えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

二重結果原理はなぜ正しく思えるのか Scanlon (2008)

Moral Dimensions: Permissibility, Meaning, Blame (English Edition)

Moral Dimensions: Permissibility, Meaning, Blame (English Edition)

  • T. M. Scanlon (2008). Moral Dimensions: Permissibility, Meaning, Blame. Cambridge, MA: Belknap Press of Harvard University Press.
    • 1, The illusory Appeal of Double Effect(後半) ←いまここ

〔前半の要旨:二重結果原理は下の3つの事例での判断の違いを説明してくれるように見える。しかしトムソンが示したように、【トロッコ:ループ事例】を説明できないなど、理論的な問題が多い〕

【薬事例】
同量の薬によって、死にそうな1人と5人のどちらか一方が助けられる。ここで5人を選ぶのは許容可能である

【移植事例】
1人分の臓器があれば助かる人物が5人いる。この5人を救うために無関係の1人の人物を殺して臓器を取ることは許容不可能である

【薬/移植事例】
薬を投与すれば回復する重症の1人と、1人分の臓器があれば助かる人物が5人いる。この5人を救うために1人の方に薬を投与しないのは許容不可能である

【トロッコ:ループ事例】
1人が死なないとトロッコは帰ってきて5人が死んでしまうとする。直観的には、スイッチの切り替えは許容可能である。しかしこの場合、スイッチを切り替える人は、1人を殺すという明確な意図を持たなければならない。したがって二重結果原理によれば切り替えは許容できない。
f:id:emerose:20190126182457j:plain:w300

二重結果の魅力を説明する

[21]なぜ、二重結果説には魅力があるのか。トムソンは、行為の許容可能性の評価と行為者本人の評価の混同によると示唆している。患者を殺そうと思って致死性の痛み止めを投与する医者は、実際その行為が患者にとって良いものであろうとも、やはり悪人(a bad person)である。しかしここから、行為自体が許容不可能だということは[21]帰結しない。この見解には一理あるが、修正が必要である。というのも、「移植」と「薬/移植」事例における医者は、純粋に多くの人を助けたいと思いで行動しており、こうした医者が悪人だとは思われないからだ。従って、トムソンが示唆するように、この事例で行為が不正(wrong)だと思われるのは、その行為が悪い性格を指し示しており、そして私たちは行為と行為者の評価を混同しているからだーーということはなさそうだ。

 ただし、トムソンの指摘に含まれる真理は別の仕方で捉えられる。二重結果説の魅力は、道徳原理に関する二つの事実に由来する。[i]第一に、道徳原理というのはほぼ常に例外を許す。[22][ii]第二に、道徳原理は二つの仕方で使用されうる。一方では「批判の基準」として、他方では「熟慮の方針」として。熟慮的に用いられた道徳原理は、ある行為を許容(不)可能にする考慮事項を特定することで、「人はその行為をしていいか」という問いに答える。他方、批判的に用いられた道徳原理は、行為者が決定を下す際に適切な考慮事項を適切に考慮したかを問題するもので、行為者の行為の評価の基盤となる。[23]二つの使用法は密接に関係しているが異なる。なるほど、行為者が適切な考慮事項に従わなかった場合には、その行為は不正(wrong〔=許容不可能〕)だ。[*]だが、その行為を不正にしているものは、「行為者が」その考慮事項に従わなかったことではない。そうではなく、〔その行為が背いている〕適切な考慮事項なのだ。

 [24]こうした考えに、二重結果説の支持者は反対するだろう。というのも二重結果説の支持者は、行為者は行為の良さ(goodness of action)に導かれて行為すべきだ〔should〕と考えており、これは許容可能性について異なる説明を与えているように見える。そして、行為の良さを決定するのは意図だとされる。〔他方、スキャンロンの見解では、意図(=適切な考慮事項を適切に考慮したか)は許容可能性にとって重要ではない[*]〕[25]ところで、この対立はどのような性格のものなのだろうか。許容可能性という概念の適用の仕方について争っているのだろうか。それとも、〔スキャンロン側は〕許容可能性、〔反対者は〕行為の良さと、異なる道徳評価カテゴリーを用いているのだろうか。もし後者なら、例えば熟慮のような目的にとって、一方を重要だとする理由には何があるのだろうか〔。序論で言われた通り、この問いには直接は取り組まない〕。

 さて、[i]と[ii]によって、上で見た事例群に対する私たちの反応は最も良く説明される。こうした事例は全て、[i]例外がありうる道徳原理を問題にし、いつが例外なのかを問う構造をもつ。重大な危害が予想される行為は許容不可能であるとか、可能なら他人を助ける必要があるといった原理からの逸脱が、他人を救うためなら正当化されうることがまず示される(トロッコ、薬)。[26]だが常に正当化されるわけではないということが次に示される(薬/移植)。そしてこの時に、許容可能性を決定するのは意図だと思われてしまうことは、[ii]によって説明できる。〔薬/移植のような事例では、〕他人が助かるという考慮事項は、〔危害を禁じる〕道徳原理から逸脱した行為を正当化しない。しかし行為者は正当化すると誤って考えて行為してしまった。この時、道徳原理を批判的に用いれば、確かに行為者の意思決定にはまずいところがある。〔そして、批判/熟慮区別を混同していると、まさにこの、行為者の考え(意図)が、許容可能性を決定していると思われてしまう。〕[27]だが、許容可能性の問いに答えるのは熟慮的用法の方だ。こうした事例での行為を不正なものとしているのは、行為者には容易に助けられる人がいるという事実なのである。トムソンは、許容可能性と混同されるものとして、行為者の全体的性格評価を指摘したが、スキャンロンは意思決定の性質というより狭い点を問題にしている。

軍事上の事例

 以上の分析は、許容不可能な絨毯爆撃と許容可能にみえる戦略爆撃とを分けようとして意図に訴えたくなるのは何故なのかをも説明ししてくれる。[29]確かにスキャンロンの考えでも、士気消沈によって戦争を短期化するために非戦闘員を意図的に殺そうとする人は、不正に行為しているし、捨てるべき意図を持っている。だがこのことは、まさにその意図が許容不可能性を規定しているということではない。意図が不正なのは意図されている行為が不正だからであり、その行為が不正なのはその見込まれる帰結によるのだ。

 [30]許容可能性が意図に依存するという結論を導くもう一つの思考の筋がある。これは、意図の予測的重要性に関わるものだ。[31]通常、行為の結果というのは行為者の持つ意図によって異なってくる。その際、行為者の意図は爆撃の許容可能性に確かに関係してくるだろう。[32]ただし、ここで意図に与えられる重要性は、二重結果説の主張するようなものではなく、あくまで予測的重要性に過ぎない〔。第一義的に重要なのは帰結であり、それを左右する限りで派生的に意図が重要なのだ〕。

移植事例たちの再検討

 元々の病院の事例に戻ろう。関連する道徳原理は、殺さない責務を指定するもの(移植)と、できるなら他人を援助する責務を指定するもの(薬/移植)だ。[33]そして、生きている人から臓器を取るのはそれが他人の利益になる場合でも許容不可能だが、死んだ人の臓器なら移植してもよい、と前提されている。だからこそ、移植、薬/移植事例で医者は患者を〔まず〕死なせることが必要になっている。以上を踏まえると、「他人を救う可能性は、殺害の禁止の原理に対する例外を正当化するか否か」と問題を建てたくなる。

 だがこのように問題を立てると、こうした原理に例外があるという考えは奇妙なものになってしまう。問題を一般化した形で確認しよう。「ある人が生きている限り、私たちはその人にXする〔この場合、殺さない〕義務がある。もしこの義務から自由になった場合、私たちは何か他のよいことができる。以上のことは、その人を殺したり助けないことを正当化するか?」。答えは明らかに「しない」だ。[34]このことは、人は自分の臓器に特別な権利(claim:請求権)を持つという考え方には依存していない。いかなる道徳的権利についても同様のことが言える。例えば、なるべく多くの人命を救えるように生命維持装置を分配しなければならないとしよう。このとき、ひとたび装置を配分されたある人から、より多くの人命を救えるという理由で装置を取り上げることは許容可能だろうか。許容不可能だと前提しよう。加えて、この人はすぐに治療しなければ死に至る病に侵されているとしよう。さて以上の仮定を踏まえた上で、この人の生命維持装置を別の人に移し替えれば多くの人命が助かるという事実は、この人を治療する義務から私たちを解放するだろうか。する、という答えはやはり馬鹿げている。

 [35]一般化しよう。「ある人が生きている限りその人に何かをする義務を私たちが持っている場合、その人が死んで私たちがその義務から解放されるによって利益(advantage)が生じるとしても、そのことは、その人を殺さないよう求める原理や、容易に可能ならばその人の命を助けるよう求める原理に対する例外を、正当化するものではない」。薬/移植はまさにこれに当てはまっている。他方で薬事例では、確かに行為者は一人の人を助ける義務から解放されているが、それはその人の死によるのではない。

 したがって、薬/移植事例で行為者の行為を不正なものにしているのは、行為者の意図ではないのだ。[36]この見解と二重結果説のもう一つの違いにも触れておこう。二重結果説によれば、移植、薬/移植、絨毯爆撃における行為には類似性がある。どの行為も、より大きな善のために無罪の人を殺すことを意図している点で、不正なのだ。しかしスキャンロンの見解では、事例の類似性はより抽象的なレベルにある。たしかにどの事例でも、行為者は一定の要因を、道徳原理に対する例外を正当化するものだと誤ってみなしている。ここが共通点である。ただし、何が問題の行為を不正(許容不可能)なものにするのかは、なぜその行為が例外ではないのかに関する原理や説明に依存している。このより実質的なレベルでは、各事例は互いに異なっている。