えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

1850年代の科学的唯物論への反対言説 Gregory (1977)

【目次】

1850年代、ドイツでは唯物論一般や科学的唯物論に対する反発が噴出した。この時期に現れた批判書は4タイプに分けることができる。

(1) 観念論的な哲学者によるもの

 職業哲学者から見たとき、科学的唯物論者は哲学的にあまりに素朴だった。心身問題のような古くからの哲学的問題が科学の進歩によって簡単に解決することはありえず、唯物論者の主張は話を混乱させているにすぎなかった。

a. ヘーゲル主義:フィッシャー

 クーノ・フィッシャーはすでに1853年に、主にフォイエルバッハとモレショットを批判する著作『感覚主義の誤り』を公刊した。自我は脳活動によって生じるとする唯物論は人間と動物の差異を無視しており、唯物論が含意する決定論は道徳を破壊してしまう。また、ドイツを覆う貧困問題を前に、国家を個々の利害関心の均衡装置と捉える唯物論者の考えかたは不十分であり、問題解決のためには自由意志による「時代の霊的再生」が必要である。さらに、自然は目的論なものであり唯物論者の奉じる盲目的必然性では説明できない。自然の法則性・目的性は絶対的知性に由来するもので、科学を宗教から切り離すのは誤っている。

b. 新カント主義:フラウエンシュテットとランゲ

 科学的唯物論はドイツ哲学界に認識論的問題を再燃させた。そうした認識論回帰の兆候の一つが、新カント派の運動である。初期の新カント派の中で唯物論批判を展開した人物に、ユリウス・フラウエンシュテットがいる。フラウエンシュテットは、神学の独断主義に対する唯物論者の批判は評価するが、唯物論は神学と同じ問題を抱えていると指摘する。それは形而上学的実在論であり、知性の働きを無視して、「力」や「物質」といったカテゴリーが物自体にそのまま適用できると考える点だ。実際、唯物論者が信じる自然法則の不変性や普遍性は感覚知覚を超えているし、有機物に秩序と形態を与える原理が意図せず導入されており、さらには倫理的責任に言及する以上は自由意志を認める必要がある。また科学の領域と信仰の領域を峻別するルドルフ・ヴァーグナーのような考えは正しくない。近代科学と対立するのは歴史的宗教に過ぎず、歴史的宗教は宗教の本質ではない。
 
 フリードリヒ・アルベルト・ランゲは唯物論に対してより厳しいが、批判の内実はフラウエンシュテットのものとほぼ同様である。例えば、そのフォイエルバッハ批判は現象と物自体の区別に基づく。かつてヘーゲル派だったフォイエルバッハは本質が現象において完全に現出すると錯覚し、さらにヘーゲルを超えて、現象を感覚と同一視してしまった。総じて、唯物論者たちは知識の限界を無視している点に問題があるが、この点を理解するにはもっと哲学の教養を身につけなければならない。こうした尊大な態度は唯物論者たち、特にビューヒナーを激昂させた。

c. シャラー

 ハレ大学の哲学者ユリウス・シャラー(Julius Schaller)は、フォイエルバッハ同様ヘーゲル派から離反した人物だ。シャラーの考えでは、出発点として原子を選ぼうが精神的実体を選ぼうが、何れにせよ矛盾や不整合が生じる。そこでこの二者択一の前提を見直し、物質を活動的で過程的なものだと捉えるべきである(シャラーの見解はホワイトヘッドに似ている)。この見解は、物質から心的現象を導き出せるとする唯物論の考えを批判するものだ。さらにシャラーは、唯物論者は自身の考えを学(Wissenschaft)だと言わんとする点で観念論的関心を持っているのではないかと指摘している。

d. フローシャマー

 唯物論に対して哲学的反論を行ったカトリックの神学者にヤコプ・フローシャマー(Jakob Frohschammer)がいる。フローシャマーは自分の神学者としてのポジションがかわいいだけだとフォークトに非難されたが、これは不当である。フローシャマーは科学研究の自由を擁護しダーウィニズムの解説書を著すような人物であり、最終的には教皇無謬に反対して破門された。フローシャマーは、そもそも推論という営みには感覚経験以上のものが含まれていると指摘する。そして、感覚的なものに超感覚的なものが含まれていることを否定できない唯物論者には、魂や生気の可能性も否定できない、と論を進める。またフローシャマーは、自然科学だけが事実に基づいているとする自然科学者のエリート主義や、唯物論者が説く道徳の相対性にも反発した。

(2) 科学者によるもの

 ドイツでは、自然科学者が公的な討論にかかわるのはみっともないという風潮があった。しかし、唯物論に対して黙っていない科学者もいた。総じて、大学にポジションを持つような科学者は唯物論を受容しなかった。唯物論者と同様に正統派の宗教を批判する者もいたが、宗教自体の否定にまでは至らず、宗教の近代化を志向する者が多かった。ただし、どのようにそれを達成するかについては全く曖昧であった。

a. リービヒとヴァーグナー

 リービヒは、実験を重視して思弁を固く戒めた人物であったが、唯物論には決して賛同しなかった。1856年マクシミリアン2世の前での講演では、モレショットを念頭に置きつつ、唯物論者はディレッタントだと断じている。

 ゲッティンゲンの生理学者ルドルフ・ヴァーグナーは、1854年のドイツ科学者・医学者協会31回大会での演説やそれに引き続く出版でフォークトを批判した。これをきっかけにフォークトは論争的な著作『妄信と科学』(1855)を出版し唯物論に関する議論が盛り上がったが、ヴァーグナー自身は論争を巻き起こしたことを同僚から咎められ、さらなる応答は行わなかった。

b. アンドレアス・ヴァーグナーとアウグスト・ベーナー

 フォークトに応答した科学者に、動物学者アンドレアス・ヴァーグナー(Andreas Wagner: ルドルフとは無関係)がいた(『自然科学と聖書』(1855))。偉大な科学者の多くはキリスト者であり、自然科学が超自然的なものの否定につながるというのは誤りである。また、唯物論はキリスト教の疎外体にすぎない。さらにヴァーグナーは、種の定義という問題についてもフォークトと論争になった。

 アウグスト・ベーナー(August Böhner)は、スイス自然科学協会の会員であった以外は不詳の人物である。その著書『自然研究と文化的生活』(1859)は、ヴァーグナー同様、唯物論に対して宗教を擁護するものだ。曰く、唯物論は革命と関連している。実際、イギリスやフランスの革命前にも唯物論は流行していた。こうした関連が生じるのは、唯物論が攻撃するキリスト教的思考こそが、社会秩序や平和、文化的進展、人権を可能にしているからだ。

c. ヘルマン・クレンケ

 唯物論により融和的な科学者も存在していた。例えば軍医のヘルマン・クレンケ(Hermann Klencke)は、自然科学からは確かに無神論的結論が引き出しうるが、同時に有神論結論も引き出しうると論じる。このように自然科学を宗教的に中立だとすることで、クランクは多くの人々(特に神学者や古典学者)に広がる反自然科学的態度に抵抗しようとした。

d. カール・フォン・ライヘンバッハとヘンリッヒ・ライヘンバッハ

 「オド」で知られる化学者のカール・フォン・ライヘンバッハは、オドは感覚されうるというという観点から、物質だけが感覚されるという唯物論者に反対した。また植物学者のヘンリッヒ・G・L・ライヘンバッハは、利己性がはびこる無機的段階から愛に溢れる有機的段階への発展という図式を展開し、後者の段階を認めない点で唯物論を非難した。

(3) 正統派の神学者や牧師によるもの

 唯物論はドイツの社会全体に広がり、多くの宗教的パンフレットや説教の中にも登場することになった。聖職者の中には、唯物論の勃興を観念論の必然的帰結と捉え、近代の理性重視傾向全体を批判する者や(Otto Woysch, D. A. Hansen)、逆に自然科学によって教義を擁護しようとする者もいた(Wolfgang Menzel)。しかし多くの聖職者はその中間を行った。すなわち、学問自体を批判することなく唯物論を批判するという道だ。

a. フリードリヒ・ミケリス

 カトリックの司祭フリードリヒ・ミケリス(Friedrich Michelis)はシュライデンにあてた公開書簡で、科学の通俗化(フンボルトの「コスモス」にはじまる)への関与に遺憾の意を表明した。シュライデンの一般向け講義はミケルスの考えるカトリックの立場から明らかに逸脱していた。すなわち科学と宗教は別の領域のもので、科学は有限の物質的存在にのみかかわる(したがって唯物論の主張は科学的主張ではない)という立場だ。しかし他方でシュライデンは反唯物論傾向を持っており、ミケリスはこの点を賞賛した。またミケリスは、唯物論に対抗するための雑誌『自然と啓示』も創刊している。

b. アドルフ・ハーレス

 ルドルフ・ヴァーグナーの親戚であるプロテスタント神学者アドルフ・ハーレス(Adolph Harless)は、戯曲の形で唯物論に反対した。この劇は、ゲーテが蘇って唯物論が浸透したドイツ文化の荒廃を目の当たりにするというもので、最終的にゲーテは「地獄の方がマシだ!」と叫んで唯物論を破壊するよう神に訴える。この事例が示すのは、反唯物論者は戦いの方法を賢く選択していたということだ。通俗的運動としての唯物論と戦うのに、細かい哲学的議論は適していない。皮肉や機知、国民的人物の利用といった手段で、読書層を説得することが試みられた。

c. フリードリヒ・ファブリ

 プロテスタントの伝道視察者であったフリードリヒ・ファブリ(Friedrich Fabri)の『反唯物論書簡』(1859)は、唯物論は哲学的運動と言うより時代の兆候なのだ指摘する。実際、多くの哲学的論駁がなされたのにもかかわらず、「思弁は夢遊病の哲学だ」(フォイエルバッハ)の一声でかき消されてしまった。唯物論は古代ギリシアでもフランスでも社会の下降局面に現れるもので新しさはないが、これを野放しにするとフランス革命のような事態に発展することが今日ではよくわかっている。

 唯物論への攻撃と同時に、ルドルフ・ヴァーグナー流の二重真理説にも批判的なのがこの本の興味深いところだ。信仰は直接経験から生じるものであり、あらゆる知識・理解の前提になる。実際、科学者が自然法則の不変性や空間の無限性を言う時、そこには信仰が入り込んでいる。また、経験というのは感性的なものに限られない。自己意識や啓示の経験のような超感覚的経験が存在しており、その証言は感覚経験と同じくらいリアルである。

 経験に比べ、思考には相対的なところがあり、科学的な事柄に対する態度は整合的でありさえすれば後は道徳的選択の問題である(ファブリはツォルベの唯物論的な一貫性を評価しさえしていた)。結局、世界の真のあり方を教えてくれるのは経験ーー特にキリスト教的経験なのである。しかしすべての人がキリスト教的経験を持つわけではない。こうして、科学における真理の問題は最終的には救済の問題となり、伝道が動機づけられることになる。

(4) 市民によるもの

 1850年代には、唯物論への不満を表明する匿名の著作が(特にダルムシュタットで)大量に出版された。それらの内容は、詩の形式でビューヒナーを皮肉ったものや、ビューヒナーによる啓示や生得的観念の批判を認めつつ神や奇跡を信じると主張する明らかに矛盾したもの、原子に意識を認めることで科学と霊魂不滅を調和させようとするもの、真の宗教性とは人権に由来する民主的なものだという立場に基づきフォークトの宗教に対する無理解を批判するもの(Wilhelm Schulz-Bodmer)など、多様であった。

 またモレショットの信奉者であったマチルデ・ライヒャルト(Mathilde Reichardt)は、しかしその世界観の中に罪の居場所がないことに不満を表明している。モレショットは罪を不自然さと結びつけているが、全てが自然法則に支配される物質循環の中に不自然さは存在しえないからだ。こうして賛同者の側からも、科学的唯物論は倫理や道徳について語れないという弱点が示されていた。しかし唯物論者たち自身はまったく説得されなかった。

研究例外論を擁護する難しさ John (2010)

https://www.tandfonline.com/doi/abs/10.1080/15265161.2010.482647

  • Stephen John (2010). Three Worries about Three Arguments for Research Exceptionalism.American Journal of Bioethics. 10(8), 67–69.

 Wilson & Hunter (2010) は、「研究例外論」(研究はリスクが相対的に低くても厳しく規制すべきであるとする見解)を支持する既存の議論の難点を指摘すると同時に、新たに3つの擁護論を提出した。筆者も研究例外論には賛成であり、また既存の議論に対するW&Hの批判にも説得力を感じる。しかし、新しい議論のほうはどれも説得的でない。

 第一の議論でW&Hは、研究参加者はリスクを負うわりに研究から利益を得ていないと主張している。確かに研究参加者は、自分が参加した特定の研究プロジェクトからは利益を得ないかもしれない。しかし、研究という社会制度そのものから、間接的な利益を得るはずだ。交通規制を例に考えよう。運転しない人は交通規制から直接の利益を得ないが、間接的利益は得る(配達物が早く届いたり、経済がよりよく機能するなど)。そしてこの事実は、交通規制のありかたに関連すべき要因だと思われる。このように間接的利益を考慮した時、W&Hの言うような研究におけるリスクと利益の非対称性は、簡単には成り立たないだろう。

 第二の議論は、研究が公的信頼に依存しているという点から、研究への強い規制を擁護するものだ。しかし公的信頼への依存は研究固有の特徴ではない。例えばリスクの大きい危険なスポーツの場合でも、それは人々が運営組織を信頼しているからこそ成立する。実際、あらゆる社会的相互作用は信頼によって成り立つのであり、W&Hは研究の場合に何か特別なことがあると示さなければならない。

 W&Hの第三の議論は、研究にかんする倫理的判断の不確実性と多元性から、倫理委員会のような強い規制枠組みを正当化しようとする。この議論は比較的説得的だが、懸念すべき部分もある。目下の文脈では、研究者は聖職者に似ている。どちらも人々を自分の計画に引き入れようとしており、かつその計画への参加には無視できないリスクと利益が伴う。しかしかといって、宗教的な勧誘運動を独立した委員会によってチェックしろと言う人はいない。ところがW&Hの議論によれば、こうした宗教への参加を含む「人生における実験」(ミル)全般を規制すべきだという反リベラル的な結論が出てしまう。
 
 研究者と聖職者のアナロジーを却下する方法はあるだろうか。W&Hの議論はさらに研究者の職業倫理の存在にも訴えているが、聖職者にも倫理がある。研究参加と違い宗教的回心には身体的リスクがないかもしれないが、心理的・経済的なリスクは存在している。宗教の例では価値の多元性の問題は生じないという反論も考えられるが、人を回心させる場面では有効ではない。最後に、研究の自由と比べて信教の自由はより重要だから規制は正当化されないと言われるかもしれないが、これは単に問題を言い換えているだけで説明になっていない。

 

研究はリスクが相対的に低くても厳しく規制すべきである(研究例外論: Research Exceptionalism) Wilson & Hunter (2010)

https://www.tandfonline.com/doi/abs/10.1080/15265161.2010.482630

  • James Wilson & David Hunter (2010). Research Exceptionalism. American Journal of Bioethics. 10(8), 45–54.

 科学研究にはリスクがつきものであり、それに対処すべく規制の体制が様々に整えられてきた。しかし、研究以外のリスクある活動と比較した時、研究に対する規制はかなり厳しいものになっている。例えば、報道機関によるインタビュー、リアリティショー、危険なスポーツ、政府の行動などは、大きなリスク伴うにもかかわらず、研究ほど厳しくは規制されていない。
 
 この乖離について、「研究はリスクが相対的に高くない場合でも厳しい規制に値する」とする見解を、「研究例外論」(Research Exceptionalism)と呼ぼう。研究例外論を支持するこれまでの議論には主に6種類のものがある。しかしそれらはどれもうまくいっていない。

  • (1) 実践的問題
    • 主張:各種宣言やジャーナル、ファンドなどが現に研究に対する規制を求めている
    • 問題点:現状の規制は不当かもしれない
  • (2) 濫用の歴史
    • 主張:ナチスの医学研究からより目立たないものまで、研究は濫用されてきた歴史がある
    • 問題点:濫用は研究固有の問題ではない / 規制によって濫用が防げるとは限らない
  • (3) 参加者への危害
    • 主張:研究は参加者にとってリスクが非常に高い場合がある
    • 問題点:研究固有の問題ではない
  • (4) 研究手続きの難解さ
    • 主張:研究の場合、参加者はリスクをきちんと理解しないまま参加している公算が高い
    • 問題点:研究固有の問題ではない(例えば多くの公的書類の細則は研究の説明同様難解である)
  • (5) 不当な勧誘(undue inducement)
    • 主張:研究参加の報酬が、参加者の合理的判断を妨げうる
    • 問題点:勧誘が非倫理的か否かは不明瞭である / 研究固有の問題ではない
  • (6) 搾取
    • 主張:研究参加の報酬は、搾取的でありうる(Ashcroft 2001)
    • 問題点:研究固有の問題ではない


こうした既存の議論に比べ、次の3つの議論はより説得的に研究例外論を正当化すると考えられる。

  • (a) リスクを背負う当人に利益がない

 研究の目的は知識を得ることであって、参加者を益することではない。つまりここでは、リスクを背負う人と利益を得る人が異なっている。加えて、研究手続きの難解さにより、参加者はリスクを十分コントロールできていないと考えられる。この2要因のコンビネーションは、研究固有とまでは言えないが、研究の十分特徴的な性質であり、研究例外論を正当化する少なくとも部分的な根拠になるだろう。

  • (b) 公的信頼

 研究は人々の信頼のもとに成り立っており、特に金銭・人的資源の点で大きく負っている。研究への規制は、少なくとも顕著な研究濫用を防ぎ、また問題が発生した際に修復的役割を果たすことで、研究への公的信頼を促進するだろう。

  • (c) 倫理的判断の複雑性

 研究者には研究者の職業倫理があり、研究参加者に対する義務がある。しかしそれがどのようなものかを決定するのは、2重に複雑である。まず、研究の根本的な特徴の一つは不確実性であり、研究がもたらしうる利益・危害の可能性をあらかじめ評価することは難しい。さらに、多種多様な倫理的価値に気づきまた重みづけるのも容易なことではない。すると、研究者が職業倫理を果たすためには、倫理委員会のような専門家集団が媒介となる必要がある。

研究における被験者の搾取 Ashcroft (2001)

www.ingentaconnect.com

  • Richard E. Ashcroft (2001). Money, Consent, and Exploitation in Research. American Journal of Bioethics. 1(2), 62–63.

 Christine Grady (2001) は、被験者に報酬を支払ってもインフォームドコンセントは損なわれないと論じた。これは確かに正しいが、研究に対する経済的誘導が持つ真の問題は別のところにある。それは搾取である。

 今日、実験実施者と参加者のあいだには契約の自由が存在しておらず、倫理委員会の審査を介することになっている。この仕組みの正当性の一部も、搾取の問題にかかっている。

 ここで、「搾取」の2つの形態を区別しよう。

  • (a) ある人の(相対的な)貧困状態を利用して、自発的にはしないはずのことをさせる
  • (b) ある人の(相対的な)貧困状態を利用して、「公平な金額」以下の金額を受け入れさせる 

 このうち (b) は、報酬支払いに対する強力な反論となりうる。被験者の背負うリスクが報酬の金銭的価値とり釣り合っているか否かは真剣に考慮されるべき事柄であり、規制当局は実験参加者を搾取から守らなければならない。

道徳主義者は道徳共同体を破壊する Archer (2017)

https://onlinelibrary.wiley.com/doi/full/10.1111/rati.12168

  • Alfred Archer (2017) The Problem with Moralism. Ratio, 31(3), pp. 342–350.

 道徳主義(Moralism)には大きく2つの特徴が指摘されてきた。1点目は他人に対して不寛容・非共感的な道徳判断を下すこと、もう1点は必要ないところで道徳判断を行うことだ。いずれの場合にも、道徳主義者は道徳的批判が適切である範囲を過剰に拡大している

 こうした不適当な道徳的批判は様々な場合に生じうる。(i)超義務的な行為を要求する場合、(ii)道徳と無関係な行為を道徳的に要求する場合〔過剰な道徳化〕、(iii)悪い行為をしたが弁解(excuse)の余地がある人を批判する場合、さらに、(iv)悪い行為をしており弁解の余地もない人に対する批判だがその厳しさが行為の悪さと釣り合っていない場合、などである。

 こうした不適切な道徳的批判は何が問題なのだろうか。そもそも、適切な道徳的批判は、他人の行為から自分たちを防衛する機能を持つ点に価値がある。しかし道徳主義は、以下のような形でその働きを低減させてしまう。道徳主義者は過剰な道徳的要求を行うが、道徳的要求の強さと要求の動機付けの力はトレードオフの関係にある。道徳的要求が厳しすぎると、誰もそれに従っていない状態が発生し、別に従わなくてもよいという意識を生む。このように、道徳的批判が常態化することで、適切な批判を含む批判全般に対する感受性が鈍り、さらには批判全般に対する反感も増強されてしまう。道徳主義者は、その批判相手に危害を及ぼすだけでなく、間接的に道徳共同体全体に危害を及ぼすのだ。

道徳主義と道徳 Fullinwider (2005)

https://www.jstor.org/stable/24354874

  • Robert K. Fullinwider (2005) On Moralism. Journal of Applied Philosophy, 22 (2), pp. 105–120.

 ディケンズの『マーティン・チャズルウィット』に登場するペックスニフをモデルにすると、「道徳主義者」(Moralist)は次のように特徴付けられる。

  • 公然と道徳的判断を行う
  • それを行う資格(prerogative)があると思いこんでいる
  • 判断の背後には、自分は清廉潔白だという強い意識がある
  • 他人に下した非難を自分自身には当てはめない(偽善)

 道徳主義者はまずもって「裁きたがり」(judgementalism)なのだ。なぜ裁きたがりは良くないのか。一つには、他人を不当に悪く扱うことにつながるからだ。他人の文脈や動機を理解するのは難しいので、他人を判断する時には十分に慎重でなければならない。

 だが、こうした認識論的な問題が話の全てではない。仮に判断が明らかに正しい場合であっても、それを公然と言いふらしていいかどうかは別問題である。一般に、道徳は自分には厳しく他人には寛容であることを求める(Kant, Butler, Allestree)。前者の目的は暗黙の判断でも達成できるものであり、また公然とした道徳判断は両方の目的に反する。

 もちろん個別の事例では、様々な理由から公然とした判断をする資格(office)が発生する時もある。しかしその場合でも細心の注意が求められるし、また往々にしてそうした資格は様々な役割や関係性から生じる限定的なものである(例えば親は子に対しては公然と道徳判断する資格があるかもしれない)。しかし道徳主義者はこうした細心さや資格をもっていない。

 判断の「資格」に注目すると、相対主義に関するよくある混乱が見えてくる。学生が相対主義的なこと(「その人にとって正しいなら正しいんじゃないですか?」)を言い出すとき、哲学者はそれを道徳判断の客観性というメタ倫理的問題として捉えがちである。しかしよくよく聴いてみれば、問題とされているのは、人は他人について判断を下す立場(standing)にあるのか、という点であることが多い。実際、1990年代を通じて行われた社会学者Alan Wolfeの調査によれば、アメリカの多くの人々は自分に対する道徳判断を他人に適用しない傾向を持つ。これは、上述のような道徳の一般的要求に沿ったものである。ただし、この傾向はあるいは、他人の行為について一切の評価をしたがらない無気力さの表れかもしれない。その場合には問題がある。他人の行動を訂正し導くことが求められる立場というのは確かに存在しているからだ。

 立場の問題に注目することは、道徳主義と道徳を混同しないためにも重要である。例えば、偽善的である道徳主義者は、他人を道徳的に非難する立場にないかもしれない。しかしそのことと、非難自体が正しいかどうかは別問題である。

 もちろんこの指摘は、道徳主義と道徳を区別できるという前提に立っている。しかしニーチェやデリダは、道徳そのものが偽善的・二枚舌的なのだと論じている。というのも、道徳は実際には存在しない普遍性を標榜し、暴力によって個別事例を一般法則に従属させるからだ。しかし、一般的な道徳法則を個別事例に当てはめることが暴力的だという批判は、そうした当てはめが〔本来の〕道徳的価値を反映していないということや、人にはそうした価値を尊重する義務があるということを前提としており、かえって道徳の存在を認めている。この種の議論は、よく考えずに無責任に道徳判断をすること、つまり道徳主義に対する反論にしかなっていないのである。

人を殺すことは悪くない。まったく何もできない状態にするのが悪い Sinnott-Armstrong & Miller (2013)

jme.bmj.com

  • Walter Sinnott-Armstrong & Franklin G. Miller (2013), “What Makes Killing Wrong,” Journal of Medical Ethics, 39, 3–7.
  • 問題
    • AがBを銃で撃って殺した時、なぜAの行為は悪いのか?
      • AはBに危害を加えた(harm)からだ。しかし、どういうタイプの危害なのか。
      • 「死」 or 「全面無能力」(Total Disability: あらゆる行為能力を不可逆的に失った状態のこと)
        • 死は全面無能力を含意するが、逆は成り立たない。


  • 著者の見解
    • Aの悪さは、全面無能力によって完全に説明される。
      • 全面無能力状態にあるほうが、死よりマシ(better off)だなんてことがあるのか?
        • いや、ない(直観的に考えて)
        • ※全面無能力の人は、経験は持つが、それは苦でも快でもないものする
    • この立場の利点:道徳を単純化
      • 殺しを禁じる規則+無能力化を禁じる規則 → 無能力化を禁じる規則


  • 反論と応答
    • 反論タイプA:殺しを禁じる規則を擁護するもの。全面無能力状態のBでも、殺すのは悪い。なぜなら....
      • (A-1) 帰結ではなく、Aの意図の方に焦点を当てるべきだから
        • (応答) それでも状況は変わらない。Bを無能力にしようという意図だけで、殺しの悪さを説明するのに十分である。
      • (A-2) Bを殺すことは、他の人(友人など)に危害を加えることになるから
        • 応答:友人がBの死をより悪いものだと思うか、自明ではない。また、仮にそう思ったとしても、それは死そのものが原因ではないかもしれない。
      • (A-3) 殺しを禁じてきた道徳や宗教の伝統を尊重すべきだから
        • 応答
          • (i) 伝統的なルールは単純化されたものだったのかもしれない(医療技術が発達するまで、殺さずに人を全面無能力化することはほぼ不可能だったので)
          • (ii) どの伝統も、全ての生物を殺すことは禁じていない。人間を殺すことを禁じている。しかしこれは、人間の能力こそが重要だということだ。
          • (ii) 世俗的な道徳理論を好む人にはこの反論は無力である。


    • 反論タイプB:無能力化を禁じる規則を退けるもの
      • (B-1) この規則は、障害を持つ人に対する否定的なステレオタイプを強化する
        • 応答: この規則がそうしたネガティヴな評価を含意するということはない。障害を持つ人は全面無能力者ではなく、価値ある能力を持っているからだ。
          • それどころかこの規則は、能力が失われている人に対する様々な支援を正当化するものであり、障害を持つ人をかえって助ける。
      • (B-2) この規則は不平等な帰結を持つ。人の能力に応じて、殺人の悪さが変わることになるからだ。
        • 応答:いくつかの対処方法がある
          • (i) 閾値を定め、一定以上の能力の差異は問題にならないとする
          • (ii) 正義や公正といった別種の価値に訴えたり、残っている能力の価値に訴え、不平等を上書きする
          • (iii)帰結を受け入れ、しかしそれは問題ではないと論じる。
          • (iv)またそもそも、同じ問題は別の(2種の規則を認める)立場にも生じる
            • なぜなら、その立場も無能力化を禁じる規則を含むので。
            • さらに、殺しを禁じる規則にも、同じような不平等の問題があるかもしれない。
              • 殺しの悪さが人生を縮めるところにあるなら、被害者の年齢に応じて殺人の悪さが変わる


  • 応用
    • 伝統的な医療倫理には、生命維持に必要な臓器の臓器提供にかんして不整合がある。
      • 医師は、患者を絶対に殺してはならないことになっている。しかし臓器提供の現場では、医師はドナーを殺している。
        • この不整合を取り除くために、伝統的には「死」の定義を変え、殺していないことにする試みがなされてた
          • しかしそれはうまくいっていない(Miller & Truog 2012)
    • 他方で著者らの見解はこの不整合を取り除ける。
      • そもそも、ドナーを殺すことは悪くない。
        • なぜなら、現状、ドナーは脳死患者などすでに全面無能力状態の人だからだ。
      • ドナーを全面無能力者に限定すれば、積極的安楽死、自己犠牲的臓器提供その他の「滑りやすい坂」事例に対しても明確な基準で対処できる