えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

プレディクティヴコーディングと自己の感覚 Hohwy (2007)

http://citeseerx.ist.psu.edu/viewdoc/summary?doi=10.1.1.85.7794

  • Hohwy, J. (2007) The Sense of Self in the Phenomenology of Agency and Perception

アブスト

行為者性と知覚の現象学は、おそらく生成モデル化とプレディクティヴコーディングを基盤とした共通の認知システムに裏うちされている。この認知システムが、行為者性と知覚において自己をもつという感覚の中心的な側面を説明してくれるという仮説を私は擁護する特にこの認知モデルによって説明されるのは、最小自己および物語的自己という現象学的な観念である。こうした提案は、脳機能全般に関する影響力のある研究とも関連しており、また精神病理学とも関連がある。このような物語的自己や最小自己といった自己に関する捉え難い観念は、行為者が世界を表象しそこにおいて行為することを基本的な目的にした、一般的な認知メカニズムの自然な産物であるという事が示される。

1.序

・行為者性と知覚の現象学には、「最小自己」の感覚がむすびついている(ある運動が私によって遂行された、ある知覚経験が私によって持たれた、という感じ)。また自己と密接に結びついた三つの主要な認知的課題がある

  • (1)行為者性と身体運動における自己:自分の身体や環境の変化のうち、自分の行為者性によるものとそうでないものとを識別する
  • (2)知覚における自己:ノイズの多い感覚的信号の実際の原因を表象し(現実検討の一部)、「ある」と「みえる」を識別する
  • (3)計画と注意における自己:自分の現在の課題、計画、選好に関係し注意を払うべき環境の原因と、そうでないものを識別する

・行為者性の現象学における自己の感覚は、再求心的な信号を予めモデル化する認知システムによって説明されると言う提案がある。ここから次のような仮説を提起・擁護する。

  • 【仮説】

・このシステムが3つの認知課題を解決してくれるのではないか
・このシステムは知覚や注意おける自己感覚の主要な性質も説明するのではないか

⇒結論:自己の感覚の主要な性質は脳の統一的な認知システムの性質に裏打ちされている。最小自己の感覚の本性は、予測によって保持される「新しい感覚入力を既に知っているという感覚」にある。また、物語的自己の本性は、「課題における自分の役割の熟考と、その課題への没入との間のシーソーの感覚」にある。行為者性と知覚における自己は、予測しつつ熟考する自己である。

2.行為者性における予測する自己

予めのモデル化

・「自己によって始められた運動」と「外的に始められた運動」を区別するために、運動指令の遠心性コピーを使って運動を予めモデル化するという方法がある。これにより、行為の再求心的な感覚的帰結を予測することが可能になる。この予測は次の2つと比較される

  • (i)意図された状態:運動の執行が意図された状態と一致しないとわかった場合、主要な誤差を素早く訂正することが可能に
  • (ii)実際の感覚的帰結:モデル化された運動が、実際の運動の再求心的な入力と一致しない場合、運動の素早い訂正が可能に

⇒どちらの場合でも、環境の意識的なモニタリングなしに、運動を素早くオンラインで制御し、事後的な調整を行う事が可能に。
・そうすると、2つの運動は次のように区別出来るようになる

【自己によって始められた運動】先行するモデルは再求心的な信号と比較される。信号がモデルとフィットして減衰し、伝達される誤差信号は比較的小さくなる。
【外的に始められた運動】再求心的な信号の減衰は伴ってこない。

最小自己の感覚(私のもの性)
  • 【最小自己の感覚】

・最小自己の感覚の中心的な側面は、ある経験を、「自分によって」意図され、始められ、制御されているものとして経験するという点。複数の別の運動を貫いて(同じものとして)現れる延続する自己を持つという感覚は伴わない。むしろ行為者性の感覚は、ある見かけの現在において、これは「私の」運動であるという感じと共に現れる。

  • 【(ii)の側面:予測と実際の感覚的帰結との比較】

・予測された信号は減衰され、誤差信号はわずかな食い違い分しか生じない。行為中に生じる「制御しているという直接的で意識的な感覚」は、予測されたものに活動的でオンラインの制御を行う必要が「ない」感じとして生る(入ってくる信号に注意しなくていい分、感覚は非観察的で直接的)。私のもの性とは、運動の感覚的帰結が生じた時、すでにそれに親しんでいるという感じである。

  • 【(i)の側面:意図と予測との比較】

・ここでも恐らく最小自己の感覚が生じ得る。(実際の知覚的帰結と同じように)意図された状態がモデルとの比較を通じて処理されるなら、両者が一致している限り、行為者は自分の意図に関して「親しんでいる」感じを持つ。食い違う時、モデルは意図された状態と合致しそこねている。食い違いが小さい場合モデルが改定される。大きい場合には適切なモデルが存在していないということであり、行為者は意図を撤回しなくてはならない(運動は、自動的なものとして〔感じられる〕)(例:エイリアンハンド症候群)。この見解は、我々は意図に基づいて行為するその直前になるまで自分自身の意図に気がつかないということを含意するので、議論の余地がある。しかし〔これは行為内意図に関する見解なので、行為に先立つ〕長期的な意図に我々は気づいていることとは整合的。またリベットの実験とも整合的(脳が運動の準備をした少し後に動こうという「衝動」に気づき、実際に運動がおこる以前にそれが始まったという気付きを持つ)。さらにフッサールの言う経験の構造の未来予持の側面とも親和的。

3.知覚における予測する自己

知覚と生成モデル・プレディクティヴコーディング図式

・今見た運動制御モデルには計算論的な問題(望まれた結果から原因を推論する逆問題)がある。これは、予めの生成モデルと予測を使って解かれる。運動指令に基づいたモデルから、それが行使された場合の感覚的帰結の予測を推論し、その結果が望まれる状態に合致すれば、その指令を行使すべきである。知覚システムも生成モデルとプレディクティヴ・コーディングを行って逆問題を解決する〔詳細は省略〕。
_このような知覚の理解の図式の特徴は「知覚による現実検討」という観点からうまく捉えられる。感覚入力それ自体は「みえ」の表象であり、主体は将来の入力を予測することで、その信念を「実在」に対してテストすることが出来る。こうして「存続し続ける外的な世界」と「つかの間で主観的なみえ」とが区別される。

知覚の生成モデルと最小自己の感覚 p. 7: 3

・「ある−みえる」の区別を可能にする知覚システムは、自己の感覚とも深く関連する(この能力が損傷すると「どこで心が終わって世界が始まるのか」をトラックする能力が失われる)。そこで、このシステムは知覚における最小自己の感覚も説明するだろう。

  • 【基本アイデア】

・主体が真正の知覚へ移行しようと努めるほど、感覚入力はますますよく予測されるようになる。そして、感覚システムに与えられるものへの親しみの感じが獲得される。

・親しみのあるものは何らかの意味で「私のもの」なのだとすれば、このアイデアで最小自己の感覚が説明される。
・現象学的な視点によれば、視覚的知覚の現象学にも最小自己の感覚がむすびついている。従ってこの感覚も、自己への直接的、前反省的、非観察的なアクセスだと考えられる。
・(自己の感覚には、意識の流れの変化を通じて繰り返し現れる面もある(「物語的」自己同一性)。しかし〔物語的自己によって統一される〕諸経験は、裸の自由に浮遊した表象ではなく、自分の経験だと気づかれるという様相で与えられていると考えられる。)
・知覚における最小自己の経験が位置づけられるべき認知的な準拠枠は、見かけの現在において役割を果たすようなものでなくてはならない(ので、物語的なものではありえない)。そこで提案ーー

  • 【提案】

・知覚的な最小自己の経験は、知覚されるものが予測され既に親しみを持たれているという経験として解釈できる(この意味での自己の感覚は、知覚対象を自伝的な物語の中に位置づけることが出来ない場合にも生じる)。また、知覚されたものが予測されたものとあまりに違う場合には、最小自己の感覚ではなく、当惑・異質の感覚が生じる。

・最小自己の感覚は非観察的で前反省的 ←説明:表象内容ではなくその与えられ方に関係するから
・最小自己の感覚は意識の背景にある ←説明:入ってくる感覚信号が減衰した時に生じるものであり、注意が向けられるものではない
・反論:推論主義・主知主義的すぎないか ←再反論:知覚的推論はサブパーソナルな計算で自動的に行われる

⇒知覚と視覚的知覚における最小自己の感覚を統一的に説明できた。最小自己の感覚は、運動・意図の感覚的帰結を予言する内的なモデルを持つことと、実際の感覚入力という観点から理解できる。
・この提案は、知覚と行為者性に密接な結びつきがあると言うアイデアとも親和的(予測をテストし、それにより最小自己を持つためには、主体はとにかく世界の中を動き回れなくてはならない)。

4.計画と注意における熟考する自己

脳の基準状態

・脳の基本的な認知的システムが生成モデルとプレディクティヴ・コーディングで特徴づけられるなら、感覚入力は脳活動を「決定する」のではなく、既に存在するオンラインの表象を単に「調整」するものと把握されるべきである。その場合脳画像化の研究は、入ってくる感覚的な信号と予測がどうつき合わされるか、モデルがどう改定されるか関係することになる。そして、安静状態にある脳は、各々部分で酸素の消費率と供給率がだいたい等しいことから、ある程度の代謝を伴う基準状態があると考えられる。その中で特に代謝率が高いのは、両外側頭頂皮質とともに内側前頭前皮質と内側頭頂皮質を含む領野。

  • 内側前頭前皮質と内側頭頂皮質は、自己反省的な課題(自身について明示的価値判させる等)で基準状態と比べて活動するもので、自己意識の感覚が可能となるために重要と考えられる
  • 一方、主体が目的指向的で注意を必要とする課題を成功裏に遂行すると基準状態と比べ「非活性化」する。これはその活動への没入に対応すると考えられる(文字通り「無我」夢中状態)。(Gusnard 2005)
  • また、複数の認知的なオペレーションを要求する課題でも活動する。ここから、自己の感覚は、現在の刺激から離れて、行動を計画し認知資源を順序付けする能力と結びついていると考えられる。(Gusnard 2005)

・Gusnardの提案は次の点で興味深い。まず、選好や計画をアフォードする世界の側面に注意を向けることが出来る行為者(課題3)としての我々のあり方を理解させる。この能力は「物語的」自己の特徴の一部。また、原−物語的自己の感覚を脳の基本的な機能に結び付けている点も興味深い。この提案によれば、基準状態を支点として、一方に自己反省、他方に注意をとる脳活動のシーソーがあるということになる(確かに計画や選好と反省的自己の感覚は互いに互いを前提しあうように思われる)。
・以上のような脳機能全般に関する知見は、生成モデル+プレディクティヴ・コーディングの認知的枠組みとうまく融合する。そこで、自己反省・安静・注意的没入の間にこの皮質のネットワークによって遂行される認知的なオペレーションについて思弁することが出来る。

認知的オペレーションに関する思弁 11:3

・課題に没入する前に、主体は状況と自分の役割を明らかにする必要がある。これは、反省的な自己意識を伴う高次の認知的なレベルで、データをうまく説明し望まれる状態をもたらしそうな知覚と行為の仮説に達しなければいけないと言う事である。こうして、反省的な自己の本性は「熟考する自己」として捉えられる。既存の仮説を誤差信号に照らして改定する時間的な側面が、延長する〔物語的な〕自己をもつ感じに寄与していると思われる。
・自己反省に関わる領野は、元の仮説が大規模なエラーを生み出すとわかった場合にのみ、その改定を助けるために活動するはずである。そして実際この領野は、良いモデルの選択が難しい複数要求課題において活動する。この領野が活動する2課題は密接に関係しており、自己反省課題は望まれる状況をもたらすため、複数要求課題は複雑なデータを説明するための生成モデル調整にかかわる。
・自己反省と注意的没頭のシーソーは、脳の至るレベルで見られる「反復による軽減」と呼ばれるパターンの一例と見なせる。ふつう、課題が最初に提示された時の神経活動は大きいが、習熟に応じて漸減する。このことは、最初の仮説を同定せねばならず〔最初は活動が大きいが〕、予測されない刺激が来ない限りは新しい仮説の探求は止めるべきである〔ので、慣れるとあまり活動しなくなる〕と説明される。基準状態は、全てが説明され欲求された通りの認知的に充足した状態であると、認知的に解釈できる。
・欲求に対する自己反省を運動のための意図(2節)と同じように扱い、欲求は生成モデル内での〔比較という〕処理を通さない限り我々に気づかれず、我々が自己反省的感覚を得るのは両者が一致する限りのことだと考えることもできる。不適合があると物語的自己の感覚が危機に陥る(Ex. 乖離性人格障害)。モデルは一種の整合的な「お話」なので、こうした欲求理解は〔自己に関して〕「物語り」概念を使用する根拠を与える。ここで、自己モデルはリアルな欲求と意図の産物なので、構築主義者的な物語的自己とは一線を画す。
⇒原−物語的な熟慮する自己は、行為者性と知覚における予測する自己と同じ認知システムのあらわれである。

5.予測と熟考がうまくいかない場合

・最小自己の感覚を説明する認知システムは、統合失調症における操作妄想の説明にも使われてきた(Frith)。

予めのモデルに問題 → 信号がうまく減衰されない → 自分で運動指令を出した運動が外的に始められたように感じる → その体験を説明する方法がない → 超自然的な力に訴えた説明に

・類似の提案が知覚の場面(幻視・幻聴)でもうまく働かないかどうか思弁してみよう。

知覚による現実検討能力のパフォーマンスエラー
  • 【基本原理】

最も高い事後確率を持つ仮説(最善の予測:最小の誤差信号と結びつくもの)が知覚内容を決定する 

→システムがうまくいけば感覚入力の真の原因がトラッキングされるので、このシステムは現実検討能力の根拠になる。
・知覚の場合、誤差信号が小さければ、感覚入力の原因は外に帰属される(「こうである」)。大きいなら内にあるいはノイズとして帰属される(「こうみえてるだけ」)。内的原因の表象が誤って比較的大きな誤差に結びついてしまった場合、内的原因は外的な原因として表象されてしまう(単なるみえが実在として表象されてしまう)。以上を踏まえて提案

  • 【提案】

精神疾患患者は、通常の現実検討能力を持っているが、その能力の運用が損なわれている。つまり、彼らはちゃんと最も予測され誤差信号の少ないものを知覚するのだが、予測コード化に何らかの問題があるので、そのモデルが実際には内的に生成されたノイズに汚染された非常に悪いモデルになっている。→ 幻視や妄想が生じる

論点

・予測コーディングのような確率論的ネットワークにとって有効なヒューリスティックは、感覚入力のIBEを行う事。現実検討運用の問題は、IBEのよく知られた問題点「推論した説明が、貧しい候補の中での最善にしかなっていないかもしれない」の現れである。
・この提案の利点は、患者の常軌を逸した知覚内容と現実検討遂行の機能不全を、一つの認知システムの中で結びつけたという点に利点がある。脳の基本的な表象・現実検討システムに〔両者の原因を求めたので〕、さらなる表象と現実検討の道が無いという点も重要。これは、患者の〔妄想的〕信念が〔更なる表象・現実検討によって〕改定されない・幻覚は再帰するという臨床的事実とも合致する。
・欲求と長期的意図は〔モデルにおいて処理されないと〕気づかれない状態だという見解は、その他の精神疾患的な経験の説明の手掛かりになる。Made emotion、や思考吹入やその他の受動的な体験、情動や思考が生成モデルが説明すべき気づかれない状態であるかぎり、同じような説明が可能である。
・予測的コーディングの崩壊は全面的なものはなく部分的・程度的なものだと考えるべき
・この提案では、統合失調症患者が知覚において持つ最小自己の感覚が小さいという点も説明できる。患者の予測は実際かなり貧しいので、健常者よりも入ってくる信号はうまく予測されず、親しんでる感じが少ない。

6.まとめ

 〔だいたい省略〕ここでの主張は、生成モデルと予測コード化を備えた全てのシステムが私のもの性の意識経験を持つというものではない(両者を実現した原始的なコンピューターは現象学を持たないので、あきらかにに偽)。とにかく意識を持っているシステムにおいて、それが何故「物語り」「私のもの性」といわれる内容・表象様式を特にもつのかを、2つに訴えて説明したのであった。