えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

説明的客観的リスト説 Rice (2013)

https://onlinelibrary.wiley.com/doi/full/10.1111/rati.12007

  • Christopher, M. Rice (2013). Defending the objective list theory of well-being. Ratio, 26(2): 196-211.

 Crisp (2006) は、幸福の理論にかんして「列挙的/説明的」(Enumerative/explanatoey)の区別を導入した(pp. 102-103)。幸福を構成する事態を列挙するにとどまるのが列挙的幸福理論であり、さらに一定の事態がなぜ良いのかを説明するのが説明的幸福理論である。この区別を使うと、客観的リスト説は列挙的だと批判されることがある(Scanlon 1998: 123-126)。しかしそれは、説明的な形態をとることもできる。

  • 列挙的客観的リスト説

複数の基本的な客観的善のあらゆる実例が、そしてそれらのみが、非道具的なかたちで人々を益する

  • 説明的客観的リスト説

ある事態が非道具的なかたちで人々を益するのは、まさに次の場合である。すなわちその事態が、複数の基本的な客観的善のうち少なくとも一つの本質的特徴を例化している  

ところで、人々の熟慮的判断はまさに説明的客観的リスト説的であり、反省的均衡によりこの説が支持される

多くの人の判断はこうだ。一定の事態が幸福に貢献するのは、その客観的な特徴によるものであり、自分たちがその事態に対して肯定的な反応的態度を向けているからではない (p. 202)

さて、「説明的客観的リスト説」は、説明的でありながらも、多元主義を維持している。というのは、ある事態が良いことの説明にあたって、幸福を構成する全ての事態に共通の特徴に訴えかけていないからだ。まさにこの点でこの説は「説明的」でないという批判がありうるが、それは論点先取である。
 また一部の哲学者は、事態が客観的に善であることはありえないと考えているが(Railton 1986)、さきほども述べたように人々の熟慮的判断は客観主義的である。
 ところで、具体的に何が基本的客観的善なのかについて、「説明的客観的リスト説」は中立である。しかしこの点がうまらなければ、客観的リスト説は完全なものにはならない。また、統一的特徴がないなら基本的客観的善を見つける原理的方法がないという批判もある。しかし、人々の熟慮的判断を検討すれば、かなり特定された基本的善のリストを得ることができる。たしかに、何が基本的善とされるかは一定程度文化に依存するが、むしろかなりの一致があるという点を強調すべきである。

痛みをイメージできるか? Titchener (1904)

https://www.jstor.org/stable/pdf/2010659.pdf?refreqid=search%3A734804f1ee44a499d621798bbc255cd6

  • Titchener, E. B. (1904). Organic Images. Journal of Philosophy, Psychology and Scientific Methods, 1(2): 36-40.

 多くの心理学者が、全ての感覚について、そのイメージを持つことも可能だと考えている(Sully, Ladd, James, Lay, Stetson, Galton以来の質問紙)。しかしティチナーは、イメージ化可能なのは高次の感覚だけではないかと考えている。

 高次の感覚部門について、私たちは自由なイメージを持つ。この部門においては、イメージが必要なのだ。というのも、会話ないしその他のかたちでのやりとりを継続していくためには、視覚および聴覚的イメージを持たなくてはならない。これらの場合、刺激は「遠くから」作用しており、したがって一時点をとればわずかな部分しか現前していない。こうしたアクチュアルな刺激におけるギャップを埋めるために、イメージは必要不可欠である。他方で、スケールの低次の端のほう、厳密な意味での器官感覚〔Organic Images: 身体の内部に由来する感覚のこと〕の場合には、イメージは必要ない。身体は私たちといつも共にあるのだから、器官感覚は必要とあればただちに刷新、更新、再確立されていく。低次の感覚のイメージをもつことには生物学的な利得がないのだ。だからこそ、例えば視覚については様々な形で自由な想像ができるのに対して、飢えや渇きについては自由に想像することはできない。(p. 37)

感覚のイメージと、感覚の刷新・更新・再確立との区別は、想像力の研究にとって極めて重要である。例えば、語を発するときの「唇の感覚」を例に出して、運動感覚的想像力が存在すると論じる人がいる。しかし、唇の感じは実際の感覚であり、イメージではない。筋肉感覚について自由な想像が可能だと報告する人もいる。しかしティチナー自身の内観では、筋肉感覚をいま再確立することは容易ではあるが、筋肉感覚的イメージを自由に持てるとは思えない。(圧や温かさは可能だが、)冷たさや匂いあるいは痛みなどのイメージは持てない。イメージ可能性については個人差があることも確認しているが、例えばLaddの報告からは、器官感覚の更新・再確立と器官感覚のイメージを混同している観察者が相当数いることが伺われる。
 いま問題となっているのは内観の難しさであり、解決のためにはより体系的な研究が必要だ。どのような器官感覚がイメージされるのか。単体でイメージされるのか、全体のコンテキストの中なのか。意志的にイメージできるか。そのイメージは意識の通常のテクスチュアのなかにどう入ってくるのか。器官感覚をイメージする素質をすべての人が持っているのか、それを訓練や注意で引き出すことはできるか。こうした問題に取り組むには質問紙調査は不適当である。

   ◇   ◇   ◇

この種の論文を見ていると、こうした心理学者の関心がいかにphenomenologicalなものかを思い知らされます

人生のかたち現象 Feldman (2004)

Pleasure And the Good Life: Concerning the Nature, Varieties, And Plausibility of Hedonism

Pleasure And the Good Life: Concerning the Nature, Varieties, And Plausibility of Hedonism

  • Fred Feldman (2004). Pleasure and the Good Life: Concerning the Nature, Varieties, and Plausibility of Hedonism. New York. NY: Oxford University Press.
    • Chapter 6 Hedonism and the Shape of a Life

「人生の価値はその部分のもつ諸価値の和である」という見解へ反対する際、「人生のかたち現象」と呼べる現象がひきあいにだされることがある。しかしこの反論は成功していないと本章では論じる。

6-1. 人生のかたち

 [124][125]最初は良いが後に悪くなる人生と、最初は悪いが後に良くなる人生を比較した時、多くの人は後者の方が良いと考えるだろう(Brentano, Chisholm, Lemos, Slote, Velleman, C. I. Lewis, Bigelow, Pargetter, Campbell, Brannmark, et al.)。[126]この「人生のかたち現象」から、重要な要素を抽出してみよう。

 人間にとって善である特徴Gと、悪である特徴Bがあるとせよ。GとBには大きさ(magnitude)と「最小噴出」がある。たとえば、Gを感覚的快、Bを感覚的苦痛だとすると、感覚の強度が大きさにあたる。また最小噴出の快苦とは、人が適当に短いあいだ比較的一様な快苦を感じているというエピソードにあたる。一噴出の価値は、その大きさによって完全に決定される。いま、BとGの最小噴出(数と大きさ)の点で等しいが、それらの時間的順序が異なる2つの人生がある。[127]すなわち、一方では噴出の強度が徐々に増加し、他方では強度が徐々に減少する。前者を「上昇人生」(UHL)、後者を「下降人生」(DHL)と呼ぶ。すると、UHLはDHLより良いという考えに、多くの人は共感するだろう。また、二つの人生が、関連する点でUHLとDHLに似ている時、この人生の組は「人生のかたち現象」の例となっている、と言おう。また、人生の内在的価値はその人生における最小のGおよびBエピソードの内在的価値の和に等しいとする見解を、「加算的」見解と呼ぶ。

 さて、人生のかたち現象はあらゆる加算的価値論を疑わしくするように見える。なぜなら、人生を構成する最小価値単位が持つ価値の総和が等しいのに、価値の点で異なる二つの人生がありうることになるからだ。

 ところで、本書でフェルドマンが定式化した快楽主義的価値論はどれも、人生の価値はその人生がふくむ快苦エピソードの価値によって「完全に決定される」としていた。ただしこれは、人生の価値はそれが含む全ての快苦エピソードの価値の総和だということではない.。[128]そのような価値論は「二重カウント」を含んでしまう。すなわち、たとえば1分間の快エピソードは、1秒間の快エピソードを60含んでいる云々。これら全てのエピソードの価値を単純に加算すると、全体の価値としては明らかに高い値が出てしまう。この問題は「最小快苦エピソード」の概念を導入することで解決される(8章)。これを踏まえると快楽主義は、「人生の価値はそれが含む全ての最小快苦エピソードの価値の総和である」とする。ただし、いずれにせよ、快楽主義にとって人生のかたち現象は問題であるように見える。

6.2. 人生のかたちと内在的態度快楽主義

 ここでは[129]フェルドマンが好む「内在的態度快楽主義」を例に問題を検討していく。

  • 内在的態度快楽主義(IAH)

i)あらゆる内在的態度快エピソードは内在的に良い。あらゆる内在的態度苦エピソードは内在的に悪い
ii)ある内在的態度快エピソードの内在的価値は、そこに含まれる快の量に等しい。ある内在的態度苦エピソードの内在的価値は、そこに含まれる苦の量に等しい。
iii)人生の内在的価値は、その人生に含まれる最小内在的態度快エピソードと最小内在的態度苦エピソードの内在的価値の総和に等しい(加算性に相当)

この説のもとで、DHLとUHLは図1のように表せる。それぞれの人生は7つの快エピソード(e1, e2...)を含む。実践は、快エピソードにおける快の総量を示す。点線は、快エピソードの価値の総量を示す。各エピソードにおける快と価値の量は等しい。両方の人生における快楽の総量は等しいと約定する。

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図1

6.3. 快楽主義は傷つかない

 以上の他に、DHLとUHLについて一つ知るべき点が一つある。それぞれの人生を送る人は、自分の人生の快楽の軌跡が上昇/下降していることに気づいているだろうか? もし気づいているとして、それを気にかける(care)だろうか? つまり、上昇していると知って喜んだり、下降していると知って失望したりするか?

[132]もし気にかける場合、そうした人々の人生は追加の態度的快苦を含むことになる。このとき図1は不正確であり、事態は図2によって表されるべきだ。DHLのほうには、苦エピソードe8、e9、e10が足されており、これは自分の人生のかたちを知ったときの追加の苦痛を示す。またUHLのほうではe5以降のエピソードが含む快の量が増加しており、これは自分の人生のかたちを知ったときの追加の喜びを示す。[133]この結果、UHLはDHLよりも価値が大きいことが、IAHでも説明できる。

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図2
[134]気にかけないか、そもそも人生のかたちに気づかない場合はどうだろうか。この場合、図1の描写は適切である。このときには、実際、UHLがDHLより良いと考える理由は存在しない。むしろ、何故良いと思うのか? そう考えたくなる誘因を3つ挙げて、それぞれを検討してみたい。

  • (1)

 [135]2つの人生を比較する人は、自分の人生がDHLなら嫌だしUHLなら好ましいと考える。そこで、UHLを生きるほうがより快が大きいと考えてそちらを選んでしまう。これはすぐ上で検討した混乱である。今はそのような追加の快苦は存在しないと約定されていたのだった。

  • (2)

 DHLと比べてUHLはある種の卓越性、美、適切さを備えていると思われるかもしれない。そうすると、DHLのかわりにUHLが生じる世界はより良いものだと考え、したがってUHLのほうがより良いと判断するかもしれない。だがここに含まれる混乱は、人生が世界にとってもつ内在的価値とそれを生きる当人にとってもつ内在的価値の取り違いである。[136]世界に最大の善をもたらす人生が当人に最大の善をもたらす人生であるとは限らない。そして、IAHは当人にとっての善にかんする理論であるから、UHLが世界の内在的善により大きく貢献するとしても、それはIAHへの反論にはならない。

 内在的価値に2つの尺度を認めるのを理論的倹約の点から避けたいと思う人もいるかも知れない。その場合、内在的価値の担い手を基本単位(快苦エピソードなど)とし、それ以上の事物(人生、可能世界、行為の帰結など)の内在的価値はそれを構成する単位の内在的価値のみにより決まるとされる。この時、快エピソード1単位は人生と世界に等しく貢献することになるので、〔ある人生の当人にとっての価値と世界にとっての価値が異なるということはありえない〕。だがこの考え方をフェルドマンは支持しない(9章を見よ)。

  • (3)

 事例を少し変更しよう。UHLにおいて人は上昇に気づき追加の快を得る。一方でDHLに快い出来事(ビールとおつまみが美味しかった)を増やし、追加の快苦の量を揃える。[137]この時にも、UHLの方が良いと考える人がいるかもしれない。これはIAHに対する反論になるだろうか? 

 これはデリケートな問題である。最も単純なIAHによれば最小態度的快エピソードの内在的価値は快の強さによって完全に決定される。この時、UHLとDHLは等しく良いことになってしまう。他方で、IAHにはバリエーションがあり、快苦の「対象」の特徴を価値に反映できるものがある。たとえば、快を感じるのにふさわしい事態に快を感じことはより高い価値を持つとして、相応性内在的態度快楽主義(Desert-Adjusted Intrinsic Attitudinal Hedonism)を得ることができる。

 さて、人生のかたち現象に注目する人は、人生のかたちに対する快は価値論的に重要だと思っているのかもしれない。この考えも、しかし適当なバージョンの内在的態度快楽主義で包摂することができる。すなわち、グローバルな対象を持つ快楽ほど価値が高いとすれば良い(全体性内在的態度快楽主義; GAIAH)。[138]GAIAHによれば、UHLはDHLより実際に良い。このことは図3で表せる。DHLでは、e1-e3において快楽の量(実線)よりも価値の量(破線)が小さい。これは、これらのエピソードにおける快楽の対象があまりグローバルでないことを反映している。他方、UHLのe5-e7では快楽の量(実線)よりも価値の量(破線)が大きい。これは、これらのエピソードにおける快楽の対象がグローバルであることを反映している。

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図3
 このように、純粋に加算的でありながら、人生のかたち現象と整合的な態度快楽主義は存在しうる。上昇・下降以外にも様々な人生のかたちに訴えた加算主義への反論が考えられる。だが任意の全体論的特徴Fに訴える反論に対してもここまで同じように答えられる。すなわち、まず当人はFをケアしているか。しているならばその分の快が加算されるので、Fをもつ人生のほうが実際によりよいと説明できる。していないなら、Fはその人生の当人にとっての価値を増していない〔すなわち、Fをもつ人生のほうが良いという判断のほうが誤りである〕。

人生の特定の時期にだけふさわしい善 Slote (1982)

https://onlinelibrary.wiley.com/doi/abs/10.1111/j.1468-0114.1982.tb00109.x

  • Michael Slote (1982). Goods and Lives. Pacific Philosophical Quarterly, 63(4): 311-326.

 [1][2]「善はどの時点で生じるかによって、人生の全体の良さや行為の理由が変わってくる」という考え(時間選好)は、道徳理論の中では一般に否定されている。この現象が特異でも不合理なものでもないとこの論文では論じる。

I

 [3]個人の人生の善を導く原理として最大化を採用する哲学者のなかには、その原理を社会的良さにまで適用しようとする功利主義者(シジウィック)と、それに反対する者(ロールズ・ネーゲル)がいる。だが両者は時間選好の否定の点で一致している。[4]他方、個人的善にかんする原理として最大化を否定する哲学者(セン)もいる。センは、善が時間的におおむね均一に分布していることが、最大化とは独立の重要性を持つと考えているようだ。[5]だがセンは、最大化論者たちが仮定する時間的平等には反対しない。それどころかセンは、時間的平等にかんして功利主義と異なる解釈を与えているのだと言える。平等主義者は、社会的善の分配における諸個人の平等という理念は、諸個人のあいだに等しく良さを分配することで実現されると考える。これと同じように、個人的善の分配においても、各時間に良さを等しく分配するのが時間的平等なのだというかもしれない。[6]なお、人生の各時期固有のニーズに応じ良さを分配することこそ時間的平等だとする考え方もある(Charles Fried)。
 [7]さて、上記の哲学者はいずれも、反省を踏まえた常識的判断で自説をテストする必要性を強調している。だが、時間選好の否定はこのテストを通過しない。

II

 [1]人生には、社会的な影響受けつつも、しかしやはり自然ないくつかの段階がある。[2]そして、一定の段階は他の段階より重要だと感じられるものだ。まず、幼少期・青年期の成功や不幸は値引かれる傾向がある。[3]子供時代の扱われ方は、ある意味で夢の扱われ方に似ている。プルーストが指摘したように、人生の現実の善し悪しのなかに夢の中での快苦を算入しようとは、私たちは思わない(起きている時間に影響する場合は除く)。同じように、子供期の成功や失敗が大人になった人生に与える影響も、割り引かれる。この種の常識的判断を、ロールズ他の哲学者は十分考慮できていない。
  [4]上記の傾向性を理論化するためには既存の術語では不十分である。たとえば、合理的欲求/不合理な欲求の区別を考えよ。望まない薬物中毒者はたしかに薬物を欲するが、それは不合理な欲求である。〔そのため、その欲求の充足によって当人の善が増加するとは考えがたい。〕これと同じように、少年時代とは不合理な欲求に満ちた時代なのだと考えられるだろうか。[5]これはにわかに信じがたい。[6]望まぬ薬物中毒者は、薬物への渇望を嫌悪し否認するが、私たちが子供時代の欲求に向ける態度はこのようなものではない。私たちが子供時代の欲求に向ける態度はむしろ寛容であり、そうした欲求はその時代には適当なものであったと考える。
 [7]そこで、子供時代の欲求の対象は、「子供時代にとっての価値」をもつが、「人生全体の観点からの価値」はない、と言える。これなら、子供時代の成功・失敗に対し「値引きつつ寛容」という態度をうまく説明できる。[8]この「時期相対的な善」(period-relative human goods)と「全体的な善」(overall human goods)の区別は、善を個人だけではなくある時期での個人へと二重に相対化する。[9]同様の時期相対性は、子供時代以外の時代に対する態度の説明にも役立つ。たとえばローマ人は、哲学は若い男子には適しているが十分成人した男には適さないと考えていた。この態度も価値の時期相対性によってよく説明できる。また、老人のゲートボールで勝ちたいという目標に対する私たちの態度も、子供時代の目標に対する態度と同じよう扱える。[10]この手の老人の活動に対して、「ゲートボール好きになってしまった(reduced to)」などと言われる。この「しまった」という表現は欲求の不合理性を意味すると解釈されるかもしれない。だがその必要はない。高齢期はそれ自体で悲痛だとするなら、この表現は当該の人物が下降局面にいることを示しているにすぎないとも考えられる。そして局面にとっては、ゲートボールに勝つことは適当である。[11]他方で、「人生の盛り」(prime)と呼ばれる時期には、人生の中でもっとも重要だと見なされる欲求が多く生じる。むしろ、人生の諸時期という比較的中立的な枠組みの中に、人生には「盛り」があるという私たちの感覚を重ねあわせた結果として、時期相対的善というアイデアが生じるとさえ言えるかもしれない。

III

 [1]以上で確認された選好は、「純粋な」時間選好ではない。すなわち、前の/後の時間をそれ自体として選好するものではない。むしろそれは、特定の時期に特徴的な関心への選好であり、そうした関心が時間的に前/後に位置しているのは、論理的な意味では、偶然である。[2]しかし、純粋な時間選好もまた、人生の良さにかんする私たち思考の中にあらわれる。このことは、人生の後の方に来るものに対する選好の事例に見いだすことができる(ロールズは、人生の前の方に来るものに対する選好の例にばかり集中していた)。人生のより後に来るものには、より大きな重要性が付与されるのが普通である。[3]すなわち、若い時不遇で老年期に成功した人生と、若い時成功し老年期不遇な人生では、前者の方が良いと思われる。これは、後に来る善への時間選好の存在を示唆する。[4]この現象を、善の最大化の観点から説明しさることもできるかもしれない。例えば、「期待の快楽は想起の快楽より大きい」という点に訴え、後に成功した人生のほうが期待の快楽が大きいためより良いと考えるのはどうか。しかしこの説明はうまくいかない。というのも、若い時不遇な人は将来の成功を期待することを諦めやすいし、若い時に成功した人はもう一度成功することを期待するだろう。そうすると、若い時不遇で老年期に成功した人生と、若い時成功し老年期不遇な人生では、前者の方が期待の快楽は小さいはずだ。にもかかわらず私たちには、前者の人生の方が良いと思われるのだ。[5]日常の言語的にも、後年の成功は若い時の失敗を「埋め合わせた」と言えるが逆は言えない。これは、先立つ悪を後なる善で埋め合わせることはできるが逆はできないという信念の表れではないか。[6]センは、人生の良さの基準として善の最大化だけでなく時間的平等があると示す例としてリア王をあげていた。しかしリア王の人生の悪さは、その最期がいかに悪かったかによっても説明できる。また、リア王とは正反対の、幼少期が酷く老年期が幸せな人生は良い人生だと思われるが、これはセンの基準では等しく悲劇的な人生だということになってしまう。
 [7]では、「人生の時期」時間選好および「純粋な」時間選好が、哲学者たちの見解にどう影響するかを見ていこう。

IV

 [1]ロールズは、社会を超個人とみなす点で功利主義は誤っているが、時間選好を否定する点では正しいと考えていた。前者はパーフィットによって否定されたが、後者もここまでの議論によって否定される。[2]他方でパーフィットが功利主義を支持する根拠としている原子論的な人格説は、時間選好とは整合しないかもしれない。〔たとえば、原子論的人格説によれば時間的に後の自分は相対的に重要ではなくなるはずだが、これは人生の後に生じる善に対する純粋時間選好と整合しない〕
 [3]行為の理由にかんする時間平等主義的な理解(ネーゲル)に対しても、時間選好は問題をもたらす。[4]ネーゲルによれば、行為への理由は本質的に時制を欠いており、人生全ての時期において作用する。たとえば、私が、将来、イタリアに行く理由を持つなら〔(今は持っていない)〕、私は今イタリア語を勉強すべきである。これを否定することは、「人生の全ての時間が等しく単一の人生を構成している個人」という構想、人生の時間的統一の感覚を否定することになるという。[5]しかし、こうした理由の時間移動が成立しない事例はある。私たちは、子供の頃の失敗と大人になってからの失敗を同じように後悔しない。子供時代の目標や関心は値引かれているからだ。だからといってこれが、過去の自分と今の自分が乖離した異常事態だということは全くない。[6]この現象をネーゲルの観点から説明するには、望まない依存者とのアナロジーを用い〔、子供期の目標は不合理なのでその失敗は後悔の理由にならないと論じ〕るしかないと思われる。だがこのアナロジーは成立しないのだった。むしろ、子供期相対的な善は、子供期相対的な行為の理由を与えるものだと考えられる。こうした理由は、後の適切な後悔や満足に対して何の痕跡も残さない。[7]同じことは老年期にも言える。ゲートボールに勝つことが老年期相対な善であれば、それは老年の人にはゲートボールを練習する理由を与えるが、若い人には与えない。
 [8]ネーゲルに反対している哲学者にウィリアムズがいる。ウィリアムズによれば、行為の理由は本質的に(動く)現在の観点からのものであり、将来ゲートボールをする理由をもつという事実は、その練習をする現在の理由を与えるわけではない。[9]ネーゲルの主張への反論として、本論のものとウィリアムズのものが不整合だとは思われない。ただし、ウィリアムズの現在へのこだわりが、本論の見解と異なる主張につながる場合がある。ファシズムが盛り上がる最中、これまで政治にほぼ関心がなかった芸術家が、このままだと自分はじきに反ファシズムの活動家になるだろうと考えたとせよ。ネーゲルによれば、この人は今活動の準備を始める理由があり、ウィリアムズによればそれはない。だが本論の見解はこの点に中立である。というのも、将来の政治的活動が時期相対的な価値を持つか否かがわからないため、理由の時間移動に反対する根拠がない。ただし、仮にこの事例で芸術家に準備を始める理由がなく〔、そしてそのことの説明として〕ウィリアムズの見解が正しいとしても、本論の見解はウィリアムズが扱わない現象を説明することができる。それは上述の、人生全体の良さを決定するにあたって、ある時期が他の時期よりも重要視されるというものだ。
 本論の見解とウィリアムズの見解は別の課題に答えるものなのかもしれない。[10]ただ、本論の見解は、ウィリアムズがシジウィック、ロールズ、ネーゲルらと共有している誤った二分法を訂正することができる。すなわち、「人生の全ての時間を等しい地位で扱う」と「現在に特別な地位を与える」の二分法である。

V

 [1]おそらく、時間選好を否定したい主要な動機は、それが人生の統一性を崩すというものだろう。本論の見解もこの誹りを受けるべきなのだろうか。[2]まず、後に来る善に対する純粋時間選好を考えよう。こうした選好が、人生の特定部分を人生の一部として扱っていないとは言い難い。むしろ、それを人生のリアルな一部として取り扱っていないという批判ならありうる。だが、この反論はあまり力を持たない。というのは、リアルさ(現実性)には完成の度合いに応じた程度があるという時代遅れの見解に近づいているからだ。[3]より積極的な擁護もできる。後の幸福や成功への選好は、人生の後の方によって過ぎ去った時間が埋め合わされてほしいという欲求の反映なのかもしれない。これは、人生が有限であるという認識から生じるものだ。もし人生が無限ならば、人生の前/後という区別に重きは置かれないだろう。このように純粋時間選好が人生に含まれる善のバランスを維持するものなのだとすれば、それが人生の統一性を無視しているという批判は無効である。
 [4]次に時期時間選好を取り上げる。本論では、時期相対的な善に対して私たちが重要性を置かないことを正当な態度だと考える。こうした態度は私たちを人生のリアルな部分から切り離すと批判されるかもしれない。しかしこの態度こそ私たちの普通の考え方なのであり、私たちの普通の自己理解に基づいて形而上学や道徳上の見解を擁護するという理念を維持するならば認めるしかない。
 統一性が失われるという不安に対しては、有機体の成長と衰退を引き合いに出すのがいいかもしれない。[5]私たちは、動物や植物はそのライフサイクルの中で成長する時期と衰退する時期があると考える。そしてある動植物がその動植物らしくある特定の時期があると考える。だがそう考えるからといって、動植物に時間を通じた統一性を帰することが不可能になるわけではない。人生の統一性もこのようなものなのだ。

幸福の分配と時間 Hirose (2015)

Egalitarianism (New Problems of Philosophy)

Egalitarianism (New Problems of Philosophy)

平等主義の哲学: ロールズから健康の分配まで

平等主義の哲学: ロールズから健康の分配まで

  • Iwao Hirose (2015). Egalitarianism. New York, NY: Routledge. (2016, 斎藤拓訳, 『平等主義の哲学:ロールズから健康の分配まで』, 勁草書房)
    • Chapter 6. Equality and Time (未邦訳)(後半)

6.3 ハイブリッド説

幸福の分配に当たって、人生全体の幸福をその単位とする立場にも、特定時点の幸福を単位とする立場にも問題があった。では、両方を重視してはどうだろうか(「ハイブリッド説」)(Hirose 2005; McKerlie 2001a)。

 優先主義のほうから考える。[144]ハイブリッド優先主義は、まずは人生説と時間切片説が出す分配の良さを足したうえで、二重カウントを防ぐために2で割る。ここでは優先主義関数として平方根を採用しよう。

 するとalternative 1の場合、時間切片説の評定は 2(√16 + √4)=12、人生説の評定は√20+√20=2√20である。したがってハイブリッド説の評定は1/2*(12+2√20)=6+√20=10.47になる。同様にして、alternernative 3は10.24となるから、alternative 1のほうがalternative 3より優れていることが説明される。これは、時間切片説では説明できないものであった。同じように、alternative 1はalternative 2よりも優れている。これは、人生説では説明できないものであった。
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 ハイブリッド優先説にはしかし2つの問題がある。第一は二重割引の問題である。いま、人生全体の幸福は、一時的幸福の総和にすぎない。しかしハイブリッド説は、一時的幸福について一度割引を行なったのに、全体の割引をもう一度行っている。これは正当化が必要である。第二に、一時的幸福の割引と人生全体の幸福の割引に同じ関数(平方根)を用いている。だが二つの幸福の良さが同じように逓減すると考えることには、正当化が必要である。

 ハイブリッド平等主義に移ろう。ここでは、まず価値論的平等主義のやり方で各時点での分配の良さを算出、また人生全体の分配の良さを算出し、両者を加え、[145]二重カウントを防ぐために2で割る。例えば、alternative 1の場合、時点での分配の良さは16*1/4 + 4*3/4 + 4*3/4 + 16*1/4、人生全体の分配の良さは20*1/4 + 20*3/4、2で割って17になる。同様にして、alternative 3 の良さは14.5になるから、alternative 1のほうがalternative 3より優れていることが説明される。これは、時間切片説では説明できないものであった。同じように、alternative 1はalternative 2よりも優れている。これは、人生説では説明できないものであった。

 だがハイブリッド平等主義には奇妙な点がある。次のalternative1 とalternative 6を比較せよ。ハイブリッド優先主義によれば、両者は等しく良い。他方で、ハイブリッド平等主義によると、Alternative 6のほうがAlternative 1より良いことになる。これは、alternative 1では各時点において不平等があることに由来する。だが、人々が同時に同じレベルの幸福を持つ方が良いというのは本当か? この点を支持する良い議論はなさそうであり、[146]ハイブリッド優先主義や人生全体説の支持者を説得することはできないだろう。
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6.4 未来の人々の幸福に関する分配判断

 未来の人々の幸福に関する分配という別の話題に移ろう。ここでは、関連する人間の数という変数が増える。未来の人々は存在しない。[147]このため、問題となる未来の人々の集合が複数ある時、両者が全く重複しないという事態が生じる。これは「(完全)非同一性事例」と呼ばれる。非同一性事例は分配判断を難しいものにする。なによりも、誰かが幸福を得た/失ったと言うのが意味をなさなくなる。次の二つの未来を考えよう。
・X = (8 [Annie], 5 [Betty])
・Y = (5 [Cathy], 5 [Diane])
この場合、Xを選んだことで3単位の幸福を「得ている」人は誰もいない。

 ここには一般的な哲学的問題がある。極めて高いレベルで幸福な少人数(A)と、非常に低いレベルで幸福な圧倒的多数(B)のうち、どちらかを選択しなければならないとする。古典的功利主義者なら、 Bの人口が十分大きければBを選ぶべきだとする(「いとわしい結論」repugnant conclusion)(Parfit 1984)。

 だがBを選ぶのは反直観的だと多くの哲学者は考える。たとえば、平均功利主義ならこの結論が避けられる。だが、人口が変動する別の事例で問題が生じる。例えば、極めて高いレベルで幸福な少人数(C)と、それよりわずかに高いレベルで幸福な2人(D)を比べた時、平均功利主義は後者が良いと判断してしまう。これは反直観的である。この他にも「いとわしい結論」を避けるための方略はあるが、ここでは立ち入らない。その代わり、分配原理の本性を理解するために重要な点を2つ指摘したい。

 [148]第一に、レキシミン原理に対する主要な反論は非同一性事例の前で力を失う。レキシミン原理によれば、最低の境遇にある人にどんなに小さくとも利得を与えるためならば、それ以上の境遇にある人はどんなに大きくとも損失を被らなければならない。

・レキシミンは、まず最も境遇の悪い者の水準を最大化する。つぎに、最も悪い境遇の者の水準がどの分配においても同じである場合には二番目に境遇の悪いものの水準を最大化し、ということを最後のケースまで続ける。
・レキシミンは〔マキシミンとは異なり〕パレート原理を満たす。
・最も境遇の悪い集団にとってのあらゆる利得一一それがいかに小さくともーーは、最も境遇の悪い集団以外にとってのあらゆる損失一一それがいかに大きくともーーより常に優先される。X=(10.50.50.50.50) と Y=(11.20.20.20.20) を比較しよう。 マキシミン・ルールとレキシミンのいずれもが、 YはXより厳密に善いと判断する。Yを選択することで、この最も境遇の悪い集団は僅かばかりの改善をみるだろうが、それ以外の集団は甚大な損失を受け容れなければならない。(p. 25/邦訳29頁)

これは異論の余地があると多くの人は考える。だがこの異論は、非同一性事例にレキシミンを適用する場合には通用しなくなる。例えば、未来の2人に対する配分として次を比較せよ。
・X = (10, 20)
・Y = (11, 13)
レキシミンによればXよりYの方が良い。これが同一性事例の場合、人2の損失が大きすぎるという点で異論があるとされる。だが非同一性事例であればこの反論は有効ではない。なぜなら、Yにおいて人2は存在しないからだ。この場合、選択肢の正しい表しかたはこうなる。
・X = (10, 20, Ω, Ω)
・Y = (Ω, Ω, 11, 13)
Ω(人の不在)に数値尺度を割り当てられない限り、誰かが幸福を得た/失ったと言うのは意味をなさない。

 第二に、優先主義には望みがないかもしれない(Arrhenius 2009)。100幸福なn人(E)と1幸福な20n人(F)を考えよ。優先主義関数として平方根を用いるとすると、Eの良さはn√100=10n、Fの良さは20n√1=20nとなる。つまり、EよりFの方が良い。この結果は、増加する厳密に凹な関数全てについて当てはまる。したがって、優先主義は平均でも総和でも低い水準で幸福な人々の方を良しとする。これは受け入れがたいため、優先主義は人数が固定している場合の分配に関連するものだとArrheniusは結論している。

 他方で、価値論的平等主義ならEの方がより良いと結論できる。幸福が等しく分配されている場合、価値論的平等主義は平均功利主義と一致する。[149]そして、Eの平均幸福はFよりも明らかに高いからだ。だが、人口が変動する別の事例では問題が生じる。前述のCとDについて、価値論的平等主義は平均功利主義と同じ判断を下し、そしてDの方が良いという反直観的判断を下してしまう。こうして平等主義は人口が変動する事例での尤もらしさを失う。そしてこれは「いとわしい結論」問題に由来している。
 
 「いとわしい結論」問題に対する合意の取れた解決は目下存在せず、人口が変動する事例において尤もらしい原理は存在しない。

動物の自己犠牲は利己主義的に解釈できない Gavanescul (1895) 

https://www.jstor.org/stable/2375150.

  • T. Gavanescul (1895). “The Altruistic Impulse in Man and Animals”. International Journal of Ethics, 5(2): 197-205.

 ラロシュフーコーらは、人間の行為は全て利己主義によって導かれていると考えている。だがこの考えは幻想である。人間本性は進化の産物だから、人間の能力は動物の対応する能力がより発展したもの(量的に変化したもの)だとしか考えられない。〔従って、動物に利他的動機があるなら、人間にもあるはずである。〕そして実際、共感、すなわち種の利益のための自己犠牲へと突き動かす衝動は、動物にも見られ、アリ、鳥、ゾウ、サル、犬、ペリカンなど実例は枚挙にいとまがない(John Lubbock; Romanes)。人間の共感はあまりに複雑なために、それが存在しないかのような解釈すら可能になっているが、動物の共感はより単純であり否定しようがない。なるほど人間の死をもいとわない自己犠牲は、例えば死後の永遠の幸福ヘの希望によって説明できるかもしれない。だが同じことをサルに言うつもりなのだろうか。サルも霊魂の死後存続を信じているのか?

 こうした例から、個体の保存へ向かう力とは異なった力が存在することは明らかである。自然の鉄則は「一人の死は大人数の死より良い」だ。人間がこの鉄則を意識的に制度化する以前から、自然は同じ鉄則を無意識のうちに有機世界に適用していた。人間にしても、この鉄則を理性によって発明したのではなく、進化の産物である自らの道徳的本性の中にそれを発見したのだ。

多くの人にとって、この手の真理に納得し、良心のささやきに不安になったときの逃げ場とすることは、難しくもないし不快でもないだろう。もちろん、その手の自然の必然性なるものに、真に無私の善人がわざわざ自分の本性を合わせようとすることはないだろうが、邪悪な人々を慰 めるという厄介な偉業を果たす点だけでも、そうした理論は十分非難に値するだろう。 p. 199

二重結果原理はなぜ正しく思えるのか Scanlon (2008)

Moral Dimensions: Permissibility, Meaning, Blame (English Edition)

Moral Dimensions: Permissibility, Meaning, Blame (English Edition)

  • T. M. Scanlon (2008). Moral Dimensions: Permissibility, Meaning, Blame. Cambridge, MA: Belknap Press of Harvard University Press.
    • 1, The illusory Appeal of Double Effect(後半) ←いまここ

〔前半の要旨:二重結果原理は下の3つの事例での判断の違いを説明してくれるように見える。しかしトムソンが示したように、【トロッコ:ループ事例】を説明できないなど、理論的な問題が多い〕

【薬事例】
同量の薬によって、死にそうな1人と5人のどちらか一方が助けられる。ここで5人を選ぶのは許容可能である

【移植事例】
1人分の臓器があれば助かる人物が5人いる。この5人を救うために無関係の1人の人物を殺して臓器を取ることは許容不可能である

【薬/移植事例】
薬を投与すれば回復する重症の1人と、1人分の臓器があれば助かる人物が5人いる。この5人を救うために1人の方に薬を投与しないのは許容不可能である

【トロッコ:ループ事例】
1人が死なないとトロッコは帰ってきて5人が死んでしまうとする。直観的には、スイッチの切り替えは許容可能である。しかしこの場合、スイッチを切り替える人は、1人を殺すという明確な意図を持たなければならない。したがって二重結果原理によれば切り替えは許容できない。
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二重結果の魅力を説明する

[21]なぜ、二重結果説には魅力があるのか。トムソンは、行為の許容可能性の評価と行為者本人の評価の混同によると示唆している。患者を殺そうと思って致死性の痛み止めを投与する医者は、実際その行為が患者にとって良いものであろうとも、やはり悪人(a bad person)である。しかしここから、行為自体が許容不可能だということは[21]帰結しない。この見解には一理あるが、修正が必要である。というのも、「移植」と「薬/移植」事例における医者は、純粋に多くの人を助けたいと思いで行動しており、こうした医者が悪人だとは思われないからだ。従って、トムソンが示唆するように、この事例で行為が不正(wrong)だと思われるのは、その行為が悪い性格を指し示しており、そして私たちは行為と行為者の評価を混同しているからだーーということはなさそうだ。

 ただし、トムソンの指摘に含まれる真理は別の仕方で捉えられる。二重結果説の魅力は、道徳原理に関する二つの事実に由来する。[i]第一に、道徳原理というのはほぼ常に例外を許す。[22][ii]第二に、道徳原理は二つの仕方で使用されうる。一方では「批判の基準」として、他方では「熟慮の方針」として。熟慮的に用いられた道徳原理は、ある行為を許容(不)可能にする考慮事項を特定することで、「人はその行為をしていいか」という問いに答える。他方、批判的に用いられた道徳原理は、行為者が決定を下す際に適切な考慮事項を適切に考慮したかを問題するもので、行為者の行為の評価の基盤となる。[23]二つの使用法は密接に関係しているが異なる。なるほど、行為者が適切な考慮事項に従わなかった場合には、その行為は不正(wrong〔=許容不可能〕)だ。[*]だが、その行為を不正にしているものは、「行為者が」その考慮事項に従わなかったことではない。そうではなく、〔その行為が背いている〕適切な考慮事項なのだ。

 [24]こうした考えに、二重結果説の支持者は反対するだろう。というのも二重結果説の支持者は、行為者は行為の良さ(goodness of action)に導かれて行為すべきだ〔should〕と考えており、これは許容可能性について異なる説明を与えているように見える。そして、行為の良さを決定するのは意図だとされる。〔他方、スキャンロンの見解では、意図(=適切な考慮事項を適切に考慮したか)は許容可能性にとって重要ではない[*]〕[25]ところで、この対立はどのような性格のものなのだろうか。許容可能性という概念の適用の仕方について争っているのだろうか。それとも、〔スキャンロン側は〕許容可能性、〔反対者は〕行為の良さと、異なる道徳評価カテゴリーを用いているのだろうか。もし後者なら、例えば熟慮のような目的にとって、一方を重要だとする理由には何があるのだろうか〔。序論で言われた通り、この問いには直接は取り組まない〕。

 さて、[i]と[ii]によって、上で見た事例群に対する私たちの反応は最も良く説明される。こうした事例は全て、[i]例外がありうる道徳原理を問題にし、いつが例外なのかを問う構造をもつ。重大な危害が予想される行為は許容不可能であるとか、可能なら他人を助ける必要があるといった原理からの逸脱が、他人を救うためなら正当化されうることがまず示される(トロッコ、薬)。[26]だが常に正当化されるわけではないということが次に示される(薬/移植)。そしてこの時に、許容可能性を決定するのは意図だと思われてしまうことは、[ii]によって説明できる。〔薬/移植のような事例では、〕他人が助かるという考慮事項は、〔危害を禁じる〕道徳原理から逸脱した行為を正当化しない。しかし行為者は正当化すると誤って考えて行為してしまった。この時、道徳原理を批判的に用いれば、確かに行為者の意思決定にはまずいところがある。〔そして、批判/熟慮区別を混同していると、まさにこの、行為者の考え(意図)が、許容可能性を決定していると思われてしまう。〕[27]だが、許容可能性の問いに答えるのは熟慮的用法の方だ。こうした事例での行為を不正なものとしているのは、行為者には容易に助けられる人がいるという事実なのである。トムソンは、許容可能性と混同されるものとして、行為者の全体的性格評価を指摘したが、スキャンロンは意思決定の性質というより狭い点を問題にしている。

軍事上の事例

 以上の分析は、許容不可能な絨毯爆撃と許容可能にみえる戦略爆撃とを分けようとして意図に訴えたくなるのは何故なのかをも説明ししてくれる。[29]確かにスキャンロンの考えでも、士気消沈によって戦争を短期化するために非戦闘員を意図的に殺そうとする人は、不正に行為しているし、捨てるべき意図を持っている。だがこのことは、まさにその意図が許容不可能性を規定しているということではない。意図が不正なのは意図されている行為が不正だからであり、その行為が不正なのはその見込まれる帰結によるのだ。

 [30]許容可能性が意図に依存するという結論を導くもう一つの思考の筋がある。これは、意図の予測的重要性に関わるものだ。[31]通常、行為の結果というのは行為者の持つ意図によって異なってくる。その際、行為者の意図は爆撃の許容可能性に確かに関係してくるだろう。[32]ただし、ここで意図に与えられる重要性は、二重結果説の主張するようなものではなく、あくまで予測的重要性に過ぎない〔。第一義的に重要なのは帰結であり、それを左右する限りで派生的に意図が重要なのだ〕。

移植事例たちの再検討

 元々の病院の事例に戻ろう。関連する道徳原理は、殺さない責務を指定するもの(移植)と、できるなら他人を援助する責務を指定するもの(薬/移植)だ。[33]そして、生きている人から臓器を取るのはそれが他人の利益になる場合でも許容不可能だが、死んだ人の臓器なら移植してもよい、と前提されている。だからこそ、移植、薬/移植事例で医者は患者を〔まず〕死なせることが必要になっている。以上を踏まえると、「他人を救う可能性は、殺害の禁止の原理に対する例外を正当化するか否か」と問題を建てたくなる。

 だがこのように問題を立てると、こうした原理に例外があるという考えは奇妙なものになってしまう。問題を一般化した形で確認しよう。「ある人が生きている限り、私たちはその人にXする〔この場合、殺さない〕義務がある。もしこの義務から自由になった場合、私たちは何か他のよいことができる。以上のことは、その人を殺したり助けないことを正当化するか?」。答えは明らかに「しない」だ。[34]このことは、人は自分の臓器に特別な権利(claim:請求権)を持つという考え方には依存していない。いかなる道徳的権利についても同様のことが言える。例えば、なるべく多くの人命を救えるように生命維持装置を分配しなければならないとしよう。このとき、ひとたび装置を配分されたある人から、より多くの人命を救えるという理由で装置を取り上げることは許容可能だろうか。許容不可能だと前提しよう。加えて、この人はすぐに治療しなければ死に至る病に侵されているとしよう。さて以上の仮定を踏まえた上で、この人の生命維持装置を別の人に移し替えれば多くの人命が助かるという事実は、この人を治療する義務から私たちを解放するだろうか。する、という答えはやはり馬鹿げている。

 [35]一般化しよう。「ある人が生きている限りその人に何かをする義務を私たちが持っている場合、その人が死んで私たちがその義務から解放されるによって利益(advantage)が生じるとしても、そのことは、その人を殺さないよう求める原理や、容易に可能ならばその人の命を助けるよう求める原理に対する例外を、正当化するものではない」。薬/移植はまさにこれに当てはまっている。他方で薬事例では、確かに行為者は一人の人を助ける義務から解放されているが、それはその人の死によるのではない。

 したがって、薬/移植事例で行為者の行為を不正なものにしているのは、行為者の意図ではないのだ。[36]この見解と二重結果説のもう一つの違いにも触れておこう。二重結果説によれば、移植、薬/移植、絨毯爆撃における行為には類似性がある。どの行為も、より大きな善のために無罪の人を殺すことを意図している点で、不正なのだ。しかしスキャンロンの見解では、事例の類似性はより抽象的なレベルにある。たしかにどの事例でも、行為者は一定の要因を、道徳原理に対する例外を正当化するものだと誤ってみなしている。ここが共通点である。ただし、何が問題の行為を不正(許容不可能)なものにするのかは、なぜその行為が例外ではないのかに関する原理や説明に依存している。このより実質的なレベルでは、各事例は互いに異なっている。