https://www.jstor.org/stable/24354874
- Robert K. Fullinwider (2005) On Moralism. Journal of Applied Philosophy, 22 (2), pp. 105–120.
ディケンズの『マーティン・チャズルウィット』に登場するペックスニフをモデルにすると、「道徳主義者」(Moralist)は次のように特徴付けられる。
- 公然と道徳的判断を行う
- それを行う資格(prerogative)があると思いこんでいる
- 判断の背後には、自分は清廉潔白だという強い意識がある
- 他人に下した非難を自分自身には当てはめない(偽善)
道徳主義者はまずもって「裁きたがり」(judgementalism)なのだ。なぜ裁きたがりは良くないのか。一つには、他人を不当に悪く扱うことにつながるからだ。他人の文脈や動機を理解するのは難しいので、他人を判断する時には十分に慎重でなければならない。
だが、こうした認識論的な問題が話の全てではない。仮に判断が明らかに正しい場合であっても、それを公然と言いふらしていいかどうかは別問題である。一般に、道徳は自分には厳しく他人には寛容であることを求める(Kant, Butler, Allestree)。前者の目的は暗黙の判断でも達成できるものであり、また公然とした道徳判断は両方の目的に反する。
もちろん個別の事例では、様々な理由から公然とした判断をする資格(office)が発生する時もある。しかしその場合でも細心の注意が求められるし、また往々にしてそうした資格は様々な役割や関係性から生じる限定的なものである(例えば親は子に対しては公然と道徳判断する資格があるかもしれない)。しかし道徳主義者はこうした細心さや資格をもっていない。
判断の「資格」に注目すると、相対主義に関するよくある混乱が見えてくる。学生が相対主義的なこと(「その人にとって正しいなら正しいんじゃないですか?」)を言い出すとき、哲学者はそれを道徳判断の客観性というメタ倫理的問題として捉えがちである。しかしよくよく聴いてみれば、問題とされているのは、人は他人について判断を下す立場(standing)にあるのか、という点であることが多い。実際、1990年代を通じて行われた社会学者Alan Wolfeの調査によれば、アメリカの多くの人々は自分に対する道徳判断を他人に適用しない傾向を持つ。これは、上述のような道徳の一般的要求に沿ったものである。ただし、この傾向はあるいは、他人の行為について一切の評価をしたがらない無気力さの表れかもしれない。その場合には問題がある。他人の行動を訂正し導くことが求められる立場というのは確かに存在しているからだ。
立場の問題に注目することは、道徳主義と道徳を混同しないためにも重要である。例えば、偽善的である道徳主義者は、他人を道徳的に非難する立場にないかもしれない。しかしそのことと、非難自体が正しいかどうかは別問題である。
もちろんこの指摘は、道徳主義と道徳を区別できるという前提に立っている。しかしニーチェやデリダは、道徳そのものが偽善的・二枚舌的なのだと論じている。というのも、道徳は実際には存在しない普遍性を標榜し、暴力によって個別事例を一般法則に従属させるからだ。しかし、一般的な道徳法則を個別事例に当てはめることが暴力的だという批判は、そうした当てはめが〔本来の〕道徳的価値を反映していないということや、人にはそうした価値を尊重する義務があるということを前提としており、かえって道徳の存在を認めている。この種の議論は、よく考えずに無責任に道徳判断をすること、つまり道徳主義に対する反論にしかなっていないのである。