えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

快楽説と客観的リスト説に本質的な違いはない Fletcher (2013)

https://www.cambridge.org/core/journals/utilitas/article/fresh-start-for-the-objectivelist-theory-of-wellbeing/FEBC85BA9E26F0CF5E6855797CD96D78

  • Guy Fletcher (2013). A fresh start for the objective-list theory of well-being. Utilitas, 25 (2): 206–220.

 Crisp (2006) は、幸福の理論にかんして「列挙的/説明的」の区別を導入した。幸福を構成する事態を列挙するのが列挙的幸福理論であり、さらに一定の事態がなぜ良いのかを説明するのが説明的幸福理論である。この区別を使うと、いわゆる快楽説と客観的リスト説は列挙的な幸福理論に、欲求充足説は説明的な幸福理論にあたる。

快楽説と客観リスト説に本質的な違いはない

 さて、快楽説と客観的リスト説には、じつは本質的な違いはない。むしろ、快一元論的な列挙的幸福理論が快楽説であり、その他全ての列挙的幸福理論が「客観的リスト説」と呼ばれていると考えるべきだ。

 たしかに一般には、快楽説と客観的リスト説は、幸福の「態度依存性」の点で見解を異にすると考えられている。

  • 態度依存性1(AD1)

人がXに対して賛成的態度を向けない限り、Xはその人にとっての善ではありえない

 客観的リスト説はAD1を満たさない。リストの中に「知識」しかない客観リスト説を例にとろう。この説によれば、当人が知識をもつことに賛成していようといまいと、知識はその人の幸福に寄与する。だが、同じことは実は快楽説にも当てはまる。快楽説は、ある人が禁欲主義者で快楽に否定的な態度を持っていようとも、快楽がその人の幸福に寄与すると言うからだ。

 なお、快楽主義に「快楽の欲求説」を組み合わせても、AD1は満たされない。快楽の欲求説は、(i)ある感覚Sについて、Sへの欲求があるなら、それは快楽だ、と規定するか、(ii)快楽はSとSへの欲求で構成されると主張する。しかし〔快楽の欲求説は、快楽が快楽であるための条件として欲求を要求しているにすぎず、快楽が善であるための条件として欲求を要求する(=AD1)わけではない。〕快楽が善であるために、快楽(ここではS+Sへの欲求)に対する賛成的態度(ここでは2階の欲求に相当)はあいかわらず必要ではない。

 ここで、態度依存性を次のように解釈することもできる。

  • 態度依存性2(AD2)

人が何らかの善(X)を持つかどうかは、その人の賛成的態度に依存する

 快楽の欲求説+快楽説は、AD2を満たす。快楽は善であり、快楽は賛成的態度によって構成されているのだから、善はもちろん賛成的態度に依存している。しかしAD2は、客観的リスト説でも満たせてしまう。リストの中に「友情」しかない客観的リスト説を例にとろう。このとき、友情は善だが、友情は賛成的態度によって部分的に構成されているので、善は賛成的態度に依存しているのだ。

 このように、快楽説と客観的リスト説を態度依存性の点で区別することはできない。

新たな列挙的幸福理論

 したがって幸福理論の真の争点は、列挙的理論か説明的理論かという部分にある。著者フレッチャーは多元的で列挙的な幸福理論を展開する道を選び、具体的にはつぎのものを挙げる。

達成、友情、幸福感、快楽、自尊、徳

 この説のポイントは、説明的理論の代表例である欲求充足説の主要なモチベーションを引き受けられる点にある。すなわち、疎外を防ぐという点だ。「人がいかなる仕方でも肩入れ(engagement)できないものがその人にとっての善だと想定するのは、あまりに疎外された考え方であり維持できない」(Railton, 'Facts and Values')。たしかに、疎外を避けよというのはまっとうな条件である。

 しかし欲求充足説は疎外を防ぐために、欲求に対して欲求された事物を善にする無制限の役割を与えてしまった。このせいで、あまりに多くのものが善になってしまうというスコープの問題を抱えることになった。他方でフレッチャーの説では、リストの各項目が賛成的態度によって部分的に構成されるにとどまっている〔つまり、疎外を防ぐために、欲求充足説はAD1の意味で賛成的態度が必要であると言い、フレッチャーの説はAD2の意味でよいとしている〕。これによりフレッチャーの説は、疎外を防ぎつつ、さらにスコープの問題を回避できる。

 今あげた6項目が恣意的だという批判があるかもしれない。しかしこれが「なぜその6つが幸福に寄与するのかの説明がない」という意味ならば、同じ問題はすべての幸福理論に当てはまる。快楽説も欲求充足説も、なぜ快楽や欲求充足が幸福に寄与するのかに実質的な回答を与えられない。他方で、項目が多い・少ないという批判もありうる。これは重要な批判であり、この点の検討を通じて、よりもっともらしい列挙説が得られるだろう。

 以上より、幸福の理論の分類については、従来の3分説よりも次のようなもののほうが重要である。
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