えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

無知なヤツは死ぬ。従って懐疑論は誤り Dretske (1989)

Knowledge And Skepticism

Knowledge And Skepticism

  • Clay, M. & Lehrer, K. eds. 1989) *Knowledge And Skepticism*

5 Dretske, F. "The Need to Know" ←いまここ

懐疑論を退ける進化からの議論

行動は、その成否がかかっている外的条件と協調していなくてはならない。それには、その条件の精確でタイムリーな表象によって運動を引き起こすような因果的プロセスが必要。十分な頻度で物事を正しく捉えられない動物は死ぬ。このような知識観に基づけば、動物は生きるために多くの事を知らねばならない。また、優秀な表象技術は世代を経て普及していく。これが生存競争の勝利者の末裔たる我々が多くの事を知る能力を賜っている理由である。従って懐疑論は誤り。

 ただしこの議論には三つの障壁がある。

3つの障壁
  • (1)信念と内的表象の同一視

生存と繁栄のために信頼できる表象メカニズムが必要だとしても、何故信念がそのメカニズム(/の産物)だと仮定するのか

  • (2)知識でなくては駄目なのか

上の知識観で言われたのは、動物は外的条件について知らなくてはならないということではなく、それについて正しくrightあらなければならないという事にすぎない。信頼可能なメカニズムは真なる表象によって生まれる行動をさらに成功させるだろうか? しないなら、信頼性ひいては知識への淘汰圧はどこにあるのか?

  • (3)淘汰が足りないのではないか

どうして自然淘汰によって知識に必要な程度の信頼性が既に達成されていると考えなくてはならないのか。

信念と表象

その成功が外的条件に依存するような行動には表象が必要だ

 生存と繁殖が行動に懸っている限り、生き物には(主に)外的な条件の内的な指標が必要だ。同じことは有機体の部分にも言える。多くの動物が体温や血中pHの維持を自動的で規則的なシステムに頼る。この値を維持するためには、システムはその値を教えてくれる telling何らかの方法を持たねばらならない。

 ある条件によって成功が左右されるような何事かを行うあらゆるものにとって、そのことが行われる条件を表象する方法が必要である。表象が精確になるほど成功の程度が高くなるほど、継続的な成功が懸っているその信頼できるメカニズムに対する淘汰圧が大きくなるだろう。 p.91

信念は内的表象の一種

 知識に信念が必要であり、信念は内的表象の一種だと伝統的に考えれば、植物や器官はある意味で知識を持たない。信念のような仕方での表象を行わないからである。
 これは確かに正しいがここではどうでもよい。信念が内的表象の一形態である限り、その産出・固定メカニズムの信頼性には進化的な圧力がかかる。上の議論はあらゆる種類の内的表象にかかわる一般的な議論である。
 信念はそもそも内的表象でないと考える向きもあるが、ここではそうなのだと仮定しておく。普通真なる信念は偽なる信念よりも動物の適応度に寄与する。自然選択が精確な表象とそれを産出する信頼できるメカニズムを選ぶとすれば、真なる信念を産出するメカニズムの信頼性が向上することをも選ぶだろう。

選択、真理、信頼可能性

問題は信頼性ではなくて真理ではないのか

 生存競争の中でアドバンテージを与えてくれるのは、競争相手よりも多く知ることではなく、多く正しくあることである。常に幸運に恵まれたウサギは、コヨーテの存在にまったく無知だったとしても、コヨーテが近くにいるときに逃げ出し、知識を持つウサギと同じくらい生存する。重要なのは知識それ自体ではなく、知識の所有が含意する「正しくあること」なのである。
→ 進化の視点から言うと、重要な性質は真理であって信頼性ではないのではないか?

指標的信念(=知覚)と信頼性

 生存と繁殖に重要な信念の多くは「指標的信念」、イマココで起こっていることについての信念である。これはつまり知覚的表象のことである。この事実を踏まえれば、このような表象に関して真理を選択するための唯一の方法は、信頼性を選択することである。なぜなら、指標的な表象は指標的である以上遺伝可能なものではないからである。

遺伝子に何が詰め込まれていようと、アレはコヨーテでコノルートで向かってくるなどという信念が詰め込まれているという事はない。ウサギは、コヨーテに対する健全な怖れ、コヨーテを避ける本能、コヨーテから走り去る傾向性、コヨーテから隠れる傾向性を子孫に伝えることができるかもしれない。しかしアレはコヨーテだからイマが逃げ隠れる時であるというような知識を伝えることは不可能である。  p.93

遺伝可能でしかも(精確な指標的表象を生成することで)全体的な適応度に寄与するものは、真なる表象を生成するのに使われる感覚的・認知的なハードウェア、つまり、鋭敏な嗅覚、はっきりした視力、よい記憶力、そして自分に福利をもたらすように情報を用いる知性である。  p. 94

知識の何がいいのか

答:前述済み。「問題となっている真理は売りに出されていない」。「唯一売りに出されているのは手段、信頼可能なプロセスである」。

外在主義への反論への応答

 外在主義者の批判者は、正当化の利益は何なのかを言う義務がある。信頼性主義者なら信念獲得プロセスの中での信頼性の必要性(価値)を示すことができる。しかし知識が、信頼できるメカニズムによって産出された真なる信念以上のものであるなら、さらに必要な何かにはどんな良さがあるのか?
 もちろん、正当化は良いものである。しかしそれは道具的な有用性を持っているだけであって、信頼性の向上に寄与するか、もしくは、その信念に基づいて行為する準備preparednessに良い影響を与えるかであろう。その他にどんな価値を正当化が持つのか?

信頼性の程度

自然な限界

 高く飛ぶことへの選択があるからといって、いつか我々はビルを飛び越せるようになるわけでは全くない。自然な限界が存在し、それでもなお改善を続けられるとしても改善の大きさはますます減っていく(トレードオフ)。
→問:自然選択が表象メカニズムの信頼性に働くとしても、そのメカニズムはどのくらい信頼可能なのか? 生成された信念(で真であるもの)を知識だとするのに十分なほど信頼可能なのか?

何を表象しているのか問題

 この問いは、システムが表象しているのは何だと我々が考えるかに依存する。システムrが何を表象しているかについて多くを望むほど、rは表象においてより信頼できなくなる。rが何を表象するかについてあまり要求しなければ、表象はより信頼できるようになる。我々は、動物に少なく信じ「させる」ことで多く知「らせる」事が出来る。蛾は、コウモリが近づいてきた時に回避行動を見せる。蛾の中には周囲の事柄に関する内的な表象がある。この時、蛾の内的表象はコウモリについてのものなのか、それとも聴覚的な性質についてのものなのか? 前者の場合、蛾は音波撹乱機によって誤表象する。後者の場合は誤表象しない。そもそもコウモリについての信念を持たないからである(蛾は不可謬である)。
 道具が何を表象していると言うかは我々の勝手だが、生物の表象の努力を我々が好き勝手いじくりまわすわけにはいかない。事の真相がある。
 トンマは、実在ついての判断に関して信頼が置けないのか、それとも見かけについての判断に関して完璧に信頼できるのか。第三者的視点からはわからないが、トンマ本人の視点からすれば答えはどちらかである。トンマの内的表象が何についてのものかという問題は、我々ではなくトンマの頭の中で起こることによって決定される事柄である。

頭の中の問題と表象の歴史の問題

 しかし話はそう簡単ではない。トンマの信念が内的表象なら、確かにトンマの信念は彼の頭の中にある。しかし、その表象内容を決定する事実は頭の中にはない。(ドレツキの姪と甥の写真はドレツキ家のたんすの中にある、しかしその写真の表象内容を決定したのは、その写真の因果的源泉に関する事実である。)
 →トンマの信念の内容をpだと決定しているのは、その信念の歴史およびその信念とそれが表象している事柄の間の因果的関係の問題である。

信頼性主義と内容の理論

 今、トンマが「それは赤である」もしくは「それは赤に見える」のどちらかを言うものと仮定しよう。しかしこのような発言はトンマの表象内容の真相を示しているだろうか? トンマがあれはハリネズミだと思っている時に、「あれはマスクラットだ」というように教えることもできるのではないか? また、蛾に言葉を教えることができ、しかもトンマは信念を持つものとしよう。トンマが聴覚入力の性質について特定の信念を持つ時、「コウモリガキタヨー」と言うように教えることができるだろう。このときトンマは、ときどき間違えるコウモリ信念を持っているのか? それとも、聴覚入力の性質に関する完全に信頼出来る信念を、(我々に)ミスリーディングな仕方で報告しているだけなのか?

こうした問いは二つの問題の繋がりを示唆する
(1)認識論の問題:信念生成メカニズムが生成する信念に知識の資格を与えるためにはどのくらい信頼可能でなくてはならないのか
(2)心の哲学の問題:われわれが信念として描写するような内的状態の内容もしくは意味は何が決定するのか
→「表象生産メカニズムの信頼性は、生産される表象の内容に依存する」という深いつながりがある。
(信念の内容を決定できるまでは、その信念を生産するメカニズムの信頼性を決定できない)
2つの問題を組み合わせると我々は問題をたらいまわしにできる。(表象メカニズムの信頼性の程度の問題 → 表象の内容の問題)
・表象が何かを言う/意味する/表象するのに必要な(表象と外的条件との間の)信頼性の程度は、表象の意味・内容を、それが真だった場合に、知識とするのに必要な信頼性の程度と同じなのかもしれない――これが知識の信頼性主義の希望である。