- 作者: John M. Doris,Fiery Cushman,Joshua D. Greene,Gilbert Harman,Daniel Kelly
- 出版社/メーカー: Oxford Univ Pr on Demand
- 発売日: 2010/07/06
- メディア: ハードカバー
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- The Moral Psychology Handbook
目次
Chap.4 Moral Motivation
Chap.8 Linguistics and Moral Theory ←いまここ
Chap.9 Rules
Chap.11 Character
この章の目的:言語と道徳性とのアナロジーを真剣にとった場合に何が示唆されるかを考察する。
1. 道徳文法
道徳性の規則と文法の規則とのアナロジー、道徳理論と言語理論とのアナロジーが語られることがある。アダム・スミス、ロールズ、教皇ベネディクト16世、ノージック、そして「普遍道徳文法」のMikhail [2000], [2007]など
まず、「道徳文法」に関してどのような提案が示唆されているのかを見ていく。
I‐文法
言語学の第一の対象は、英語、ドイツ語、モホーク語のように日常的に捉えられる「言語」ではない。Chomsky[2000]らは、むしろ言語学を、特定の人物の持つ性質としての言語に関わるものだとする。この性質は内的文法あるいはI-文法によって抽象的な形で特定されると考えられている。言語学はこの他にも、扱いにくい現象を説明するために便利な抽象化を行う(「言語能力」と「言語運用」の区別、文法の「核」とその他の側面の区別など)。アナロジーの可能性を探求する際にも、同じような抽象化が役立つかどうかが考察される。道徳理論はI‐道徳性を対象にすべきで、これはI‐道徳文法という抽象的(で、多分無意識的な)表象によって捉えられるのかもしれない。
「生成」文法
ある言語の生成文法(生成I‐文法)は、その言語の表現が持つ重要な言語的性質(言語的構造、意味、発音)を完全に、明示的に特徴づける。ここでいう「生成」は術語で、実際に言語表現を生み出す際に、話者が生成文法に従っているという含意はない(能動態から受動態への変形規則があると仮定しても、話者はまず能動態の文を形成しそれを何らかの因果的プロセスによって受動態の文に変換すると仮定する必要はない)。
道徳文法も、個人の道徳規準を明示的に特徴づけようとする。文法が特殊な言語学的語彙を用いて文の構造を特定するように、I-道徳文法は特殊な道徳的語彙(義務、正義、権利、責任……)を用いて道徳的評価の対象(行為、性格、状況……)の構造を特定する。そうして、ある行為(性格・状況)評価関係を特定する。また、生成文法が変形規則を特定するように、I-道徳文法の中にも特定の変形規則が見出されるだろう。
ここで、脳の非道徳的なシステムが行為の構造記述をとらえ、それが道徳システムの入力となり、道徳システムが道徳的評価を生むという因果的構造が存在している必要はない。2つの理由からこの点は重要である(再帰的埋め込みと経験的研究)。
再帰的埋め込み
生成文法の規則は、文法構造の再帰的埋め込みを特定する。文は文を、名詞は名詞を、際限なく含むことができる(S => NP + (V + S), NP => Art + N + (P + NP))。再帰性は理論的に便利だと証明された規則がもつ、明示的な特徴である。ここから、「生成道徳文法」も再帰的埋め込みを含意するだろうと示唆される(例:悪いことを人に勧めることは悪い)。
・再帰性によって、比較的少ない数の規則から潜在的に無限の文の集合を生み出すことができる。再帰性は文法規則の重要な特徴であり、道徳判断のモデル化が再帰性を使用せざるを得ないとすれば、言語とのアナロジーが支持される。
・I‐道徳文法のなかで、構造記述に対して割り当てられる規範的評価は、構造記述の中に埋め込まれた規範的要素に依存している可能性があることが、再帰的埋め込みから強調される。確かに、これだけではまだ因果的なプロセスモデルは排除されない。しかし、プロセスモデルに対しては、構造記述の見かけ上は非規範的な側面が、規範的考察に依存しているようであるというさらなる困難がある。
規範的評価への構造的な依存
人々が一見して記述的な主張〔この行為は意図的に行われた〕を受け入れるかどうかは、行為の副作用に関する規範的主張〔環境を破壊することは悪いことである〕を受け入れるかどうかに依存しうるという証拠がある(ノーブ効果)。また、「によって」「のために」「同じことである」「引き起こす」などの記述にも、規範的評価が影響することが知られている。したがって、状況や行為の構造記述自体が、規範的評価を含んでいる場合があるように思われる。
カテゴリー化 VS 文法
多くの道徳的判断が行為や状況の道徳的カテゴリー化を行う。そこで道徳理論を、言語ではなくカテゴリー化に関する心理学的理論とのアナロジーで捉えようとするものがいる(Stich [1993])(とくにプロトタイプ的な説との(cf. Chap6))。この提案には2つのことが言える。
・2つのアプローチが競合するものなのか不明。カテゴリー化は心理的プロセスだが、道徳文法とは心理的プロセスではなく道徳的評価の内容の構造に関する提案である。両方正しいのかもしれない
・概念とカテゴリー化に関する最近の理論によれば、概念やカテゴリーは単なるプロトタイプではなさそうだ(Murphy [2004], Machery [2009])。むしろ概念は理論に埋め込まれており、道徳文法は心理的プロセスの理論の一部となるかもしれない。
「能力‐運用区別」
能力:個人の内在化された文法 / 運用:言語の使用に影響を与え得る他のすべての要因
言語とのアナロジーは、道徳能力と道徳運用の区別を設けることが有意義なのではないかと示唆する。記憶その他のプロセス上の制限の他にも、ヒュリスティックスやバイアス、偏見、情動的反応、利害関心などが道徳判断に影響するだろう。
多くの場合、運用にかかわる要因は能力をゆがめたりせず、適切な機能のうちに統合されている。例えば、いわゆるサイコパスや普通の情動反応を示せなくなる脳損傷を負った人のうちには、普通じゃない道徳判断をおこなう。もちろん、道徳能力・道徳運用区別に訴えるのが患者の説明に有益か否かは経験的問題。しかし一般的に、こうした区別が有意義なものか否かは考察してみる余地がある。道徳性は全て運用要因で決定されており、例えば情動は道徳的見解に対して構成的なのかもしれないし、道徳性のある部分にはこの区別が有用かもしれない。
生成道徳文法について示唆された点のまとめ
(1)道徳理論分析の有益な単位はI‐文法か、それとも例えば集団の道徳的慣習か
(2)道徳文法は、行為や状況の構造記述と規範的評価をそもそも/どのように結びつけるか
(3)道徳文法の規則は、規範的評価の再帰的埋め込みをそもそも/どのように含むか
(4)道徳「能力」と道徳「運用」の区別は有用か?
2. 普遍的道徳性
ここからは言語と道徳的普遍の問題にうつる。第一言語として子供が獲得可能なすべての言語に共通な特徴は普遍的と言われる。普遍文法は、このような言語的普遍や、自然言語の差異に対する制約を扱う。この点に関して道徳とのアナロジーは有意義だろうか。ここでは、道徳に関係する普遍性の中でも、I‐道徳文法への普遍的な「制約」の存在と、普遍的「パラメータ」という考え方という2点に焦点を当てる。
言語の文法への制約
まず文法への制約の話:普遍文法はI‐文法の規則に対し制約をかける。普遍文法は部分から句を形成するための「句構造規則」と、部分を再組織化するための「変形規則」を含む。
・句構造規則の例:形容詞(Green)は名詞(apple)と組み合わさって名詞句(green apple)を形成する
・句構造規則の制約の例:前置詞が前置詞句の中でその対象の前に現れるなら、動詞も動詞句の中で対象の前に、名詞も名詞句の中で対象の前に現れなくてはならない。
・変形の例(Wh-movement):(1)Bob gave which to Bill → (2) which Bob gave to Bill
・変形の制約の例(coordinate structure constraint):同格構造から同格になっているひとつの項を動かしてはならない (7)Bob gave a record and a book to Bill. ×→(8)*A book, Bob gave a record and to Bill.
この種の制約が、トライアル&エラー、もしくは明示的に学ばれるとは考えにくい。こうした観察は、子供がこれらの特定の制約に向けて傾向づけられているのだと措定すれば説明される。
道徳性への制約?
普通の道徳的直観は、〔本人には〕明白でない特定の規則に従っているという示唆がなされてきている(ex. 二重結果原理)。こうした原理は、言語的制約と同じように、明示的に教えられたとは考え難く、子供はそういう傾向を持っているように思える。そしてそうであれば、こうした原理は全ての道徳性のうちで発見されると期待できる。
もちろん、こうした原理に背く道徳体系(ex. 功利主義)を構築することは可能だが、功利主義者の子供はこうした原理に従属するバージョンの功利主義を獲得すると予想できる(cf. 父ミルと子ミル)。
言語の原理とパラメータ
次に原理とパラメータの話に移る。どうして子どもはとても早く言語を習得できるのか? →原理とパラメータ理論の答え:子供は相互作用の中から、少数のパラメータ(文に主語は必要か否か、句の主要部は補部に先立つか後に来るか……)を設定し、言語の「コア」統語を獲得する。他の「コアでない」側面は例外として学習される。
道徳性の異なり方:原理とパラメータ?
諸道徳性は様々な事柄をめぐって異なる。原理とパラメータ理論はこの差異をどう説明するか。
すべての道徳性が次のような原理を受け入れているかもしれない:グループGのメンバーへの害を排除せよ、あなたの資源をグループFのメンバーへ分けよ……(F,Gがパラメータになる)
しかし、このパラメータは数多くの値をとりうるという点で、だいたい2値な言語のパラメータと異なっている(Prinz [2008])。妊娠期から上昇し青年期の初めに頂点に達してゆっくり下がる人生の「神聖な価値」を胚が持つかどうか(2値)(Dworkin)、社会組織の4種の方法(共同で分ける・権威でランク付け・等価交換・市場での値付け)にパラメータを見出しているものもいるが(Fiske)、道徳原理・パラメータについて明瞭に考えられるようになるには、道徳性の多様性に関してより明示的な生成的説明を手に入れる必要がある。
道徳性は教えられなくてはならないものなのか?
言語獲得は明示的な教示を必要としない。I-道徳性の獲得はどうか? Prinz [2008]は、道徳的慣習はその他の慣習と同じ方法で身につけることが可能で、道徳的普遍、原則とパラメータ、その他道徳文法の要素は必要ないと主張した。60年代に普遍文法に対しても同形の反論が提出されたが、普遍文法は今日の言語学の中心部にある。
コア道徳性?
パラメータのセットによって獲得される言語の「コア」な側面の話が出たが、この概念は言語学の中でも論争中であり、程度の問題だとするものや要らないとする者もいる。同じ議論が道徳性のコアな側面に関しても生じるだろう。コアと周辺の区別が道徳性を考える際に有益かどうかは分からない。
人間と他の動物
人間の言語のある側面は動物のコミュニケーション体系と似ており(特定の音やジェスチャーを使うなど)、ある面は言語独自である(恐らく再帰性)。言語とのアナロジーは、動物と人間の道徳性を比べることは有意義だと示唆する。
Fiskeの4つの社会モデル(共同で分ける・権威でランク付け・等価交換・市場での値付け)のうち、前3つは動物にも見られ、また前2つは多くの狩猟採集人のグループで見られていたように思われる。
→問い:前2つのモデルしか用いない人々の道徳性と、こうしたモデルを用いる社会的動物の道徳性の間に有意な違いはあるか? こうした人々は上で見たような再帰的な特徴を伴う道徳を持つか?
ピダハン(つい最近まで他の人々と接触を持たなかった少数グループ)を見てみる。彼らの言語は量化子やオペレータによって束縛された変項を持たないように見えるので、悪いことを勧めるのは悪いと言った原則を表現できないかもしれない。ピダハンの子供をニュージャージーに連れてくれば量化の能力を身につけ、他の人と同じ道徳原則を身に付けるだろうが、一方で人以外の社会的動物に同じようなことは見られない。
3.結論
〔省略〕