えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

バトラーの議論をもとにした心理的快楽主義論駁 Nilsson (2013)

https://link.springer.com/article/10.1007%2Fs11406-012-9411-4

  • Peter Nilsson (2013). Butler’s Stone and Ultimate Psychological Hedonism. Philosophia, 41 (2): 545-553.

 近年、バトラーの心理的快楽主義批判の妥当性が疑われている(Stewart 1992; Sober 1992: Sober and Wilson 1998)。しかしこれは、バトラーが論的にしていた快楽主義と、近年の解釈者が問題にしている快楽主義(究極的快楽主義)が異なっているという事情に由来する(Zellner 1999)。近年問題の究極的快楽主義とは、人間の究極欲求には快を得て苦を避けようとするものしかない、とする説だ。バトラーはこの説に反論していると解釈したSoberとWilson(SW)は、その議論を次のように整理した(278)。

  • 1. 人は快を経験する時がある
  • 2. 人が快を経験するのは、人が何か外的な対象への欲求を持っており、かつそれが充足されたからだ。
  • 従って、快楽主義は誤りである。

 SWはこの議論の問題点を2つ指摘する。まず、前提2は偽である。化学的に快が引き起こされる場合などもあるからだ。また仮に前提1と2が正しくても、論証が妥当ではない。1と2からは、人は外的対象への欲求を持つことがある、が帰結する。しかしこの欲求が究極的だとまで言わなければ、究極快楽主義は論駁できない。

 しかしバトラーの議論の目標は、究極快楽主義ではなく「還元快楽主義」と呼ぶべき説であった。この説は、あらゆる外的対象への欲求を、自愛および快への欲求に還元できるとする説であり、具体的にはエピクロス主義者、ホッブズ、ラロシュフコーなどが挙げられていた。バトラーの論敵は、そもそも外的対象への欲求は存在しない、ないし、それは本当は快楽への欲求に過ぎない、とする説だったのだ。そして上記の議論の結論は、人は外的対象への欲求を持つことがあることを示しているのだから、還元快楽主義の論駁には成功している。

 究極快楽主義の論駁という文脈にもどると、ここで問題となるのは、外的対象への欲求が常に道具的欲求にすぎないと考えるのが理にかなっているかどうかだ。ところで、S&Mの説明によると、人SがMへの欲求を、単にEへの手段として持つとは、次のようなことだ(217)。

  • (a) SがMへの欲求を持っている
  • (b) SがEへの欲求を持っている
  • (c) SがMへの欲求を持っているのは、Mの獲得がEの獲得を促進するとSが信じているからだ

 このうち特に問題となるのは(c)だ。見返りとなるEがとくにないのに(例えば)他人の幸福のために行為する事例は実在するからだ。このとき利己主義者は、Eは内的なもの(欲求充足から生じる快など)であってもよいと返す。「私たちは他人の幸福を対象とする欲求を持っているのは、他人の幸福を対象とする欲求が充足されることで、快を対象とする究極欲求の充足が促進されると、私たちは信じているからだ」。このとき、利己主義には二つの主張が含まれている。

  • (i) 他者志向の欲求をもつものは、外的な利益が見込まれない場合、その欲求の充足が自分の快楽につながると信じている。
  • (ii) 他者志向の欲求をもつものが、外的な利益が見込まれない場合、その欲求を持っているのは、次の理由による。すなわちその人は、その欲求を持ち充足させることで、快楽が得られると信じている。

 (i)は誤りである。そのような信念を持っていない人はたくさんいる。さらに小さい子供は、欲求充足が快につながるという信念を形成できないが、親類の幸福を欲することができる。

 また、(ii)にも問題がある。まず(ii)には二つの読み方がある。

  • (ii-a) 人は、充足が快につながるという信念をもとにして、他者志向の欲求を持つことを選ぶ
  • (ii-b) 充足が快につながるという信念(のみ)が、他者志向の欲求を欲求を生じさせる

 (ii-a) には次のような問題がある。他人の幸福を対象とする欲求はなかなか充足されないし、また充足のための行動にもリスクが伴う。欲求充足から生じる快だけが問題なら、もっと簡単に充足される欲求(昼の後に夜が来ることを欲するなど)が選ばれるはずだ。この批判をかわすには、他者志向欲求の充足から得られる快は他の欲求の充足よりも大きいという信念が人にあればよい。しかし、人がなぜこのような信念を形成しなければならない全く不明である。もちろん、人がその他の事物よりも他人に大きな関心を持っている場合は別であるが、これを認めるとその人は他人志向の欲求をすでに持っていることになる〔これが道具的であれば循環し、究極的であれば矛盾する〕。

 次にもし (ii-b) が正しければ、私たちは充足が快につながると信じている数多の欲求を実際に持っていなければならないはずだが、実際にはそうなっていない。

 従って、すべての他者志向欲求がS&Wの意味で道具的だとは考え難い。すべての欲求は道具的か究極的かのどちらかだとすれば、いくつかの他者志向欲求は究極的であり、究極快楽主義は誤りである。