えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

全ての楽しい経験の共通要素にかんする確定可能-確定的区別による分析 Crisp (2006)  

Reasons and the Good

Reasons and the Good

  • Roger Crisp (2006). Reasons and the Good. Oxford. Oxford University Press.

pp. 109–110

 楽しさ(享楽: enjoyment)は異種混交的だと考える人が、楽しい経験の中に何らかの特殊な感覚、たとえば甘さとか、針が刺さった痛みのような体の一部に局在した感覚、あるいは赤さのような知覚的な質、といったものに近いものを探しているのだとしたら、確かにそのようなものはない。しかし、楽しい経験が感じられる仕方というものは実際ある。すなわち、楽しさを経験するとはこういうことだと言えるようなものはあり、それは色の経験を持つとはこういうことだと言えるようなものがあるのと同じである。そして色との類比で言えば、特定の色の経験を持つとはこういうことだと言えるようなものがあるのと同じように、特定の種類の楽しさ(あるいは身体的な楽しさや、小説を読む楽しさなど)を経験するとはこういうことだと言えるようなものがある。つまり楽しさとは、確定可能-確定的区別によってこそよく理解できるものなのである。〔様々な楽しさには共通要素が存在しないという〕異種混交論証は、確定的なものしか考慮していない点で誤っている。たしかに、楽しい経験というのは互いに異なっており、〔共通要素を経験外に求めようとする外在主義者たちが指摘するように〕それらはだいたい喜ばしいものであり、主体によって歓迎され、好まれ、さらには欲求されたりもするだろう。しかし、すべての外在主義的理論が見逃しているが、楽しい経験には、それがいい感じ(feeling good)であるという一定の共通の質があるのだ。確定可能-確定的区別はまた、以上の分析の中で「感じ」(feeling)が果たす役割を明確化してくれる。すなわち、いい感じ(feeling good)とは確定可能者であり、何らかの特定の種類の確定的な感じではない。

 楽しさには、混乱をもたらすさらなる特徴がある。楽しさを経験するとはこういうことだと言えるようなものがあるという意味で、楽しさは一つの「クオリア」なのだが、楽しさはふつう、ある意味で、二階の存在あるいは志向的なものだと考えられている。というのも楽しさは通常、経験の「一階」の性質のなかに見出されるものだからだ。たとえば、火の暖かさや、マンゴーの味、ジェーン・オースティンのウィットのなかに、楽しさは感じられる。アリストテレスも言っていたように、楽しさとは「一種の付随的な目的であり、若者の顔に美しさが付随するようなものだ」〔NE, 1174b32–33〕。ここから、楽しさについて純粋に「志向的な」説明を与えたくなってしまうかもしれない。なるほどたしかに、たとえば〔楽しいを動詞として対象をとる形で用い〕「私は気球旅行を楽しむ」と言うことにおかしな点は何もない。しかしこの発言は、「私は、気球旅行から楽しさを得る傾向を持った人物である」と明確化することは可能である。そして快楽主義者にとっては、〔ここで名詞として現れる〕楽しさだけが問題なのである。