返されてきたし、かつては哲学者ですら犯すことのあったものだ。この論理的誤りを「現象学的誤謬」と呼ぼう。これは、主体が自分の経験を記述しているとき、つまり、事物がどのように見えるか、聞こえるか、どんな臭いがするか、味がするか、どのような感触があるか、これらのことを記述しているときに、主体はなにか内的な映画館あるいはテレビ画面といった奇妙な代物に映る対象や出来事がもつ文字通りの性質を記述している、と想定してしまう誤りである。なおこの画面は現代の心理学の文献では「現象野」と言われている。例えば、主体が緑色の残像を報告しているさいに、この人は自分の内部に文字通り緑色の対象が生起していると主張しているのだと想定してしまえば、たしかに物理学の世界の中に居場所を持たない存在者を私たちは手にしたことになろう。緑色の残像の例の場合、主体が与える記述に対応するような緑色の存在者はこの主体の周囲にない。それに、この人の脳の中にも緑色のものはない。脳過程は、色概念を適用するが適切な種類のものではない。
 この議論の基になっている現象学的誤謬は、次のような誤った仮定に由来している。周囲にある事物を記述する能力は、それらの事物についての意識に依存している。ということは、事物についての私たちの記述は第一には意識経験の記述なのであり、それが周囲の事物や出来事の記述であるというのは、二次的、間接的、推論的な話にすぎない。このような仮定である。つまり、私たちは周囲の事物をその見かけ、音、臭い、味、感触によって認識するのだから、私たちはまず事物の現象的性質(つまり、事物が私たちのうちに生み出す見かけ、音、臭い、味、感触の性質)の記述からはじめ、そうした現象的性質から実際の性質へ推論するのだと仮定されているのである。だが実のところ、話は逆である。私たちは最初に、周囲にある対象の実際の性質を認識することを学ぶのだ。もちろんこの学習は、事物の見かけ、音、臭、味、感触を通じておこなわれる。だがそのことは、実際の性質を記述できるようになる以前に事物の見かけ、音、臭、味、感触を記述することを学ぶのでなくてはならないということを意味しない。むしろ、周囲の事物を記述することを学んだあとでなければ、その事物についての意識を記述することなどできないのだ。私たちは自分の意識経験を、神秘的な「現象野」のなかにある神秘的な「対象」に備わる神秘的な「現象的性質」などという観点から記述するのではない。そうではなく意識経験の記述は、具体的な物的対象、出来事、過程のもつ実際の物的な性質を参照することでおこなわれるのであり、それらの対象は、私たちがそこで記述しようとするような意識体験をふつうは引き起こすものなのである(たまたま引き起こさない場合もある)。言い換えれば、緑色の残像を記述するとき、私たちは何か緑色のもの(つまり残像)が存在すると言っているのではない。そうではなくて、光る緑色の点を見るときに普通もつような経験、光る緑色の点を見ていると記述することを学んだような経験を持っている、と言っているのだ。
 現象学的誤謬を取り除けば、内観的観察を脳過程の観点から説明するという問題は回答不可能ではないと気づくことができる。内観する主体は自分の意識経験について報告する。生理学者は主体による周囲の記述をもたらす脳過程や、そこで主体が持っている意識経験を生み出す脳過程について、何かを語りたいと思う。そして前者が報告することで後者の語りたいことと両立しないものなどないのである。たとえば主体が実際は静止している光源についてそれが動いているように見えると言っている場合を考えよう。この内観的観察を説明するために生理学者あるいは生理学的心理学者が示さなければならないこととは、そのような経験報告をもたらしている脳過程が、この人が実際に動いている対象を観察しているときに普通おこり、周囲の対象の運動の報告をもたらすような種の過程であるということを示すことなのだ。個人が自分の周囲で起こっていることを記述するさいのメカニズムが明らかになったとしよう。このとき、主体の内観的観察の能力を説明するためには以下のことを説明するだけでよい。まず、己の通常の言語的記述習慣がある刺激状況に対して適切である事例とない事例を識別する主体の能力の説明。そして後者のような事例において、どのようにそしてなぜ主体は、通常の記述手続きの後に、「おもわれる」「みえる」「感じる」などという修飾的語句をつけるのか、この説明である。

 この主題について幾度もインフォーマルな議論をしてくれた、アデレード大学哲学科の同僚に感謝したい。とくに、C. B. Martin氏は意識が脳過程であるというテーゼを擁護しようという私の以前の試みに対して、粘り強くそして厳しい批判をおこなってくれた。そしてメルボルン大学のD. A. T. Gasking 教授は、関連する論理的問題の多くを明確化してくれた。そしてJ. J. C. Smart教授は、何度も失敗したかに思えたこの試みを精神面で支援し励ましてくれた。