えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

非認知主義とフレーゲ・ギーチ問題の三十一年 Shroeder [2010]

Noncognitivism in Ethics (New Problems of Philosophy)

Noncognitivism in Ethics (New Problems of Philosophy)

  • Schroeder, M (2010) Noncognitivism in Ethics (Routledge)

【目次】
3 The Frege-Geach Problem, 1939-70 ←いまここ
4 Expressivism
5 Moral Thought
6 The Frege-Geach Ploblem, 1973-1988
7 The Frege-Geach Problem, 1988-2006
8 Truth and Objectivity
9 Epistemology: Wishful Thinking

3.1 基本的問題

合成性の問題

非認知主義は真理条件意味論を採用しない → 真理条件意味論なら簡単に満たせる合成性制約が問題に。
道徳的な語の意味の説明は特に次のことを説明する必要がある。
・複雑な文が何を意味するか
・複雑な文の意味がその部分からどのように出てくるか。部分はどう組み立てられるか
これらをどう説明したらいいか全く明瞭ではないというのが非認知主義の最もよく知られた問題

エイヤーの場合

【極端な解釈】「金を盗むのは悪い」は「金を盗む!!」と同じ意味 
これは「金を盗むのは悪い」の意味の説明としては良い。しかし「盗むのは悪くない」や「盗むのは悪い、もしくは親がボクを騙している」の理解に役立つか?
例えば後者は
1 金を盗む!! もしくは親がボクを騙している 
2 金を盗むもしくは親がボクを騙している!!
のようにパラフレーズされるかもしれないが、どちらも何を言っているのかよくわからない。
【穏健な解釈】:「!!」は誇張法にすぎない
これでも同じ問題を免れない。エイヤーによれば、「この金を盗むことで君は悪いことをした」の意味を知るには、その真理条件(このお金を君が盗むこと)を知るだけでは十分ではなく、話し手が盗みに対して向けている感情を理解しなくてはならない。しかしでは、「この金を盗むことで君は悪いことをしたか、もしくは親がボクを欺いているかだ」をどうするのか?

フレーゲ・ギーチ問題

→つまり、「金を盗むのは悪い」の意味に関するエイヤーの説明を、この文を部分として持つより大きく複雑な文の意味に関する説明に一般化するにはどうしたらいいか、まったく明らかではない。
・認知主義者の説明がどうやって合成性制約を満たすのかが明らかではない――これが「フレーゲ・ギーチ問題」
(ただしギーチより20年前にロスがこの問題に気づいていた(Ross [1939] Foundations of Ethics))
ここではひとまず1970年まで、フレーゲ・ギーチ問題の歴史を見ていく。

3.2 ギーチ

情緒主義的な動き

初期情緒主義の発展と同時期に、真理の言語や数学の言語でも似たようなアイデアが出てきた。この動きは次の3点で情緒主義と似ていた。
・真理条件だけでは問題となる文の意味を理解するのに十分ではなく、その文の使用法を理解されなくてはならない。
・領域中立的動機:対象(数学的対象、真理)の存在論や認識論に困惑がある
・領域特定的動機:例えば、真理の理論におけるうそつきパラドクス

ギーチの議論

1960年代初頭、これらの理論すべて反論する議論をギーチが提出する。ギーチは情緒主義者たちが次のような見解にコミットメントしていると理解した

ギーチの遂行主義:「金を盗むのは悪い」の個別的な事例が金を盗むことが悪いということを意味するのは、その事例がφを遂行するために使われているという事による。

ギーチは、ギーチの遂行主義のどのような事例も正しくないと次の3つの観察から論証する。
(1)「金を盗むのは悪い」は様々な文の中に現れる。例えば

3 金を盗むのは悪い
4 金を盗むのは悪いというのは本当か? Is it the case that ---
5 もし金を盗むのが悪いなら、殺人は悪いに決まってる
6 金を盗むのは悪いかどうか僕は疑問に思う
7 金を盗むのは悪いのは本当ではない

(2)4−7では、不同意の表出などの行為は遂行されていない。
(3)4−7の中の「金を盗むのは悪い」は、3と同じことを意味している

これらをまとめて論証にすると

P1 文4‐7での「金を盗むのは悪い」は、文3の「金を盗むのは悪い」と同じ意味を持つ
P2 文3を発話する人が遂行する行為が何であれ、それは文4−7を発話する人によっては遂行されない
C 従って、「金を盗むのは悪い」が金を盗むことが悪いということを意味するのは、この文が遂行のために使われている行為によるのではない。

P2は自明だがP1には異論の余地があるかもしれない。しかしギーチは、これらの文は2か所の「金を盗むのは悪い」が同じ意味を持っていないかぎり意味をなさないような意味論的性質を持つと考えた。
例えば、3は4への一つの応答である。もし3と4で「金を盗むのは悪い」の意味が違うとすると、この3による4への応答は、「Bank(銀行)はどこにありますか?」→「Bank(土手)は大通りのところです」のようなものだという事になってしまい不適切である。だから3と4の「金を盗むのは悪い」が同じ意味を持っていなくてはならない。

その後の非認知主義

以上の議論は非認知主義一般に当てはまるか? = 非認知主義者は一般にギーチの遂行主義にコミットしているか?
→最近の洗練された非認知主義者、例えばヘアは注意深くコミットを避けようとしている!
ウアムソンの指摘:文3ですら常に言語行為を行うために使われるわけではない(ex. 嫌味で言う)
(命令文は命令法なので命令に適しているが命令以外にも使えるのと似ている)
ヘアもこの点に気づいていた。だから彼の見解によれば、「良い」の特定の事例〔発話〕がそれの意味するところのものを意味するのは、それがまさにその〔発話〕の時に命令に使われたということによるのではない。むしろ、「良い」の意味は、(少なくとも部分的には)命令に使うのに適しているのである。

3.3 ヘアと合成的意味論

合成性からの論証の二つのポイント

 たしかに以上のギーチの議論はヘアの見解には当てはまらない。しかし、ギーチの議論はもっと一般的な点をも突いている。
合成性からの論証:複雑な文の中の「金を盗むのは悪い」は、「金を盗むのは悪い」自体と同じ意味を持たねばならない
この問題には二つのポイントがある
・複雑な文の中の「金を盗むのは悪い」が、「金を盗むのは悪い」自体と同じ意味を持つようにせよ
・複雑な文の意味が何かを、その部分の意味の観点から述べるにはどうしたらよいか示せ
この後者の問題こそ、ギーチがフレーゲに帰したものだった(フレーゲは合成性制約を満たすために内容と力を導入した)

非認知主義者のレシピ

 Hare [1970] (The Language of Morals)は非認知主義者がどのようにこの後者の課題を遂行することができるかを説明した。
どうして真理条件意味論は合成性制約を満たすのか →任意の文の真理条件から、それを含む文の真理条件を構築するためのレシピを教えてくれるから
同じこと(レシピを与えること)は非認知主義者にもできるとヘアは主張する。ヘアの場合、単純な文を使って遂行するのが適している言語行為から、それを含む文を使って遂行するのが適している言語行為を構築するレシピを与えれば良い。この際、レシピは勿論なんでもでいいわけはなく、正しい結果を捉えるものが必要。

章の残りの展望

4節:「正しい結果を捉える」とはどういうことか。なぜこの課題は非認知主義にとって一層難問に見えるのか
5節:何故楽観的な非認知主義者がいるのか。その楽観主義はどのくらい有効なのか

3.4 真理関数との対比

真理値表

〔2ページに亘る真理値表の説明〕
真理値表は、部分の意味から全体の意味を決定するレシピ(真理関数)を書きやすくしているだけではない。文の意味論的性質を予測するの力をも持つ。
例えば否定文は、任意の文「P」に関して、「「P」と「¬P」は、同時に真になることができない」という意味論的性質を持つ。
また条件文は、任意の文「P」「Q」に関して、「P」と「P→Q」から「Q」が帰結すると言う意味論的性質を持つ(モードゥス・ポネンス)。
何故このようになっているかは、真理値表を見れば(つまりレシピだけに基づいて)すぐにわかる。

意味論的性質を説明することとしての「正しい結果をとらえること」

 つまりレシピが「正しい結果を捉える」とは、そのレシピに従うとこうした意味論的性質が説明されるということである。
→そこで非認知主義者にとっては、例えば、
・「殺人は悪い」を基礎にして「殺人は悪いということは本当ではない」を構築するためのレシピが、どうしてこの二つの文が不整合なのかを説明することが必要
・「もし金を盗むのが悪なら殺人は悪だ」のレシピが、どうしてモードゥス・ポネンスが妥当なのかを説明することが必要
この最後の点(論証の妥当性)を説明するのがフレーゲ・ギーチ問題だと考えられがちだが、既にみたように、問題はもっと一般的である(3による4への応答は妥当性とは関係ない)。
つまり、

この〔フレーゲ・ギーチ〕問題とは<非認知主義者は、任意の種類の複雑な文の意味を、その部分の意味から構築するのにはどうすればよいかのレシピを与えなければならず、しかもこのレシピは、構築の結果として出てきた文の持つ〔意味論的性質〕をその部分の意味の観点から説明できるという意味で「事柄を正しく捉える」ようなレシピでなくてはならない>という問題である  p.54

3.5 楽観主義の許可を支持するヘア・スマートの論法

楽観主義の問題

 ここまでは〔3.3のヘアの説明と3.4での詳細規定によって〕非認知主義がレシピを提出するのは妨げるものは無いという事が言われただけである。実際1970年時点ではこのレシピを真剣に提出しようとした人はいなかった。ここで重要な問いが生ずる。
→ 真理条件意味論のレシピの同じこと全て出来るようなレシピに非認知主義者が達することは可能だという楽観主義にどのくらい加担していいのか?

ヘア・スマート論法:命令法との類似

 ヘアもレシピを真剣に提出しようとしなかったが、既に1952年(ギーチより前!)に楽観主義を支持する次のような論法を出している(スマート [1984]も同様の見解を出したのでヘア・スマート論法と呼ぶ)。
命令法との類似に注目:複雑な命令法と単純な命令法があり、直接法と同じような方法で互いに論理的に結びついている
(例:「戸を閉めよ!」は「戸を閉めるな!」と不整合――直接法と同じで「not」を加えると不整合な文になる。「and」でも同様)
このように命令法は互いに論理的な関係を結ぶので、何らかの理論がその理由を説明できる。そして道徳的文にも同じことがいえる。
命令法の理論が複雑な命令文の意味がその部分の意味によって決定されるのと同じように、道徳的文の間の論理的関係も説明される。

楽観主義の射程

 以上によって示された楽観主義はどのくらいの射程があるのか?
疑念:直接文と命令文が、道徳的文と非道徳的文の組み合わせと同じように組み合わされるかどうかわからない。

8 :戸を閉めよ、そして、僕はゆっくり走っている
9 :戸を閉めよ、あるいは、私はその戸を昨日開けた
10:戸を閉めよ、そして、僕は君に一ドル渡すだろう
11:もしドアを閉めよ、そうすれば窓を開けよ
12:もしドアを閉めよ、そうすれば僕はゆっくり走っている

→この文の中では10しか意味をなしていない。しかも10はむしろ「もし〔直接法〕なら〔直接法〕」を意味しているように見える。なので10が直接法と命令法の組み合わさり方について多くの楽観主義を許可してくれるとは思えない。
・その一方で、次のような道徳/非道徳文の組み合わせを構築するのは容易である

13:金を盗むのは悪い、そして、両親は僕にそう言った
14:金を盗むのは悪い、あるいは、両親が僕を騙している
15:金を盗むのは悪い、そして、僕は君に一ドル渡すだろう
16:もし金を盗むのが悪いなら、盗むな
17:もし金を盗むのが悪いなら、僕は混乱している

両者を比較すると、命令法を含む複雑な文の意味の説明に十分な理論が、道徳的文を含む複雑な文の意味の説明にも十分だという大きな楽観主義は許可されない。
ヘアの楽観主義の射程はこんなものだった。そこで1970年以降の非認知主義者(表出主義者たち)は、ヘアによって約束されたレシピを明らかにしようと努力していくことになる。