えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

自由意志について語るとき心理学が語ること Nichols (2008)

Are We Free?: Psychology and Free Will

Are We Free?: Psychology and Free Will

背景:3つの事案

・自由意志論争には3つの事案がある。ここではそれぞれに心理学がどう貢献するか示す。

  • 【記述的事案】自由な選択という素朴概念は決定論と両立するか?

 YES:両立論    / NO:非両立論…次の事案へ

  • 【実質的事案】その概念は選択の本性を反映しているか(つまり、正しいか)

 YES:リバタリアン / NO:自由意志消去主義…次の事案へ

  • 【処方的事案】では、我々の実践を変えるべきか?

 YES:革命派    / NO:保守派

記述的事案

選択という素朴概念

・最近の研究によると、ひとは選択に関して非決定論的な見解を持っていると思われる。

【実験1】:子供に次のような二組の光景を示し、蓋が開いたとき別様に振る舞うことが出来たか否かを問う

→すべての子供が、行為者条件では別のこともできたと言い、対象条件では否定した。
【実験2】:「お湯がわくこと」と「飴を盗むこと」のそれぞれについて、それ以前の全ての出来事が決定されたとしてその出来事は起きざるを得なかったかどうか尋ねる。
→大人も子供も、物理的な出来事の方が「起きざるを得ない」とより言う

  • 研究紹介2 Nichols & Knobe 2007

・決定論的宇宙とそうでない宇宙の記述を用意し、どちらがこの世界に近いか訊くと、圧倒的大多数が非決定論的宇宙の方だと答える

・ただしNahmias et al. 2006の反論もありさらに研究が必要。また、非決定論直観の文化横断性も重要なトピックである。非決定論的見解は西洋文化に限られるようにも思われる(Nisbett et al. 2001, Machery et al. 2004)が、我々のような生き物はみんな非決定論的見解を持つはずだという言い分も尤もらしい(Strawson1986; Nagel 1986)

リバタリアン的自由意志信念はどこから来るのか。

・われわれがリバタリアン的自由意志信念を持っているとすると、それがどこから来たのかは記述的事案にとって問題となる。この説明にはいくつかの提案がある。

  • 【内観から来るよ説:Reid 1788. Holbach 1770】

・内観によって、行動を産出する決定論的過程を把握することはできない(この点は、決定論者もリバタリアンも同意する。リバタリアンとしても無いものは知覚できない)。
・この事実と、内観の透明性(内観によって、〔もしあれば〕意思決定の因果過程全てにアクセスできる)の信念から、そのような過程は存在しないと推論されるかもしれない。
▲内観が透明だという信念を我々がもっているという主張には証拠が必要
▲最後のステップの推論を人が実際に行っているという仮定を置いている
▲他人の意思決定が非決定論的だと我々が考えている点は説明できない。
→こうした欠点は決定的ではないが、心理学によって研究することが出来る

・心的なものの重要な特徴は「動かされずに動くこと」であり、自発的運動が刺激となって自由な行為者としての心の帰属がトリガーされる。
▲行動の予測と説明が非決定論的なモデルに訴えることはまずなく、心の帰属からそのままリバタリアン的自由意志の帰属もなされると仮定するわけにはいかない。
▲赤ちゃんさえ様々な現象に心を帰属させているようにみえる(Csibra 2003)。しかしリバタリアン的自由意志の帰属は、赤ちゃんがするには複雑過ぎるように思われる。
▲Johnson, Slaugher & Carey 1998によると、自発的運動をする対象でも、それが赤ちゃんの行動と偶然的関係を持っている場合には心が帰属されない。
→自発的運動説がリバタリアン的意志帰属を説明できるとするにはまだ証拠が必要

・カントは、「べきはできるを含意する」格率と、我々は道徳法則に従わざるを得ないという事実から、非決定論な選択の存在が証明出来ると議論した。この議論は、非決定論的な選択の「信念の」証明には使えるかもしれない。
▲子供でさえべき判断をおこなうという証拠は大量にあるが、しかし子供がカントの格率的な見解を持っているかどうかについてはほとんどデータがない。

  • 【可能性一般に関する非両立論からの説明:Nichols 2006】

・選択に関わるもの以外にも、子供が運用する様相概念は非決定論的に解釈するのが自然である。可能性概念一般が非決定論的なのではないか?
・「可能」という様相概念の第一の機能はリスクと機会を表象する事だと思われる(Nichols 2006)。親が子にリスクや危険について語る時には、選択肢が子供次第であると強調したいのであり、そうならば素朴様相概念が両立論的でないことは不思議ではない。
▲素朴な様相理解の(とりわけ実験的)研究はまったく手が付けられていない
→しかしここでも心理学はこの説明を確証/反証したりできる良い立場にいる。

実質的事案

・(ここではリバタリアニズムに反対する議論に焦点を当てる)

アプリオリな議論

・有名なのはホッブズのジレンマ。決定が自由であるためにその決定が決定されていない事を求めると、その決定は行為者によっても決定されていない事になる。するとリバタリアン的意志は不可思議な代物になる。ただ、不可思議な見解が真であることもあるので、こうした議論から形而上学的な可能性を否定してしまうのは早急なのかもしれない。

アポステリオリな議論

・心理学が(心理的)決定論の正しさを示すことが出来れば、リバタリアニズムへの反論となる。Bargh and Ferguson 2000は、意識的熟慮の介入なく進む心的・行動上の仮定の存在を示すことで行動主義者と認知科学者は決定論への証拠を積んでいると言う。
・さらに、制御過程についての研究も決定論への証拠となっていると主張する。例えばChartland and Bargh 1996は、かき混ぜ文課題に印象形成に関係する語(Evaluate, judge, assess等)で負荷をかけると、課題後に与えた人の行動記述に関して後からより精確な想起がなされる事を示した。これは意識的に印象形成目標をもった場合と同じ効果である。〔ここから〕制御的な心的処理もそれ自体制御されているとバーグらは論じた。
・しかし、この証拠の使い方には問題がある。まずリバタリアンは、決定論が偽なのは「選択」においてだと主張出来る。そしてもし同種の発見が選択についてなされたとしても、ここでは無意識的過程が心理的な結果に「影響している」という事しか言われていない。
・リバタリアンといえど、選択が多くの要因の影響される事を認めるのに吝かではない。反論者は既知の影響によって決定は「完全に決定されている」と言わなければならない。
・さらに、多くの事例で選択が決定されている事を示せた場合でさえ、リバタリアンは、自由な活動はかなり稀な現象なのだと言うことが出来る(実際そう考える論者はいる)。

発生論的議論

・リバタリアン的自由意志の非存在を証明できなくとも、心理学には別の貢献の仕方がある。先ほどの自由意志信念の出自に関する説を概観したが、もしそのどれかが正しければ、リバタリアン的自由意志の信念を持つことは正当化されない事になる。
・例えば、親がリスクや機会を非両立論的な可能性として提示し、子供もそのように考えるようになったとする。このように形成された信念は正当化されていないというべきである。我々は中規模物体に関わる自然の出来事が決定されているか否かを識別する能力を持たない〔ため、この信念を世界とぶつけることができない〕からだ。このため、我々は世界が非決定的ではなかったとしても、非決定的だと信じることが出来る。だからこの信念は、「形而上学的な」可能性に関する信念としては正当化されていない。
・さらに我々には、選択がリバタリアン的な源泉を持つか否かを識別する能力もない(他人に関しては明らかにない。自分に関しても、内観が意識的/無意識的な因果要因を検出できないことは社会心理学によってわかってきている(Nisbett & Wilson 1977, Wegner 2002)。従ってリバタリアン的自由意志信念には良い根拠が存在していない。
・この議論は、「正当化の欠如とは何なのか」に関する哲学的前提と共に、リバタリアン的自由意志信念の出自に関する思弁に頼っている。議論を健全にするには心理学が必要だ。

処方的事案

・これは倫理の問題だが、事実を知ることで何をすべきなのかよりよく選べるようになるなら、心理学にも出番がある。消去主義者にとっては次の点がとりわけ重要である。

  • (1)リバタリアン的自由意志を信じるのをやめると何が起きるか

・リバタリアン的自由意志がないと人々が知った時に世界が世紀末状態になり絶望に包まれそうならば、このことは大衆には黙っておいた方が良い。しかし、数は多くないが経験的知見によると、世界の崩壊を恐れなくてもよさそうである。
・Roskies & Nichols 〔2009〕は、被験者に決定論的宇宙の記述を読ませた後、一群にはそれを別の世界の事、別の群にはこの世界の事として想像させた。別世界条件の被験者は、人が道徳的責任を負うことは不可能だと言う傾向にあったが、この世界条件の被験者は負えると言う傾向にあった。従って、人はこの世界が決定論的だと考えても、世紀末的な道徳に没落していく訳ではなさそう。
・またViney et al. 1982, 1988によると、決定論者である大学生は非決定論者である大学生を比べても、加罰傾向および懲罰に関する応報的正義の要求度合いは別に変わらない(ただしこの実験は決定論者を同定する方法がおかしいので、もっと研究をしよう)。

  • (2)革命を起こすのは結局のところ有益なのか

・この問題は巨大で手におえないが、応報刑主義を考えてみる。消去主義者には、応報刑主義は止めるべきだとする者がいる(Greene & Cohen 2004, Pareboom 2001)が、その帰結を考えてみなくてはこの判断は早急である。ここでも鍵は心理学にある。
・Haidt & Sabini〔ms〕は、不正者のビデオを見た被験者は不正者が<受けるに値する罰>を受ける結末を選好する事を示した。また公共財ゲームを使った実験では、罰が自分に利益を生まくとも人は加罰する事(Fehr & Gechter 2002)、この種の加罰が協同を打ち立てるのに効果的な事(Feher &Fishbacher 2004, Fehr & Gächter 2000)が示された。
・応報の可能性が現実化しており、相手も同じ立場にいると知っているだけで、人は協同するようになる。とすると、応報主義廃止を進めるのは危険要因だと思われる。応報主義維持のコストとの計算が更に必要だが、革命の前にもっと証拠を待つ方が賢明だろう。

結論

・自由意志に関して哲学はもうながいことダメダメだから心理学やろうよ