えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

道具的欲求はない Smith (2004)

https://www.jstor.org/stable/4106948

  • Michael Smith (2004). Instrumental Desires Instrumental Rationality. Proceedings of the Aristotelian Society, Supplementary Volumes, 78: 93-109.
    • II

道具的欲求とは、非道具的欲求および手段目的に関する信念によって説明されるような、独立の存在者ではない。むしろそれは単に、適切に関連した非道具的欲求と手段目的信念を持っているという、複合的な状態である

 道具的欲求は、関連する非道具的欲求/手段目的信念が失われると消える。しかしこのことは、非道具的欲求と手段目的信念が道具的欲求を引き起こす、と考えた場合には説明がつかない。そこで、非道具的欲求とは、道具的欲求と手段目的信念に他ならない(be nothing over and above)と考えたほうが良い。しかし人は、非道具的欲求と手段目的信念をもちながら、対応する道具的欲求を獲得しない場合がある(例:健康になりたいと欲し、運動すれば健康になれると信じながら、一向に運動しようと欲しない)。そこで、道具的欲求を構成する非道具的欲求と手段目的信念は、適切に関係しあっている必要がある。

 非道具的欲求と手段目的信念があるなら、関連する道具的欲求を帰属させるべきだという人もいるかもしれない。しかし、欲求と信念は様々な出力をもつ傾向性であり、それぞれの要因の重み付けられた和が〔一定の閾値を超えたとき〕当の状態の帰属がおこる。そこで、非道具的欲求と手段目的信念を帰属させつつ関連する道具的欲求を帰属させないという余地は十分にある。

バトラーの議論をもとにした心理的快楽主義論駁 Nilsson (2013)

https://link.springer.com/article/10.1007%2Fs11406-012-9411-4

  • Peter Nilsson (2013). Butler’s Stone and Ultimate Psychological Hedonism. Philosophia, 41 (2): 545-553.

 近年、バトラーの心理的快楽主義批判の妥当性が疑われている(Stewart 1992; Sober 1992: Sober and Wilson 1998)。しかしこれは、バトラーが論的にしていた快楽主義と、近年の解釈者が問題にしている快楽主義(究極的快楽主義)が異なっているという事情に由来する(Zellner 1999)。近年問題の究極的快楽主義とは、人間の究極欲求には快を得て苦を避けようとするものしかない、とする説だ。バトラーはこの説に反論していると解釈したSoberとWilson(SW)は、その議論を次のように整理した(278)。

  • 1. 人は快を経験する時がある
  • 2. 人が快を経験するのは、人が何か外的な対象への欲求を持っており、かつそれが充足されたからだ。
  • 従って、快楽主義は誤りである。

 SWはこの議論の問題点を2つ指摘する。まず、前提2は偽である。化学的に快が引き起こされる場合などもあるからだ。また仮に前提1と2が正しくても、論証が妥当ではない。1と2からは、人は外的対象への欲求を持つことがある、が帰結する。しかしこの欲求が究極的だとまで言わなければ、究極快楽主義は論駁できない。

 しかしバトラーの議論の目標は、究極快楽主義ではなく「還元快楽主義」と呼ぶべき説であった。この説は、あらゆる外的対象への欲求を、自愛および快への欲求に還元できるとする説であり、具体的にはエピクロス主義者、ホッブズ、ラロシュフコーなどが挙げられていた。バトラーの論敵は、そもそも外的対象への欲求は存在しない、ないし、それは本当は快楽への欲求に過ぎない、とする説だったのだ。そして上記の議論の結論は、人は外的対象への欲求を持つことがあることを示しているのだから、還元快楽主義の論駁には成功している。

 究極快楽主義の論駁という文脈にもどると、ここで問題となるのは、外的対象への欲求が常に道具的欲求にすぎないと考えるのが理にかなっているかどうかだ。ところで、S&Mの説明によると、人SがMへの欲求を、単にEへの手段として持つとは、次のようなことだ(217)。

  • (a) SがMへの欲求を持っている
  • (b) SがEへの欲求を持っている
  • (c) SがMへの欲求を持っているのは、Mの獲得がEの獲得を促進するとSが信じているからだ

 このうち特に問題となるのは(c)だ。見返りとなるEがとくにないのに(例えば)他人の幸福のために行為する事例は実在するからだ。このとき利己主義者は、Eは内的なもの(欲求充足から生じる快など)であってもよいと返す。「私たちは他人の幸福を対象とする欲求を持っているのは、他人の幸福を対象とする欲求が充足されることで、快を対象とする究極欲求の充足が促進されると、私たちは信じているからだ」。このとき、利己主義には二つの主張が含まれている。

  • (i) 他者志向の欲求をもつものは、外的な利益が見込まれない場合、その欲求の充足が自分の快楽につながると信じている。
  • (ii) 他者志向の欲求をもつものが、外的な利益が見込まれない場合、その欲求を持っているのは、次の理由による。すなわちその人は、その欲求を持ち充足させることで、快楽が得られると信じている。

 (i)は誤りである。そのような信念を持っていない人はたくさんいる。さらに小さい子供は、欲求充足が快につながるという信念を形成できないが、親類の幸福を欲することができる。

 また、(ii)にも問題がある。まず(ii)には二つの読み方がある。

  • (ii-a) 人は、充足が快につながるという信念をもとにして、他者志向の欲求を持つことを選ぶ
  • (ii-b) 充足が快につながるという信念(のみ)が、他者志向の欲求を欲求を生じさせる

 (ii-a) には次のような問題がある。他人の幸福を対象とする欲求はなかなか充足されないし、また充足のための行動にもリスクが伴う。欲求充足から生じる快だけが問題なら、もっと簡単に充足される欲求(昼の後に夜が来ることを欲するなど)が選ばれるはずだ。この批判をかわすには、他者志向欲求の充足から得られる快は他の欲求の充足よりも大きいという信念が人にあればよい。しかし、人がなぜこのような信念を形成しなければならない全く不明である。もちろん、人がその他の事物よりも他人に大きな関心を持っている場合は別であるが、これを認めるとその人は他人志向の欲求をすでに持っていることになる〔これが道具的であれば循環し、究極的であれば矛盾する〕。

 次にもし (ii-b) が正しければ、私たちは充足が快につながると信じている数多の欲求を実際に持っていなければならないはずだが、実際にはそうなっていない。

 従って、すべての他者志向欲求がS&Wの意味で道具的だとは考え難い。すべての欲求は道具的か究極的かのどちらかだとすれば、いくつかの他者志向欲求は究極的であり、究極快楽主義は誤りである。

バトラーの心理的快楽主義論駁の問題点 Sober (1992)

https://www.jstor.org/stable/2381497

  • Elliott Sober (1992). Hedonism and Butler's Stone. Ethics, 103(1): 97-103.

 ジョセフ・バトラーの快楽主義に対する反論は次のように整理できる。

  • 1: 食べ物のように外的な事物が快楽を引き起こす(ことがある)
  • 2: 外的な事物が快楽を引き起こすのは、その事物に対する欲求がある場合に限る
  • 3: 従って、人が外的な事物から快を受け取るとき、人はその外的な事物を欲してる

バトラーはさらに次の結論も主張している

  • 4: 外的な事物から生じる快を対象とする欲求は存在しない

4は心理的快楽主義と非両立な主張だが、1-3からは出てこない。

 さらに、1と2から3への推論が健全で妥当だとしても、3は心理的快楽主義を論駁していない。1-3が言うように、快は(例えば)食べ物への欲求によって引き起こされるとしよう。しかしここで、なぜ食べ物を欲するのかをさらに問うことができる。そしてその理由は、食べ物が快を与えてくれるからかもしれない。このように、外的事物への欲求が常に快への欲求にさかのぼれるなら、快楽主義は真である。快楽主義は、還元不可能な関心についての説であり、手段的関心についての説ではないのだ。

強化快楽主義 Garson (2016)

https://www.sciencedirect.com/science/article/pii/S1369848615001612?via%3Dihub

  • Justin Garson (2016). Two types of psychological Hedonism. Studies in History and Philosophy of Science Part C: Studies in History and Philosophy of Biological and Biomedical Sciences, 56, 7-14.

 欲求の内容に関する従来の快楽主義(I-快楽主義: InferenceのI)と区別し、「行為者の認知的生活のなかで欲求が強化されるメカニズム」〔=欲求維持のメカニズム〕に関する快楽主義を提案。これをR-快楽主義と呼ぶ(ReinforcementのR)。

【R-快楽主義】
 究極欲求Dが〔行為者〕Aの認知システム内で維持/強化されるのは、Dが快と結びついているという事実による。快と「結びついている」というのは二つの異なる意味をもつ。第一に、Dの充足が(規則的に、典型的に、ないし無視できない程度に)快を生じさせるか、それを構成する。第二に、単にDの充足を享受する(entertain)ことのみから、Aは快を得ることができる。(p. 7)

 R-快楽主義は、Anthony Dickinsonの「快楽インターフェース理論」(HIT)によって支持されている。Dickinsonによれば、人間の行動は生物としてのニーズに基づいた刺激反応的メカニズムと、志向的メカニズムの両方に支配されている。ときに相反するこの二者を調停するシステムが、快と苦である。快と苦は、欲求(wants)が生物としてのニーズに応えているか否かに基づき、その強化や消去をもたらすメカニズムの一部である。快苦の生物学的機能とは、「私たちが表象的な目標においている価値を調節して、志向的心理を刺激-反応心理に揃えてやること」だ。生物は快楽を欲求しているのではなく、食物や水などを欲求しているが、そうした欲求が快と連合しているならそれは強化され、苦と連合しているならそれは消去される。
 またR-快楽主義には、快楽主義的直観と反快楽主義的直観の両方をとらえているというポイントもある。

客観的リスト説と疎外の問題 Fletcher (2016)

The Routledge Handbook of Philosophy of Well-Being (Routledge Handbooks in Philosophy)

The Routledge Handbook of Philosophy of Well-Being (Routledge Handbooks in Philosophy)

  • Guy Fletcher (2016). Objective list theories. In G. Fletcher (ed.), The Routledge Handbook of Philosophy of Well-Being. Routledge: 148-160.

 典型的な客観的リスト説は善の「態度独立性」と「多元主義」という2つの特徴を持つ。ただし、リストの項目が一つということもありうるため(快楽主義はここに分類されることがある)、態度独立性のみをこの説の基準として使うほうが良い。「「客観的リスト説」とは、人にとっての非道具的かつ賢慮的(prudential)な善として一定の事物を指定する際、その人がその事物になんらかの賛成(反対)の態度をとっているかどうかを考慮しない全ての説のことである」(151)。

 客観的リスト説を支持する議論はいくつかある。まず、この説は常識と合致している。次に、快楽説では少なすぎ、欲求充足説では多くなりすぎな、善の種類という問題を回避することができる。また、リストの各項目について個別にそれが客観的善であることを論証していくこともできるし、幸福の本性にかんする議論から客観的リスト説を帰結させる方法もある。

 客観的リスト説に対する反論としては、まず恣意的だという批判がある。この批判は、一方では、「なぜその項目が善なのか」という批判だと考えることができる。注意すべきなのは、この批判は幸福にかんする全ての説に当てはまるという点だ(「なぜ快は善なのか」「なぜ欲求充足は善なのか」)(ただし、客観的リスト説が多元的である場合、説明しなければならない項目が多いという問題はある)。また、恣意的であるという批判は、「リストにある項目の共通点をが示されていない」という批判だと解することもできる。この批判に対しては、共通点を示す必要性に反対するか、実際に共通点を示すことで答えられる。さらに、各項目間の相対的重要性が示されていないという批判もあるが、これも同じ批判は快楽説や欲求充足説にもあてはまる。このように、たしかに恣意性の批判には答えなければならないが、それはおおむね客観的リスト説だけの問題ではないといえる。

 客観的リスト説はパターナリスティックだと批判されることもあるが、それは誤っている。そもそも幸福にかんするあらゆる説は、〔幸福とは何かを説明するものであり、〕その幸福を持たなければならないと主張するわけではないからだ。他方で、客観的リスト説は十分に主体可感的ではない、すなわち疎外的だという批判はより重要だ。この疎外直観は、幸福は当人の感情や意思に可感的でなくてはならないという批判だと解することができる。この批判は、確かに一部の客観的リスト説には当てはまる。しかし、感情や意思によって構成される事象(友情、快など)のみをリストの項目として採用することで、批判を避けることができる(「構成戦略」 constitutive strategy)。しかし、これではまだ疎外を回避できていないという批判がありうる。このとき元の疎外直観は、幸福とは当人が肯定的態度を向けるものでなくてはならないという批判だと解することができる(「対象戦略」object strategyの要求)。ただし、これは客観的リスト説に対して論点先取に当たっている。

全ての楽しい経験の共通要素にかんする確定可能-確定的区別による分析 Crisp (2006)  

Reasons and the Good

Reasons and the Good

  • Roger Crisp (2006). Reasons and the Good. Oxford. Oxford University Press.

pp. 109–110

 楽しさ(享楽: enjoyment)は異種混交的だと考える人が、楽しい経験の中に何らかの特殊な感覚、たとえば甘さとか、針が刺さった痛みのような体の一部に局在した感覚、あるいは赤さのような知覚的な質、といったものに近いものを探しているのだとしたら、確かにそのようなものはない。しかし、楽しい経験が感じられる仕方というものは実際ある。すなわち、楽しさを経験するとはこういうことだと言えるようなものはあり、それは色の経験を持つとはこういうことだと言えるようなものがあるのと同じである。そして色との類比で言えば、特定の色の経験を持つとはこういうことだと言えるようなものがあるのと同じように、特定の種類の楽しさ(あるいは身体的な楽しさや、小説を読む楽しさなど)を経験するとはこういうことだと言えるようなものがある。つまり楽しさとは、確定可能-確定的区別によってこそよく理解できるものなのである。〔様々な楽しさには共通要素が存在しないという〕異種混交論証は、確定的なものしか考慮していない点で誤っている。たしかに、楽しい経験というのは互いに異なっており、〔共通要素を経験外に求めようとする外在主義者たちが指摘するように〕それらはだいたい喜ばしいものであり、主体によって歓迎され、好まれ、さらには欲求されたりもするだろう。しかし、すべての外在主義的理論が見逃しているが、楽しい経験には、それがいい感じ(feeling good)であるという一定の共通の質があるのだ。確定可能-確定的区別はまた、以上の分析の中で「感じ」(feeling)が果たす役割を明確化してくれる。すなわち、いい感じ(feeling good)とは確定可能者であり、何らかの特定の種類の確定的な感じではない。

 楽しさには、混乱をもたらすさらなる特徴がある。楽しさを経験するとはこういうことだと言えるようなものがあるという意味で、楽しさは一つの「クオリア」なのだが、楽しさはふつう、ある意味で、二階の存在あるいは志向的なものだと考えられている。というのも楽しさは通常、経験の「一階」の性質のなかに見出されるものだからだ。たとえば、火の暖かさや、マンゴーの味、ジェーン・オースティンのウィットのなかに、楽しさは感じられる。アリストテレスも言っていたように、楽しさとは「一種の付随的な目的であり、若者の顔に美しさが付随するようなものだ」〔NE, 1174b32–33〕。ここから、楽しさについて純粋に「志向的な」説明を与えたくなってしまうかもしれない。なるほどたしかに、たとえば〔楽しいを動詞として対象をとる形で用い〕「私は気球旅行を楽しむ」と言うことにおかしな点は何もない。しかしこの発言は、「私は、気球旅行から楽しさを得る傾向を持った人物である」と明確化することは可能である。そして快楽主義者にとっては、〔ここで名詞として現れる〕楽しさだけが問題なのである。

快楽説と客観的リスト説に本質的な違いはない Fletcher (2013)

https://www.cambridge.org/core/journals/utilitas/article/fresh-start-for-the-objectivelist-theory-of-wellbeing/FEBC85BA9E26F0CF5E6855797CD96D78

  • Guy Fletcher (2013). A fresh start for the objective-list theory of well-being. Utilitas, 25 (2): 206–220.

 Crisp (2006) は、幸福の理論にかんして「列挙的/説明的」の区別を導入した。幸福を構成する事態を列挙するのが列挙的幸福理論であり、さらに一定の事態がなぜ良いのかを説明するのが説明的幸福理論である。この区別を使うと、いわゆる快楽説と客観的リスト説は列挙的な幸福理論に、欲求充足説は説明的な幸福理論にあたる。

快楽説と客観リスト説に本質的な違いはない

 さて、快楽説と客観的リスト説には、じつは本質的な違いはない。むしろ、快一元論的な列挙的幸福理論が快楽説であり、その他全ての列挙的幸福理論が「客観的リスト説」と呼ばれていると考えるべきだ。

 たしかに一般には、快楽説と客観的リスト説は、幸福の「態度依存性」の点で見解を異にすると考えられている。

  • 態度依存性1(AD1)

人がXに対して賛成的態度を向けない限り、Xはその人にとっての善ではありえない

 客観的リスト説はAD1を満たさない。リストの中に「知識」しかない客観リスト説を例にとろう。この説によれば、当人が知識をもつことに賛成していようといまいと、知識はその人の幸福に寄与する。だが、同じことは実は快楽説にも当てはまる。快楽説は、ある人が禁欲主義者で快楽に否定的な態度を持っていようとも、快楽がその人の幸福に寄与すると言うからだ。

 なお、快楽主義に「快楽の欲求説」を組み合わせても、AD1は満たされない。快楽の欲求説は、(i)ある感覚Sについて、Sへの欲求があるなら、それは快楽だ、と規定するか、(ii)快楽はSとSへの欲求で構成されると主張する。しかし〔快楽の欲求説は、快楽が快楽であるための条件として欲求を要求しているにすぎず、快楽が善であるための条件として欲求を要求する(=AD1)わけではない。〕快楽が善であるために、快楽(ここではS+Sへの欲求)に対する賛成的態度(ここでは2階の欲求に相当)はあいかわらず必要ではない。

 ここで、態度依存性を次のように解釈することもできる。

  • 態度依存性2(AD2)

人が何らかの善(X)を持つかどうかは、その人の賛成的態度に依存する

 快楽の欲求説+快楽説は、AD2を満たす。快楽は善であり、快楽は賛成的態度によって構成されているのだから、善はもちろん賛成的態度に依存している。しかしAD2は、客観的リスト説でも満たせてしまう。リストの中に「友情」しかない客観的リスト説を例にとろう。このとき、友情は善だが、友情は賛成的態度によって部分的に構成されているので、善は賛成的態度に依存しているのだ。

 このように、快楽説と客観的リスト説を態度依存性の点で区別することはできない。

新たな列挙的幸福理論

 したがって幸福理論の真の争点は、列挙的理論か説明的理論かという部分にある。著者フレッチャーは多元的で列挙的な幸福理論を展開する道を選び、具体的にはつぎのものを挙げる。

達成、友情、幸福感、快楽、自尊、徳

 この説のポイントは、説明的理論の代表例である欲求充足説の主要なモチベーションを引き受けられる点にある。すなわち、疎外を防ぐという点だ。「人がいかなる仕方でも肩入れ(engagement)できないものがその人にとっての善だと想定するのは、あまりに疎外された考え方であり維持できない」(Railton, 'Facts and Values')。たしかに、疎外を避けよというのはまっとうな条件である。

 しかし欲求充足説は疎外を防ぐために、欲求に対して欲求された事物を善にする無制限の役割を与えてしまった。このせいで、あまりに多くのものが善になってしまうというスコープの問題を抱えることになった。他方でフレッチャーの説では、リストの各項目が賛成的態度によって部分的に構成されるにとどまっている〔つまり、疎外を防ぐために、欲求充足説はAD1の意味で賛成的態度が必要であると言い、フレッチャーの説はAD2の意味でよいとしている〕。これによりフレッチャーの説は、疎外を防ぎつつ、さらにスコープの問題を回避できる。

 今あげた6項目が恣意的だという批判があるかもしれない。しかしこれが「なぜその6つが幸福に寄与するのかの説明がない」という意味ならば、同じ問題はすべての幸福理論に当てはまる。快楽説も欲求充足説も、なぜ快楽や欲求充足が幸福に寄与するのかに実質的な回答を与えられない。他方で、項目が多い・少ないという批判もありうる。これは重要な批判であり、この点の検討を通じて、よりもっともらしい列挙説が得られるだろう。

 以上より、幸福の理論の分類については、従来の3分説よりも次のようなもののほうが重要である。
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