えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

人生を演じられた物語として捉える事 マッキンタイア[1984=1993]

美徳なき時代

美徳なき時代

美徳なき時代

目次
第4章 先行の文化と、道徳の正当化という啓蒙主義の企て 
第5章 なぜ啓蒙主義の企ては失敗せざるを得なかったのか
第6章 啓蒙主義の企ての失敗がもたらした諸結果
第11章 アテナイでの諸徳
第12章 アリストテレスの徳論 
第15章 諸徳、人生の統一性、伝統の概念←いまここ

人生を一つの全体として考える

・人生を統一体として見る試み→諸徳に適切なテロスを提供する
【社会的障害】近代は人生を分割する(仕事/余暇、私/公、子供期/老年期)
【哲学的障害】
・人間の行為を原子論的に考える傾向(「基礎行為」)
・個人と諸役割の分離
┣→徳の舞台である社会的諸関係の喪失
┗→徳は人生の様々な状況で発揮されるもの:徳の統一性は統一的な人生の特徴。近代に起こった道徳の変化は、自己についての考え方の変化と相即する。
・前近代的な自己概念:自己性の概念物語の持つ統一性のうちにその統一性が存在する。 →このような自己観は、我々の行為や思考にまだ現存している。

意図・舞台・歴史

・所与の行動の一片には様々な正しい記述がある。その行動をどう理解・説明すべきかという問いに応えるためには、まず諸記述の関係を問わねばならない〔どの記述の下で意図的か〕。行為は、特定のタイプの「舞台Setting」を前提とするある意図を具現化している。舞台は意図を行為者自身・他者の双方に対して理解可能にする(冬の前に庭を整える:庭付き世帯)。そして舞台は歴史を持つ。この歴史の中に行為者の歴史には位置づけられるべきである (←行為者自身の歴史と変化の理解可能性のために)。
・行為の主要な意図を知るためには、どの信念がその意図に因果的に寄与しているか知らねばならない(意図の〔信念の〕因果的序列)。また、短期の意図は長期の意図に言及することによって理解可能になる(意図の時間的序列)
→ここでも物語的な歴史を書く必要性
まとめると、行為を同定するのは2種類の文脈による――意図を……
 ・その舞台の歴史において持つ役割に言及し位置づける
 ・その行為者の歴史が持つ役割に言及し因果時間的な順序で位置づける
→ある種の物語的な歴史が、行為を性格づけるのに基本的かつ本質的なもの

理解可能性――行為と物語との概念的連結点

 個々の要素的行為が理解可能になるのは、ある連続体の中の要素と位置付けられ、その連続体もある文脈に入っている場合のみ。
(ex. カント倫理学の講義中に、卵を割り、かき混ぜ、砂糖と塩を入れる)
「『理解可能な行為』という概念は端的な『行為』という概念より根本的な概念」
ある出来事を行為として同定するとは、行為者の意図が動機、情念、目的から理解可能になるような記述の下で同定すること。だから、行為の同定については行為者に理解可能な申し開き〔説明〕を求めることが常にふさわしい。発言行為も、ある物語(文脈)の中に定位されることによって理解可能になる
・発話行為と目的を理解可能にする典型的な文脈は「会話」:会話は短くても劇的作品(始めと終わりと中間がある)。同じことが相互作用一般にも言える。
→会話、人間の相互作用は、演じられた物語enacted narratives

生きられた物語

 この章のはじめで私が論じたのは、ある人の行いを首尾よく同定し理解している時には、私たちは常に、特定の挿話を一揃いの物語的な歴史という文脈に位置づけているという点であった。その歴史とは、当の個人のそれと、個人の行為と受苦の舞台のそれという両方の歴史である。さて、今明らかになっている点とは、他者の行為がこの仕方で理解可能とされるのは、行為自体が基本的には歴史的な性格を持っているからだという点である。物語という形態が他者の行為を理解するのにふさわしいのは、私たちすべてが自分の人生で物語を生きているからであり、その生きている物語を基にして、自分自身の人生を理解するからである。物語は、虚構の場合を除けば、語られる前に生きられているのだ。  p. 259

・人生には、始まり・中間・終わりの他に、類型と埋め込みが語られる。埋め込みによって私たちのドラマはそれぞれが互いのドラマに制約を課せられる。

サルトル/ロカンタンのテーゼと「物語を語る動物」

・<一つの行為>というアイデアは誤解を招きやすい抽象物:一つの行為は、ある可能的あるいは現実的な歴史、または複数の歴史の中の一契機。
⇔サルトル/ロカンタンのテーゼ:人間の行為はそれ自体としては理解不可能な出来事。物語の語り手は、それが生きられていた間は無かった秩序を回顧的に付与する。だから真実の物語などない。
・このテーゼが間違っている点:物語の秩序を奪われた行為はどうなるか?
 →その描写は結局、常にある物語になりうる明らかにバラバラな諸部分を提示することになる。
・登場人物は、他者の行為と社会的舞台に束縛される。また、物語的構造は予測不可能性を要求し、それは目的論的性格と共に人生を構成する。現在は常に、テロスのかたちで現前する未来イメージに照らして進んでいるか進み損ねているか否かである。
・テーゼ「人間はその行為と実践において、虚構においてと同様、本質的に物語を語る動物である。」

人格の同一性

・厳密な同一性(あるか、ないか)⇔心理的連続性(多い少ない)
登場人物としての人間〔人格〕は、心理的連続性しか所有していないのに、厳密な同一性の負担に応える能力を必要とする(今は変化していても、かつての時点の自分に関して申し開きするよう他者からいつ要求されてもおかしくない)。→ 人格の同一性を自己の心理的連続性に基礎づけることは不可能。自己の統一性は登場人物の統一性として与えられる。
物語概念の要求1:人格とは、誕生から死までを貫く一つの物語を生き抜く過程で、他者によってそうであると正当に見なされているところのもの(歴史の主体)である。歴史の主体であるためには申し開き能力を持たねばならない。

人格の同一性とは、物語の統一性が要求する登場人物の統一性によって前提されている同一性に他ならない。そうした統一性がなければ、物語が語られ得るような主体は存在しないだろうからである。 p.267

〔異なる時点の心理的に異なる諸人格を統一するものは何か。それはt1の彼が、t2の彼との間の繋がりを、他者に理解可能な形で説明(申し開き)できるという点に存する。説明(物語〕は或る人物について語られるのだから。〕
要求2:さらに、人格は他人にも申し開きを求めうるものでもある。
・<人格の同一性>と、<物語><理解可能性><申し開き能力>は互いに前提し合っている。 

善き生

 冒頭の問いの答え:人生の統一性は、単一の人生に具体化された物語の統一性である。私にとっての善とは何かという問いは、私がその統一性を完成させるにはどうするのが最善かという問いであり、人間にとっての善への問いはこの問い全てが共通に持つものへの問い
・人間の生の統一性は、物語的な探求の統一性である。探求は、探求されているもの(善そのもの)の何らかの把握によって開始されるが、その目標は探求の過程により最終的に理解される。
→従って、諸徳とは実践を維持し内的善を達成することを可能とするだけでなく、善そのものを求める探求の中でも我々を支えてくれる傾向性。
【諸徳を実践と人間にとって善く生と関連付ける第2段階の説明】
人間にとっての善き生とは、人間にとっての善き生を求めて過ごされる生であり、それを求めるのに必要な諸徳とは、人間にとっての善き生き方とは何かをよりいっそう、また別の側面から私たちに理解させてくれるような徳性
→さらに、社会環境を考慮した第3段階の説明へ

私が相続しているもの

 善き生を生きることが何かは環境によって変化する。というのは、自分の物語は、自分の同一性の源である共同体の物語に埋め込まれており、特定の社会的同一性の担い手としてその環境にいるからであり、社会から負債と遺産、期待と責務を相続している。これが私の道徳の出発点になる。
 この特殊性は普遍を求める探求の始点であり、その共同体の道徳的限界を受け入れなくてはならないというわけではないが、しかし特殊性は探求の中でおきざりにされたり抹消されたりするものではない(⇔近代の道徳)。
 私の何であるかは、その主要な部分において、私の相続しているものである。→諸徳を実践と関連付け、実践の歴史性を強調してきたが、では実践の伝達と再形成の場である伝統(をつつむより大きな伝統)を構成するものは何か?

伝統の概念

私たちの時代の実践や私たち自身の歴史は、一般的には、伝統の持つ広範な歴史の中に埋め込まれており、そこから初めて理解可能になる。自己の善の探求は伝統が規定する文脈の中で行われる。
・伝統が反映:関連する徳が行使される時 / 衰退:行使が欠如する時
→「伝統への適切な感覚の保持」という徳の重要性:関連する格律群からどう選択し、特定の状況でどう適用するかを認識するための徳
しかしこの選択は近代の根元的選択とは異なる!

悲劇的選択

・悲劇的対立を生き抜くのには、より優れた仕方とより劣った仕方がある
悲劇的選択は、根元的選択とは違い、選択肢のどちらも、なんらかの実質的な善に至るものとして把握される(何を行おうと、行うべきだったことは行わないまま残る)。しかし、ともかく主人公の道徳的務めは果たされる。それは、善というのがその人の人生に統一性(をもたらす理解可能な物語の性格)によって把握されるからである。だから、悲劇的なジレンマの存在は、道徳に関する〔主観主義・情緒主義〕を招かないのである。