えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

認識的副作用効果に関する5つの実験 Beebe & Jensen (2012)

http://philpapers.org/rec/BEESCB

  • Beebe & Jensen (2012)Surprising connections between knowledge and action: The robustness of the epistemic side-effect effect

序論

 Beebe & Buckwulter (2010)は、ノーブ効果の実験の際に用いられた「社長が環境を破壊/保全するシナリオ」で、意図性ではなく知識の有無を問うた。するとノーブ効果と同形の効果が、知識の帰属でも見出されることがわかった。

実験1

目的:Beebe & Buckwulter (2010)では、回答の中央値がスケールの中点を跨がなかった(help(0.91)、harm(2.25))ので、追試する。
方法:同じシナリオを用いる。ただし、−3〜3ではなく1〜7のスケールを使用
結果:跨いだ。Help(3.35)、harm(6.37)
論点:スケールにマイナスが振ってあると、何か明示的な否定的特徴が無くてはならないと被験者に感じさせてしまうのではないか

実験2

目的:ESEEが元々の社長の事例のみに生じるものではないことを確認
方法:美的価値・売上(非難・称賛なし)・規範の逸脱(道徳的にまずい規範)の3シナリオを用意
結果:おおむねもとと同じ結果の傾向
論点:ESEEは責任性がなく道徳的に中立な害の場合でも生じる。

メモ

 この実験で用いられた事例のペアのどちらでも、重要な意思決定を行う役割を持った人物は、部下から行為のありうる帰趨にかんして証言を受け取っている。それぞれのペアの有益(善い)ヴァージョンでも危害(悪い)ヴァージョンでも、与えられる証言は認識論的に等価だと思われる。もし片方で部下の証言を信じる理由があるならば、もう片方でも証言を信じる理由があるのでなくてはならない。そして、認識論的評価が、被験者に利用可能な証拠や理由の質という基盤のみに基づいて行われるべきなのだとしたら、被験者は事例のペアの間で対称的な知識帰属をなすという風に予測されるだろう。しかし、被験者は登場人物が知っているか否かを決定するにあたって、一見して非認識論的なファクターに強く影響を受けているように見える。  p. 699

実験3

目的:「社長の性格に関するネガティヴな評価(すぐ規範を破る)が、危害事例での知識帰属を促進させているのであり、道徳性自体は重要なファクターではないのではない」という仮説のテスト

  • 方法:

(1)副作用はどちらもHarmfulだが登場人物の性格を操作した2つのシナリオを提示する
(2)副作用はHarmful/helpfulと分かれるが性格がどちらも悪い2つのシナリオを提示(ギャングの例)(→どちらも高い知識帰属を見せるはず)

  • 結果:

(1)おおむね差は無かった
(2)harmful事例でしか高い帰属は見られなかった
→仮説は支持しがたい

実験4

目的:「環境を破壊するのは保全するのよりも簡単。だから被験者は合理的な確率評価に基づいて知識帰属判断を行っているのであり、ESEEは認識論的見地からみてむしろ健全」という仮説のテスト
方法:これまで用いた4つのシナリオを用意。「何が起こったか」の部分を削除する。そのうえで、副作用が起こる確率について10段階で訊く
結果:2事例は仮説と整合的/2事例は統計的有意差なし
論点:上の仮説が支持されたというのは難しい。(しかし、たとえ結果が仮説の予想通りの分布を示したとしても、それがESEEの判断傾向が認識論的特徴によって引き起こされているという仮説をとる必要はない。というのは、確率評価自体が非認識論的要素の反映なのかもしれないから)。

実験5

目的:実験4の最後の論点をテスト
方法:実験4と同じシナリオ。ただしharm事例では「利益が上がるでしょうが、環境を破壊する可能性がわずかながらあります」、Help事例では「利益が上がるでしょうが、環境を保全する可能性がかなり高いです」と言わせる。ここで、社長の知識を問う。客観的確率に関する明示的情報に強く影響されるなら、help事例の方が高い帰属を見せる筈。道徳性に強く影響されるなら、harm事例の方が高い帰属を見せるはず。
結果:harm事例の方が高い帰属を見せた
論点:仮説は支持できない

総括

 研究者はみんなノーブ効果シナリオの登場人物は副作用について「知っている」と思ってる。しかし我々はそうではないことを示した。
 認識論の伝統では次のテーゼが受け入れられている。
(φ1)真なる信念が知識に値するかどうかは、証拠や信頼性のような認識論的なファクターにのみ依存する
(φ2)真なる信念が知識に値するかどうかは、その信念に照らして当の信じ手が行いうるいかなる行為にも依存しない
(ψ1)真なる信念が知識に値するかどうかを決定する際には、普通の被験者は証拠や信頼性のような認識論的なファクターのみを見るだろう
(ψ2)真なる信念が知識に値するかどうかを決定する際には、普通の被験者はその信念に照らして当の信じ手が行いうるいかなる行為の特徴も考慮に入れないだろう。
今回の研究は(ψ2)が偽だと示した。(ψ1)が偽になるかどうかは説明の仕方による。一方で(φ1)や(φ2)に対してどのような含意があるかは難しい問題である。