Fred Feldman (2004). Pleasure and the Good Life: Concerning the Nature, Varieties, and Plausibility of Hedonism. New York. NY: Oxford University Press.
[124][125]最初は良いが後に悪くなる人生と、最初は悪いが後に良くなる人生を比較した時、多くの人は後者の方が良いと考えるだろう(Brentano, Chisholm, Lemos, Slote, Velleman, C. I. Lewis, Bigelow, Pargetter, Campbell, Brannmark, et al.)。[126]この「人生のかたち現象」から、重要な要素を抽出してみよう。
[1]人生には、社会的な影響受けつつも、しかしやはり自然ないくつかの段階がある。[2]そして、一定の段階は他の段階より重要だと感じられるものだ。まず、幼少期・青年期の成功や不幸は値引かれる傾向がある。[3]子供時代の扱われ方は、ある意味で夢の扱われ方に似ている。プルーストが指摘したように、人生の現実の善し悪しのなかに夢の中での快苦を算入しようとは、私たちは思わない(起きている時間に影響する場合は除く)。同じように、子供期の成功や失敗が大人になった人生に与える影響も、割り引かれる。この種の常識的判断を、ロールズ他の哲学者は十分考慮できていない。
[4]上記の傾向性を理論化するためには既存の術語では不十分である。たとえば、合理的欲求/不合理な欲求の区別を考えよ。望まない薬物中毒者はたしかに薬物を欲するが、それは不合理な欲求である。〔そのため、その欲求の充足によって当人の善が増加するとは考えがたい。〕これと同じように、少年時代とは不合理な欲求に満ちた時代なのだと考えられるだろうか。[5]これはにわかに信じがたい。[6]望まぬ薬物中毒者は、薬物への渇望を嫌悪し否認するが、私たちが子供時代の欲求に向ける態度はこのようなものではない。私たちが子供時代の欲求に向ける態度はむしろ寛容であり、そうした欲求はその時代には適当なものであったと考える。
[7]そこで、子供時代の欲求の対象は、「子供時代にとっての価値」をもつが、「人生全体の観点からの価値」はない、と言える。これなら、子供時代の成功・失敗に対し「値引きつつ寛容」という態度をうまく説明できる。[8]この「時期相対的な善」(period-relative human goods)と「全体的な善」(overall human goods)の区別は、善を個人だけではなくある時期での個人へと二重に相対化する。[9]同様の時期相対性は、子供時代以外の時代に対する態度の説明にも役立つ。たとえばローマ人は、哲学は若い男子には適しているが十分成人した男には適さないと考えていた。この態度も価値の時期相対性によってよく説明できる。また、老人のゲートボールで勝ちたいという目標に対する私たちの態度も、子供時代の目標に対する態度と同じよう扱える。[10]この手の老人の活動に対して、「ゲートボール好きになってしまった(reduced to)」などと言われる。この「しまった」という表現は欲求の不合理性を意味すると解釈されるかもしれない。だがその必要はない。高齢期はそれ自体で悲痛だとするなら、この表現は当該の人物が下降局面にいることを示しているにすぎないとも考えられる。そして局面にとっては、ゲートボールに勝つことは適当である。[11]他方で、「人生の盛り」(prime)と呼ばれる時期には、人生の中でもっとも重要だと見なされる欲求が多く生じる。むしろ、人生の諸時期という比較的中立的な枠組みの中に、人生には「盛り」があるという私たちの感覚を重ねあわせた結果として、時期相対的善というアイデアが生じるとさえ言えるかもしれない。
多くの人にとって、この手の真理に納得し、良心のささやきに不安になったときの逃げ場とすることは、難しくもないし不快でもないだろう。もちろん、その手の自然の必然性なるものに、真に無私の善人がわざわざ自分の本性を合わせようとすることはないだろうが、邪悪な人々を慰 めるという厄介な偉業を果たす点だけでも、そうした理論は十分非難に値するだろう。 p. 199
[21]なぜ、二重結果説には魅力があるのか。トムソンは、行為の許容可能性の評価と行為者本人の評価の混同によると示唆している。患者を殺そうと思って致死性の痛み止めを投与する医者は、実際その行為が患者にとって良いものであろうとも、やはり悪人(a bad person)である。しかしここから、行為自体が許容不可能だということは[21]帰結しない。この見解には一理あるが、修正が必要である。というのも、「移植」と「薬/移植」事例における医者は、純粋に多くの人を助けたいと思いで行動しており、こうした医者が悪人だとは思われないからだ。従って、トムソンが示唆するように、この事例で行為が不正(wrong)だと思われるのは、その行為が悪い性格を指し示しており、そして私たちは行為と行為者の評価を混同しているからだーーということはなさそうだ。
[24]こうした考えに、二重結果説の支持者は反対するだろう。というのも二重結果説の支持者は、行為者は行為の良さ(goodness of action)に導かれて行為すべきだ〔should〕と考えており、これは許容可能性について異なる説明を与えているように見える。そして、行為の良さを決定するのは意図だとされる。〔他方、スキャンロンの見解では、意図(=適切な考慮事項を適切に考慮したか)は許容可能性にとって重要ではない[*]〕[25]ところで、この対立はどのような性格のものなのだろうか。許容可能性という概念の適用の仕方について争っているのだろうか。それとも、〔スキャンロン側は〕許容可能性、〔反対者は〕行為の良さと、異なる道徳評価カテゴリーを用いているのだろうか。もし後者なら、例えば熟慮のような目的にとって、一方を重要だとする理由には何があるのだろうか〔。序論で言われた通り、この問いには直接は取り組まない〕。