えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

バトラーの「石論証」と「穴論証」 Zellner (1999)

http://www.jstor.org/stable/27744815

  • H. M. Zellner (1999). Passing Butler's Stone. History of Philosophy Quarterly, 16(2): 193-202.

バトラーの「石論証」とは、次のような論証である。

(a) あらゆる個別の欲や情念は、外的なもの自体に向けられており、もの自体はそこから生じてくる快楽とは別のものである。このことは、次のことから明らかだ。(b) 快楽に先立って、対象と情念のあいだに適切な関係がなければ、快楽は存在しえない。(c)あるものより別のものに対する欲や情愛がなければ、一方を他方より楽しむないし好むこと、石を飲みこむことよりご飯を食べることを楽しむことはありえない。

ここで攻撃されているのは、「すべての欲求は快楽を求めているため、個別の欲や情念は存在しない」という見解だと思われる。だとすればバトラーは、(a)で「あらゆる」とまで言う必要はなく、「ある」と言えばよかった。実際、別の箇所でバトラーも快楽への欲求は認めており、自己愛がそれにあたる(「すべての人は自分の幸福を対象とする一般的欲求を持っている」)。従って、バトラーにとっての論点は快楽への欲求があるか否かではなく、快楽ではないものへの欲求があるか否か、である。

 ところで、石論証のすぐあとに、次の論証も述べられている。

(d)幸せないし満足とは、その本性によって私たちのいくつかの個別の欲、情念、情愛に適した対象を楽しむことに存する。そこで、(e)もし私たちが全面的に自己愛に没しており、その他の原理にはいかなる余地もないとすれば、いかなる種類の幸せや楽しみもまったくもってありえないことになる。なぜなら、(f)幸せは個別の情念の満足に存しており、その満足が生じるためには情念が持たれなければならないからだ。

 これは、(g)「私たちは楽しむ」を隠れた前提とし、(E)もし人間に快楽への欲求しかないならば、生に楽しみはなかったはずだ(人生は穴/どん底(Pits)だったはずだ)、と論じている。これを「穴論証」(the Pits Argument)と名付ける。

 穴論証は、すべての欲求の対象が快楽ならば、快楽はなくなると論じる。他方で石論証は、快楽があるならば、快楽ではないものを対象にした欲求が存在する、と論じている。一方は他方の変種である。

 「石論証」も「穴論証」も、最終的に依拠しているのは、あらゆる楽しみ・快楽・幸せ(バトラーはこれらを分けていない)が個別欲求の充足から生じるという前提((c)(f))だ。しかし、経験の中には内在的に快いものがある。ただしこの点については次のように議論できるかもしれない。快楽のほとんどは欲求充足によって生じるのだから、もし快楽への欲求しかないならば、私たちの快楽の総量は実際よりかなり少ないことになってしまう、と。