えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

哲学の権威と自立性の擁護 Bealer (1995)

http://link.springer.com/article/10.1007%2FBF00372777

  • Bealer (1995) A priori knowledge and the scope of philosophy
目的:哲学の自立と権威の擁護

・哲学の自立:標準的な理論的方法で答えられる哲学の中心問題の 多くは、原則として、科学に実質的に依存することなしに哲学的探求と議論によって答えられ得る。
・哲学の権威:科学と哲学が同じ哲学の中心的問題に応えようとする多く場合、科学がその答えに対して提供できる支持は、哲学が提供できる支持ほどの強さを持たない。従って、両者がぶつかる多くの場合、哲学の権威の方が大きい。

【証拠からの議論】
(1)直観は現に証拠である Intuition are Evidence
(2)様相的信頼性主義が、何故直観が証拠なのかに関する正しい説明である
(3)様相的信頼性主義は哲学の自立と権威を含意する。ただし、科学的本質主義が障害である場合を除く。
(4)科学的本質主義は障害ではない
∴ 哲学には自立と権威がある

1.直観は現に証拠である

「我々の標準的な正当化手続き」

 経験、観察、証言などなどの他に、我々は直観を証拠として広く使っている。
我々の信念の中にはアプリオリな正当化を持つと考えられているものがある。次のような理想化に漸近する様な手続きによって獲得された信念がこれにあたる。

【理想的なアプリオリな正当化】
(1)直観を描く   
(2)その直観を弁証法的な批判にかける
(3)生き残った直観を組織化する理論を構築
(4)その理論をさらなる直観でテスト   
(5)均衡が得られるまで以上のプロセスを続ける

このプロセスは哲学者が哲学の中心的問題に応える際の方法に似ている。ただし哲学者はしばしば経験的証拠、実際の例を用いる。しかし潜在的にはこうした例は様相化し去ることができる(その事実に対応する可能性を肯定する直観があればよい)。

直観の現象学

 我々はド・モルガンの法則を見てちょっと反省するとそれが正しいことを「単に見てとる」。直観とは知的な見えintellectual seemingである(cf. 知覚的な見え/感覚的な見え……)
直観は信念とは区別されなくてはならない
・錯覚が信念によって訂正されないように、素朴な分出公理の尤もらしさは、それが偽である(パラドクスを引き起こす)という信念では訂正されない。→ 直観は不可謬ではない
・信念がかなり可塑的(およそあらゆることを信じられる)のに対し、直観はそうではない。また、対象となる命題がかなり限られているという点で、直観は判断や示唆や勘とも違う。

認識的規範からの論証

 以上を踏まえ、ラディカルな経験主義(真に証拠として重要なのは(現象的な)経験そして/あるいは観察だけ)に反対する論証を行う。この立場は、例えば「視覚主義」(視覚経験だけを証拠とする)のようなふざけた立場とどのくらい違うのか? ここでラディカルな経験主義者は、論点先取を防ぐために、標準的な正当化手続きの内部から出発しなくてはならない。標準的な正当化手続きを自己批判にかけ、直観は証拠の源泉から排除されると論じれば良い。

【3つのc、理論と直観の衝突】
しかしまず、直観は三つのcの点で、星占いや鳥の声などの疑似的な証拠とは異なる。
・Consistency(一貫性):ある人の具体的事例に関する直観は互いに一貫している。
・Corroboration(裏付け):初等論理、数学、概念、様相的直観は他の人による裏付けがある。
・Confirmation(確証):直観は経験や観察によって反証されることが殆どない
また、理論と直観はしばしば衝突する。しかしそれは観察も同じである。

【包括的な理論からの議論】
そこで、ラディカルな経験主義者に残された方法はこう――
・直観以外の証拠の源泉のみを認めた時に定式化できる理論から、直観が信頼できないものとしてオミットされるなら、直観は証拠の源泉としてはさっぴかれる。
この方法はある場合には有効だが(盲信されている政治的権威をさっぴく)、別の場合にはそうではない(視覚主義者が触覚や聴覚をさっぴく)。触覚や聴覚が証拠の源泉であるためには、他の証拠をベースとした最も包括的な理論による肯定を必要としていない。
・政治的権威と視覚主義の例の違いは明らか:この方法をある証拠の源泉の消去に使えるのは、直観的に言って、その源泉がそれを削除する方の源泉と同じ位基本的ではないまさにその場合である。
∴ラディカルな経験主義者の直観排除が標準的な正当化手続きによって保証されるのは、直観が経験や観察より基礎的でない場合に限る。しかしそのような直観は無い。→ ラディカルな経験主義者は視覚主義者と変わらない。

【ジレンマ】
ラディカルな経験主義者のように、我々の認識的規範からはなれて恣意的な出発点をとった場合、その規範に従って定式化された理論が正当化されているかどうか、理にかなった懐疑が生じる。ここでラディカルな経験主義者はジレンマに陥る。
(A)直観を含む標準的な正当化手続きによって出来た理論に訴える。しかしラディカルな経験主義者の視点からはこの理論は正当化されない
(B)自身のラディカル経験主義的手続きに従った理論に訴える。こちらも×
→ いづれにせよ、ラディカルな経験主義者は理にかなった懐疑を克服できず、自己挫折的である。

我々の認識的状況は、この意味で「解釈学的」である。この状況からはなれて恣意的な出発点をとったばあい、理にかなった懐疑が生じ、原則的にそれを克服する道は無い。これがラディカルな経験主義の運命である。この問題を抜け出ることができるのは、標準的な正当化手続きだけである。なぜなら、この手続きは認識的規範にかなっており――というか、それを構成しており――この手続きが産んだ理論が正当化されていることを疑う一見して自明な理由は存在しないからである。  p.128

2.なぜ直観は現に証拠なのかの説明

・信頼性主義的な説明が有効。信頼性主義に対する様々な反論に応えるために、証拠の基本的な源泉にのみ注目。経験と直観は証拠の基本的な源泉だと仮定する。
・証拠の基本的な源泉 iff それが真理とのなんらか種類の信頼可能な結びつきを持つ
→問題はこの結びつきの性質。偶然的? 何らかの種類の強い必然的な結びつき?

偶然的信頼性主義

・証拠の基本的な源泉である iff その陳述と真理との間に、法則的に必然的な、しかし偶然的な、結びつきがある。
しかしこれは反論にあう(法則的に信頼できるテレパシーや千里眼等)そこで、

様相的信頼性主義

・証拠の基本的な源泉である iff その陳述と真理との間に、なんらかの種類の強い様相的な結びつきがある。
・ではどのくらいの強さの必然性が必要か? → 反論をかわせる程度。同時に直観は不可謬ではない。
仮説:次のような弁証法的で全体論的な結びつきがある。
・適切なかたちで良い認知的条件に関しては次の事が必然的に言える。そのような条件にある主体がアプリオリな正当化の全過程をおこなえば、結果通して出てくる包括的な理論的体系化から導出できる命題のほとんどは真である。

3.哲学の権威と自立の導出

哲学の権威

 上のような質の認知的条件にある主体の直観からの包括的な理論的体系化は、必然的に、だいたい真である。このような必然性はあらゆる理由から科学には求められない。そしてこの理論的体系化は哲学の方法であり、科学に依存していない。従って、もし哲学の中心的問題がこうした直観の理論的体系化によって答えられるなら(哲学の自立)、哲学の中心問題に関して、科学が与える支持よりも哲学が与える支持の方が、認識的権威が大きい(哲学の権威)。

哲学の自立

 哲学の中心問題に関わる多くの事柄についての幅広い直観が、正当化プロセスの入力となる。そこから帰結する理論から出てくる命題のほとんどが真であることを保証するのに必要な認知的条件のレベルは高い。そして、認知的条件が高まるほど直観の射程も広がる。つまり、上記の高いレベルの認知条件があれば、直観の射程もかなり広く、哲学の中心問題のほとんどに応えることができる。
→ただし障害が二つある

【(1)知性の制約】
問題:自立を生み出すにはどの程度の(有限な)知性が必要なのか →かなり高そうだ
しかし、直観的に、「どのレベルの知性に関しても、何らかの存在者がその知性を持つことができる」。従って、知性の制約は自立の障害にはなりえない

【(2)科学的本質主義】
・しかしこの直観は、科学的本質主義の擁護に使われるようなものではないか。(そうではない。この直観は意味論的に安定した語のみで表明されているから)
・またより一般な問題として、認知的条件が高まるほど直観の射程も広がるが、限界があるかもしれない。その限界を超えた問いは科学的問いかもしれない。
→このような考え方は誤りだと論じる。自立を裏書きするのに十分広い射程を持つ直観の所有に障害はない

4.科学的本質主義は障害ではない

・科学的本質主義(SE):経験科学の助けを借りてのみ知られ得る必然性があるという説(水=H2O)
SEを支持する議論は直観に依拠している:双子地球の直観(H2Oは水だがXYZは水ではない)
一方で反SE的直観もある:水のあるサンプルが水素を含んでないことが判明するかもしれない
→二つの直観の衝突をどうするか:SEの擁護者は2つの応答がありうる
(1)反SEの直観は間違ってると主張 → お前らの方が間違っていると言われ平行線になる
そこで――

言い換え戦略

(2)直観の対立は見かけのものと主張 → 反SE直観を言い換えてSE直観と整合させる
クリプキ「SE直観は字義どおり正しい。反SE直観は、普通の可能性と認識的状況に関する可能性を混同している」
・「水のあるサンプルが水素を含んでないことが判明するかもしれなかった」 → 「我々と質的に同じ認識的状況にあるが、「水」そして/あるいは「水素」を我々とは別の何かを意味するのに使う言語集団が存在することは可能である」(これは水が必然的にH2Oであることと整合的である)。
・一方、反SE主義者は双子地球の直観を書き換えられない
→言い換え戦略の一般図式:「Aと明らかになるかもしれなかった」は次のように言い換えられる。「我々と質的に同じ認識的状況にあるが、「A」を普通の字義通りの意味で主張することで真なる言明をなすことができるような言語集団が存在する」

意味の安定性

言い換え戦略が示唆する意味の安定性/不安定性

・表現の意味の安定性 iff 必然的に、我々と質的に同じ認識的状況にあるどの共同体でも、その表現が同じ事柄を意味している。
・表現の意味の不安定性 iff 我々と質的に同じ認識的状況にある共同体で、その表現が〔我々と〕違う事柄を意味することが可能である。

外的な環境が意味に何らかの貢献を果たしていれば、その表現は意味が不安定になる(自然種が典型)。論理、数学、多くの哲学的語彙は意味が安定している(外的な環境からの寄与がない)。
仮説1:哲学の中心的語彙のほとんどは意味が安定している。

科学的本質主義の限界

仮説2:科学的本質主義は意味が不安定な表現に関してのみ成立する。

――以下論証――

・SEを支持する論証は2段階のもの(「水」の場合)
(1)SE直観が引き出される(双子地球の直観)
(2)言い換え戦略で反SE直観は無害でありSE直観は無害化されないことが示される。
→SEは「水」に関して成り立つ
・そこで、意味が安定した名辞tについて同じ議論を行ってみる。→どちらの段階も失敗する。

【段階1が失敗する】
微視的には異なるが巨視的には同一な双子地球がある。tが適用されるアイテムを考え、双子地球の対応するアイテムに、直観的に言ってtが適用されるか否かを問う
→ここでtが「形式的な」名辞の場合、この問いは奇妙である
・ではtが「内容を持っている」場合はどうか? 例えば「意識」、次のような状況を考えよ。
地球では意識ある存在者は全て微視的な構造「C繊維」を持つ。双子地球でも我々と全く同じような「意識的」振る舞いを行うヤツらがおり、これは全て「CT繊維」をもつ。
→確かにヤツらが意識的かどうかに関して確信は持てない。しかし、彼らが意識的であると言うのは反直観的ではないだろう。一方、XYZのサンプルが水のサンプルだというのは反直観的である。
→「意識」に関する「水」と類似の直観は、単に欠けている! 従って「意識」に関してはSEを適応する根拠がない。

【段階2も失敗する】
段階2:反SE直観は言い換えによって無害化され得る → 2つのステップで反論

(1)反SE直観が意味の安定した名辞でのみ表現されている場合 例:「Sは可能である」
→意味の安定性の定義により、我々と質的に同じ認識的状況にある言語集団は、「Sは可能である」によって我々と同じことを意味する。従って、「「S」で真なる言明をなすことができるような言語集団が存在する」は「Sは可能である」を含意することになる。つまり元の直観の力は無害化されない。

(2)反SE直観が意味の安定した名辞と不安定な名辞で表現されている混合的な場合
・元と同じ哲学的重要性を持つが、意味が安定した名辞だけで表現される新たな直観を見つればよい。各々の意味の不安定な名辞に対し、意味の安定した適当な「対応物」を構成してやる。これは精確な対応物(必然的な等価者)ではないだろうが、哲学的重要性としては同じものになる。
・例:「意識=C繊維」の極端な同一説に対する多重実現可能性の直観「意識的でありしかもC繊維を持っていないものがありうる」(「C繊維」の意味が不安定)
 →「相互に関係した心的ではない部分からなる特定の極めて特殊な入れ子状の複合体がなかったとしても意識は存在しうる」
このようにして直観の力は無害化されなくなる。

5 おわりに

〔省略〕