- 作者: J.L.マッキー
- 出版社/メーカー: 晢書房
- 発売日: 1990/10
- メディア: 単行本
- 購入: 1人 クリック: 3回
- この商品を含むブログ (10件) を見る
- マッキー, J. L. (1977) [1990] 『倫理学―道徳を創造する』(高知健太郎他訳 晢書房)
- 第三章 義務と理由
- 第六章 功利主義 ←いまここ
- 第九章 決定論・責任・選択
1.行為功利主義
- 功利主義とは?
- 一階の道徳体系の内容を決める一定の方法。その一種として……
- 「行為功利主義」
- 尤もらしい点を幾つも持つ
- しかし詳しく見れば様々な問題がある
- 対象となるものの範囲は?
- 快楽計れるのか問題
- 個人間・個人内での分配の原理を含んでいるのか問題
- などなど
2.幻想の倫理
- 上のような曖昧さ・困難が除かれても致命的問題がある。
- 「実行不可能性」
- まず、行為功利主義を「広義の道徳」〔全ての行為の指針となる規範体系〕と考える
- 「万人の幸福」が正しい行為の直接的規準となる
- しかし、「各行為者が全ての人の幸福を自らの目的とすべき」とするのは、ミル自身認めているように実行不可能である
- ミルは、行為功利主義は単に行為が正しいかどうかのテストを与えるものと考えた。
- しかしこれですら実行不可能の誹りを免れないだろう。テストとしての功利主義に普通は誰も合格できない。
- 「万人の幸福」が正しい行為の直接的規準となる
- なぜ道徳家や説教家は明らかに遵守不可能な規則を提唱するのか?
- 理想として掲げることで、いくらかでもそれへ向かう動きを誘発させたいと思っているからだろう。
- しかしこれは行為功利主義を「狭義の道徳」として提唱しているのであり、それならそのように言うべきである。
- 理想として掲げることで、いくらかでもそれへ向かう動きを誘発させたいと思っているからだろう。
- また、なぜ行為功利主義は実行不可能なのか?
- 利己心が人間性の根絶できない一部だから
- 私たちが「無私」・「仁愛」と呼ぶものすら、「普遍的配慮」からは遠く、自分と特別な関係を持った他人への配慮である(身近な人や祖国など)。
- 「このような配慮から出た行為であっても、他の人の権利を侵犯しないと確信できるならば、功利主義の規準に合致している」などとミルが認めるとは到底思えない。
- この種の行為を〔推奨すべき〕行為として提案することは出来るだろうが、それは全く功利主義的ではない。
- なお、人間性は変えられ、普遍的配慮を持つ人間は作れるのかもしれない。
- しかし、ウィリアムズが言うように、それは人生の多くの価値の基礎となる動機をはぎ取ることである(愛・個人的な欲望・競争心など)。
- また、いずれにせよ目下のところはこういった改造は出来ない
- 道徳的要求を人間の現状の能力にあわせろ、とまでは言わないが、実行可能な改革を提唱すべきである。
3.狭義の道徳
- 行為功利主義を「狭義の道徳」と考える
- 利己心や狭すぎる同情心に対抗できる、「全ての人の福利に関心を持つ傾向」を植え付けようと言う提案として
- この考えは尤もらしいが、マッキーは反対。
- 何故なら、上の傾向は不確定要素がありすぎて実効的な提案ではない
- この提案は、全ての人の幸福を自分の目的にすべきだという〔講義の道徳としての〕提案ではない。自分の利益を押さえ、全ての人の利益へある程度考慮せよ、という提案である。
- しかし、いつ、どのくらい、全ての人への考慮を自分への考慮に優先させるべきなのか、功利の原理は全く答えない。
- ミルは、正義に関する規則や原理の道徳的力はじつは功利から導きだせると示そうと努めた。しかし同時にミルは、様々な功利主義的考慮の中でも正義の規則は、行為に対する実質的な制限を可能にする「特別な」部分であることをも認めていた。
- 功利の原理のような一般的だが〔内容空虚で実効性を欠く〕原理よりも、正義の規則のような〔実質的な制限を行為に加えるもの〕の方が、「狭義の道徳」の核心を形作ると考える十分な理由がある。
4.規則功利主義
- では規則功利主義はどうか
- 規則功利主義は、行為功利主義が簡便のために規則を用いているというものではない
- 行為功利主義が正しいと言う行為を規則功利主義は不正と言い、それによって直観を救うことができる。
- しかし規則功利主義は行為功利主義と変わらないという議論がある。
- タイプSに属す行為Aは、単体でみると効用が大きいが、Sの一般的実行は万人の幸福を損なうため、規則Rにより禁じられているとする。
- この場合Sの中には、Aのように有益なSD行為と、有害なS¬D行為の二種類があることになる(そして後者の方が圧倒的に多い)。
- このとき、S¬D行為のみを禁じる規則R*がありえ、これはRより効用を促進する。
- そうすると、R*を採用する規則功利主義は、結局Aを正しいとする行為功利主義と変わらなくなる。
- この議論は確かに抽象的にいえば正しい。
- ただし、道徳が社会の中で根付くには、規則の複雑さには限界がある
- R*のような規則は複雑になりがちであるという欠点がある。
- しかし、一階の道徳を規則功利主義で正当化しようとマッキーは思わない。
- いずれにせよ、共通尺度としての効用の比較考慮という功利主義の前提はフィクションだからだ。
5.効用の「証明」
- ミルは功利原理の証明には苦しんだ。ミルの議論のもっとも好意的な解釈は以下のようなものである。
- 私たちは自分自身の幸福を欲する。このことは、私たちが幸福を客観的に善だと考えていることを示す。この広範な信念が間違っているというのはありそうになく、人々の幸福は実際に客観的に善である。従って、人々の幸福を足したものである万人の幸福も客観的に善だから、それは誰にとっても追及すべきものである。
- シジウィックが正しくも指摘したように、「客観的に善」というアイデアを使うことができれば、利己主義から功利主義への移行を行うことができる。
- とはいえ、私たちは1章で「客観的善」なるものは存在しないことを見た
- それは置いておくとしても、効用だけが唯一の善であるという功利主義の主張を導きだすには、さらに、「私たちが欲するものは自分自身の幸福だけである」と言わなければならないが、これは明らかに間違っている。
- ミルはこれに対し、私たちが欲求するものはすべて幸福の手段かその部分として欲されるのだ、と返した。
- これが成功しているなら、もはや「幸福」とは何か実質的な状態であると考えることはできない。
- 単に自分が欲するものなら何であれ「幸福」と名付けていると考えるほかない。〔欲求充足全般が「幸福」と言われている〕
- その場合、「私たちが自分の幸福を欲することは幸福の客観的良さの証拠である」という上の議論は使えなくなってしまう。
-
- 何故なら、もはや多くの人が共通して欲している何か具体的なものはなくなってしまっているからだ
-
- これが成功しているなら、もはや「幸福」とは何か実質的な状態であると考えることはできない。
- ミルはこれに対し、私たちが欲求するものはすべて幸福の手段かその部分として欲されるのだ、と返した。
- 功利主義は「欲求の最大の充足」という観点から描く方が良いということがしばしばいわれる。しかしそうすると、功利の原理をもっともらしく擁護するミルの論証と結びつくことができなくなってしまう。
6.欲求の満足としての効用
- 欲求の充足の総量を重視する功利主義解釈も、結局は1節でみたような曖昧さや実行不可能性、そして功利原理の証明との不両立などの欠点をもつ。
- ちなみにこの解釈の下では功利主義の特徴である「代替可能性」が明確になる
- ある欲求は別の欲求と、ある人の欲求は別の人の欲求と置き換えられるし、場合によってはある人の幸福追求のために別の人にいわれなき苦しみを強いることすらありうる。
- 功利主義者はこうした欠点を避けることができない訳ではないが……いずれにせよ、道徳が保護・増進しなければいけないものが、交換可能な満足の合計であるということを示すまともな理由はなかった。
- ちなみにこの解釈の下では功利主義の特徴である「代替可能性」が明確になる
- 5章では人間の福祉を道徳の基盤としたマッキー自身の立場を「広い意味で功利主義的」と言った。
- しかし、量的測定・計算・交換可能性との結びつきはないのだから、そう言わない方が賢明だろう
7.道徳の可能性
- ここまでの教訓:第一階の道徳の内容は、効用だけを重視する功利主義よりずっと可塑的で選択の余地があるものであるはずだ。
- しかしながら、5章でみたような機能を果たすためには、道徳は個人が勝手に作れるようなものであってはならず、人が集団の中で互いのやり取りを通じて社会的に採用していかなければならない。
- 集団の大きさや特徴に応じて、道徳のありかたは変わるだろう。とはいえ、それは他の人が順守できることをかなりの程度期待できるものであるはずだ。
- 新しい原理を提案する際にも実行可能でなくてはならない。
- 我々の属す様々な集団がもつ道徳の断片は、目立った悪に対抗するのに役立っている。私たちはその道徳を利用・維持できるとともに、ほかの人と一緒に徐々により都合の良いものに作り替えていくことができる。