えめばら園

Philosophier' Er nicht, Herr Schatz, und komm' Er her. Jetzt wird gefrühstückt. Jedes Ding hat seine Zeit.

社会認知理論における自由意志 Bandura (2008)

Are We Free?: Psychology and Free Will

Are We Free?: Psychology and Free Will

  • 近年自由意志は、形而上学的にではなく、<人間が出来事に自分の影響を与える能力>という観点から分析されるようになってきている(Nahmias, 2002)。<自分の影響を与える能力>は、進化主義が提供する人間本性の構想のもとで理解されなければならない。進化によって言語や抽象的・熟慮的な認知能力が生じることで、人間は直接的な環境の指令から逃れ、状況や自分の生活過程を独特な仕方で形作る能力を手に入れた。この論文は、<人間は生活状況の産物であるだけでなく、それに寄与していくものである>という、社会認知理論の<行為者的視点>(Bandura, 1986, 2006)から自由意志に取り組む。
  • 人間の行為者性には4つの中心的性質がある。

1.意図性:意図を形成する能力
2.予見:将来の帰結を予見して現在の活動に反映させる能力
3.自己応答:自己制御過程を通し、行為が適切に進むよう制御する能力
4.自己反省:自分の行為者思考の適切性について反省するメタ認知能力

  • これまで人間の自己制御に関する多くの理論は、ネガティヴフィードバックループによって予めプログラムされた状態の平衡を保つという著名なサイバネティックモデル、Power (1973) の「制御理論」に基づいていた。しかしこれを人間に適用するのは不適切である(Bandura & Locke, 2003; Locke, 1994)。
  • なぜなら、人間は不一致状態を削減するだけでなく、むしろ率先的に作り出すからだ。人間は、不均衡の状態を自らのうちに作り出すことになる目的や規準を設定し、そして、その実現に向けて計画し、努力する。変化に野心規制、曖昧さ、不確実性に富む複雑な環境を通り抜けなければならない人間の自己制御は非常に複雑だ。しばしば対立し合う複数の目的、失敗の可能性への応答、知識と予想によるフィードバックの処理、ありうる戦略の考案、障害の排除、そして多くメタ認知の実行。人間の自己制御はサーモスタットの自己制御とは全く違うのである。

自分の行為者性の起源

  • 幼児において、行為者的能力は環境とのやりとりの経験によって社会的に組み上げられていく。3つの段階がある。

1. 環境中の因果性の知覚
・わずか一ヶ月から(Lent, 1982; Mandler, 1992)。
2. <行為による因果性>の理解
・他人の行為と出来事の生起の随伴の観察による学習(Mandler, 1992)。
・自分の行為が結果と時間的に距離がある場合、子供の注意をひき付けたりすることで行為による因果の理解は社会的に強化される(Millar, 1972; Millar & Schaffer, 1972; Watson, 1979 )。
・自分の行為が出来事を引き起こす直接的経験
・表象能力の発達により、より確率的で距離ある結果からの学習が可能に
3. 自分を行為者として認識
・【個人的側面】自分の行動からの固有受容感覚によるフィードバック、視覚その他の様相からの自己指示的な情報、自分の行為から生じた自分の経験(痛み等)による他人との区別化
・【社会的側面】名指されることによる自分の行為者性認知の加速:18ヶ月頃には自己指示的な言語があらわれる(Lewis & Broks-Gunn, 1979)。さらに20ヶ月頃には行為者の自分や自分の意図を記述する(Kagan, 1981)。

  • また、子供の行為者的能力はかなりの程度意図的に成長を促進される(Heckhausen, 1987; Karniol, 1989, Papousek & Papousek, 1979)。親は子供の行為の遠い結果を目立たせたり、活動を御しやすいよう区切ったり、対象の操作技術を挙げるために道具を与えたりする。
  • 〔子供が成長させる〕自己とは人格であり、人格性は人格の同一性や行為者的能力を伴った人間の物理的・心理的組成に宿る(Schachtman, 1997)。また自己とは〔通時的に〕単一のものである。(Ismal (2007) は、様々な情報を自分の経験からなるマインドセットを通して単一のものへと解釈・統合することが、行為における自己表象システムの時間的単一性を支配するプロセスであるとした)。
  • 人格の同一性は、人々が自分の生活をどう構造化し、世界とどうか変わるかに影響するため、行為者性にとって重要である。単に物理的連続性だけでなく、記憶や対人関係、信念や価値的なコミットメントの時間的な存続などのなかに人格の同一性は保存される。さらに、行為者としての連続性も重要である。人は連続性を自ら行為して作り上げていくものでもあるからだ(Korsgaard, 1996)

行為者性のモード

  • 社会認知理論は行為者性を三つのモードに分ける。すなわち「個人的行為者性」、「委任的行為者性」(他人を介して自分の目標を達成するという形で行使される)(Baltes, 1996; Brandstaedter & Baltes-Gotz, 1990; Ozer, 1995)、そして「集団的行為者性」(複数の行為者の協力により行使される行為者性)(Bandura, 2000)である。
  • 様々な文化圏において、個人的・集団的な効力感は、どのモードの行為者性を行使する際においても、機能的な価値を生み出す(Bandura, 2002)。しかし、効力に関する信念がどのように生じ、何のために、どのように発揮されるかは文化による。つまり基本的な行為者的能力共通だが、こうした能力をどう洗練させるかには文化差がある。

三項による相互の規定関係

  • 人間は自立的な行為者ではないが、刺激によってこうどうか完全に規定される訳でもない。人間の働きは、「個人的決定要因」「行動的決定要因」「環境的決定要因」の相互交渉の産物である(Bandura, 1986)。自由意志という概念は、この3者の布置の中で「個人的な決定要因」がどのような貢献をするか、という観点からとらえ直される。
  • 人間の働きに関する心理社会的説明は、しばしば人間を外的環境に対する反応器として描いてきた。しかしこれでは、人間の行為の持つ熟慮的で率先的な側面に余地がない。一方で社会認知モデルは、環境を3つに分ける。行為者の制御が殆どきかない「課せられた環境」、行為者が自ら選択して生み出す「選択された環境」、そして「創造された環境」〔説明無し〕である。
  • 情報社会の発展はますます我々を対人的交渉の環境の中に置いた。また環境には内的なものもある。内的生活の自己管理は行為者的プロセスの一部だ。この点に関して、意識の自己制御という観点から多くの研究が行われてきた(Bandura, 1997; Lazarus & Folkman, 1984; Rosenthak & Rosenthal, 1985; Wegner, 1989; 神経基盤について Anderson et al., 2004)。
  • 外的環境にだけ注意を払うのではなく、3項のそれぞれを包括した原因の分析を行うべきである。

人間の行為者性と社会構造の相互作用

  • 人間の個人的行為者性は、社会文化的な広範な影響の下にある。社会的な影響が行動に効果をもたらすことは既に示されてきた。しかし、人々はそうした環境を生み出したものであるという点を忘れてはならない。

3項の決定と自由

  • 社会認知理論の視点からは、自由とは単に選択における外的制約の欠如ではなく、行為の制御や内的生活の自己管理によって、望ましい状態や目標にむけて自己の影響を行使するものとして、積極的に理解される。個人的決定要因は3項の共決定のうちの1項であり、自由と決定は両立する。
  • また、人間は能力、自己制御スキル、自己効力信念を発達させることで、自分の行為の自由を拡張させる様々な手段を持つことが出来、望ましい未来の実現により成功するようになる(Bandura, 1986)。
  • ただし絶対の自由は無い。自由を得るためには、自律の放棄が必要な場合がある(交通規則が無ければ交通は誰にとっても制御できないものになる。)
  • 社会的レベルでは、自由の行使は「権利」を含む。各々の社会は社会的制御を維持するために様々なサンクションを設立する。

偶然性を行為者的に管理する

  • 人生は一見重要性を欠く偶然事に満ちているが、かえってそういう出来事が人生の折目に大きな影響を与える(たまたま隣の席に座る→結婚)(Austin, 1978; Bandura, 1986; Stagner, 1981)。
  • 心理学は偶然の交錯の生起については殆ど言うことがない。しかし、偶然が人生にどう影響するかを調べることもできる。幾つかの研究は、一定の本人・環境の属性を、交錯が人生に及ぼす影響の本性・範囲・強さの予測因子として同定している(Bandura, 1982, 1986)。
  • また、どういう種類の人、状況、他人、によってどういう交錯が起きやすいかを知ることは出来る。活動的な人生(Austin, 1978)、興味・出来るという信念・能力を開発すること(Bandura, 1998)は、予想外の機会を増やす。これらの率先的な活動は、偶然に対してはたらく行為者的な管理である。

人間行動の遺伝子化

  • 今日では人間の行動の遺伝子化が進んでいる。人間の情報処理システムと物理的な能力は生物学的に与えられており、それは制約となるのだが、人間の働きの多くの部分で文化差の余地が残されている。Gould (1987) が指摘したように、説明上の論争は「氏か育ちか」ではなく、自然が文化に課す拘束が「緊密」か(決定論;Wilson, 1988)「緩い」か(可能性論)、である。
  • 人間の文化の多様性を鑑みるに、可能性論がただしそうだ。例えば人間は暴力的行動のための生物学的能力を持つが、文化は暴力性に関して多様である(Alland, 1972; Gardner & Heider, 1969; Levy, 1969)し、文化内でも多様性がある(Bardura, 1973)。

共進化のプロセスにおいて人間の行為者の優位性が育つ

  • Dobzhansky (1972) は、人間がその行動の学習可能性と可塑性によって選択されてきたことを我々に思い出させる。生得的なプログラムが制限されているために、人間は重要な能力をマスターするのに長い発達を必要とするし、人生における生活状況や規範の変化に対応するために絶えず自分を新しくしなくてはならない。
  • 人間は進化の圧力によって一方的に作り上げられた産物ではなく、共進化において重要なプレイヤーである。人間は行為者性を使った発明により生物学的限界を突破し、淘汰圧から逃れ、他の生き物の遺伝子的組成を作り替えるに至っている。しかし人間は進化の遺産を変化させ、未来を創ることのできる、行為者的生物なのである。
  • 勿論、人間の適応と変化を可能にするのは生物学的に与えられる神経的な構造・機構である。今の争点は、人間的固有の事情の由来を有史以前の条件に求めようという昨今の風潮である。人間がいかに過去の遺産を変化させているかに関する研究は、現在における人間の非常に多様な適応パターンについて新しい洞察を与えるだろう。

行為者的でない理論的アプローチ

  • 最近の心理学は、行動主義から認知革命を経て、さらにコネクショニズムに至る歴史をたどってきた。コネクショニストの中には心的状態に関する消去主義者もいたが、認知は内容を持った心理的要因であり、認知の持つ意味はそのことがどう説明されるかとは関係がない(Greenwood, 1992)。フロギストンとのアナロジーに関して言えば、フロギストンが何の説明・予測上の価値を持たないのに対し、認知的な要因は両者を極めてよく可能にする。このため、別の言語に置き換えられる可能性はあるが消去されたりはしない(Rottshaefer、1985, 1991)。
  • 行為者的でない理論は、〔刺激と行動の〕仲介システムとして何をおくかの点で様々である。非因果的通路をおく根本的行動主義、線形の中枢的処理器をおく計算論的認知論、相互に関連したニューロン的なサブユニットをおく並列分散型のコネクショニズム。これらはしかしどれも、ボトムアップドリブンな因果性「インプット→スループット→アウトプット」を共通図式とする。
  • 他方で行為者的な理論においては、自己観・信念・目標・予測・マインドセットといった認知的要因が、ボトムアップの入力の解釈・組織化・記憶のされ方に影響を与える。このような見解は、すでに様々な種類の知見によっても示されているし(Windmann, 2005)、最近では単一ニューロン記録法によって、ボトムアップ入力とトップダウンの制御のダイナミックな相互作用に新たな光があたっている(Naya, Yoshida & Miyashita, 2001; Tomita, Ohbayashi, Nakahara & Miyashita, 1999)。
  • 非行為者的見解は行為者的能力や、機能的意識、人格の同一性を鳴きものにしてしまう。Harré (1983) は計算主義的分析を行うなかで、感覚をもった個体ではなくそのサブパーソナルな部分が〔人間の〕活動を無意識のうちに編成組織していると述べた。しかし実際には、環境に基づいて行為し、環境を想像、保存、変化、破壊するのは人である。

人間の行為者性に関する物理主義的理論

  • 心は実体でもなければ、解剖学的に分割された物的存在者が互いに作用しあう心−脳構造でもない。相互に緊密に結ばれた脳のシステムが、様々な機能を果たしつつその働きを制御しているのであり、心は階層的に埋め込まれたシステムの一部である。
  • 規則ベースで目的指向的な行動に対するトップダウンの認知的制御には、感覚運動システムや辺縁系と密接に結びついた前頭前皮質が本質的な役割を持つ (for review, Miller & Cohen, 2001)。また、肢体麻痺により感覚運動機能を失った患者に対する神経運動補綴も、行為のトップダウンの制御のさらなる理解を与えてくれる(Hochberg et al., 2006)。自己制御中に生じる、外界の出来事と自分の思考との間でのワーキングメモリと注意の配置転換や、支配的な外的刺激からの一時的な非難には、前頭前および側頭の領域が関わる(Gusbard, 2005)。また脳は自己表象の社会化やアイデンティティ形成を通じて訓練されるので、自己の意図に関わる神経回路は他人の意図認識に関わる回路とは異なる(Becchio, Adenztor, & Bara, 2005)。
  • 自己表象システムの機能的性質は、人格の同一性や自分の能力の肯定、価値に結びついた目的、予見を可能にする条件的関係、自己応答的能力、道徳性などの拡張された学習や社会的経験を通じて発展する。自己を自己表象のシステムと見るか、それともサブパーソナルに作動する連合ネットワークの束と見るかという違いは、鬱による機能不全の理解にはっきり現れる。後者では、失敗が過去の失敗に結びついたネットワークを活性化させるとされる(Teasdale, 1988)のに対し、前者では無力で価値の無い人格としての自己表象が失敗により活性化するとされる(Bandura, 1997)。
  • 認知的活動は意識に上ることがある。意識には、(非)反省的な気づきという側面と、主に言語的媒介を介して作動する概念的機能的側面がある。機能的側面には、行為を選択・構築・制御・評価するために情報に目的をもってアクセスし、それを熟慮的に処理することが含まれる。
  • 昨今、意識に関して様々なかたちの還元主義・消去主義をとるものがいる。しかしこうした見解は、主観性・熟慮的な自己指導・反省的な自己応答といった人間性の重要な特徴を亡きものとしてしまう。現象的および機能的意識無しでは、人間は高レベルの自動機械であり、意味にあふれた現象学的生活や、自分の生き方から派生してくる人格の同一性を持てない。
  • 意識は高階の制御機能を伴った創発的な脳活動である。このような見解は様々な説明すべき課題を生む。なぜ意識は人生の間全てを支配する場のように作動するのか(そんなものないのに)、どうやって脳の低レベルの処理から心が創発するのか、何が意識的になるかはどうやって決まるのか。認知的・行動的戦略を使うことで自分の意識を抑制することが出来ることは既に分かっている(Bandura, 1997; McCaul & Malott, 1984; Wegner, 1989)。研究者はこうした恐るべき研究課題を前にして、ホムンクルスを登場させないようにしなければならない。

神経心理学的プロセスの2階の制御

  • 行為者は自分の神経メカニズムに気がつく事もそれを直接制御する事も出来ない。しかし、関連する行動を積極的に行う事によって、間接的な、二階の制御を行う事が出来る。だから行為者は、自分の行動を指示する自動機械の宿主にすぎない訳ではない。

率先的な行為者 vs 傍観者的な宿主

  • 人は、自分の行動を自動的に創造し規制するようなサブパーソナルなネットワークをただ傍観しているようなものではない。目的をもって活動や思考(Pascal-Leone, et al., 1995)にとりくむことにより、自分の活動に対して寄与を行うものでもある。
  • 非還元主義的物理主義は、全ての心理的現象は物理的基盤を持つという。しかし行為者的パースペクティヴからの研究は、人間の活動を支える解剖学的な局在と脳の回路を〔の研究をさらにこえて〕、行動によって脳がどう発達しその機能がどう組織化されるかにかんする知識を研究する(Dawson, Ashman & Carver, 2000)

非還元的物理主義

  • 行為者性の理論は還元主義の問題を呼び込む。特に問題となるのは認識論的還元主義(高次の心理・社会的な現象を司る法則は、究極的には原子・分子レベルで働く法則に還元可能である)である。
  • でも心理学を生物学に(ネーゲルの意味で)還元する事もできない。例えば、心理学は、一定の個人的・社会的な帰結を促進するためにどのように環境を構造化すればよいのかに関する原理を発見しようとする。この種の理論家は、神経生物学のレベルに対応する概念を持たない。

人間の働きに対する行為者的な寄与を無視すること

  • 意識的認知が効力を持たないことを示すとされるデータを検討する

【自動性】

  • 例えばタイピングにおける素早い指の動きは思考で制御できない(Wegner, 2002)しかし、認知には別の働きがある。問題となるスキルについての概念をもつことで、試行錯誤学習をショートカットする事が出来る。
  • 熟練した行動はルーチン化する。しかしそこでも認知的な自己制御は働き続けている。例えばバッターは、わずかな手がかりからピッチングを予測し、スウィングを調整しなければならない。
  • 多くの行動は自動的側面と認知的なガイドの両方を含むし、認知的ガイドはスキルの発達や状況に変化を与える事が出来る。

【リベットの実験】

  • 方法論的問題が多い。
    • 教示に用いられる「欲求」「衝動」「やりたみ」は互換可能ではないし、そもそも「意図」ではない。
    • 被験者は複雑な注意が必要となる状況下に置かれる。それにより、意図の生起、意識化、登録registoryの各ステップにタイムラグが生じ、意識の経験は明らかに実際に計測された時間より早くなるはず。
    • 意識的気づきは一瞬の経験ではなく継続的な出来事である
    • 生態学的妥当性。積極的な認知的制御の欠如

【ポストホックな推測】

  • Nisbett and Wilson (1977)「行為は無意識的な人に的過程にガイドされ、意識的認知はその原因についての単なる後付けの推測である」。
  • 実験デザインがおかしい。後から行為の理由について尋ねるのではなく、行為中の思考を測定すべきである。Ericssson and Simon (1980) の膨大なサーベイは、行為中に思考を査定した場合には、自分がどのように行為しているかに関係する認知プロセスを言語化できる事を示している。

本能的行動による組織化

  • いかなるガイドもない自動的なサブシステムによって一見協調的な行動がおきる場合があるとされる(昆虫の社会的組織化など)。でもこれを人間の行為に一般化することはとてもできない。

道徳的行為者性

  • 道徳的行為者性の行使は、自己賞罰による行為の制限/支持を通じておこなわれる(「抑止的」側面と「積極的」側面;Bandura, 2004a; Rorty, 1993)道徳的思考は自己反応的な制御メカニズムを介して道徳的行動に変換される(Bandura, 1991b)。
  • もし行為が神経システムの無意識的働きの産物なら、行為者に責任を問う余地がなくなる。これは非行為者的理論にとって挑戦で、リベットもWegner (2002) (モジュラー随伴現象説)も部分的な意識的制御を認める。
  • Roskies (2006) は、神経科学は脳が決定論的かどうか教えないので道徳が脅かされたりはしないと論じた。しかし、人間が行為者的能力を発揮して行為を制御したり社会システムを作ったりできないのなら、責任の存在を信じることは個人的にも社会的にも何の効果も持たない。
  • むしろ神経科学が道徳的責任に影響を与えるかどうかは、それがどのように理論を作るかによる(行為者的熟慮的モデルか、それとも無意識の反応的モデルか)。
  • 道徳的行為者性を発揮する中で、人は行為を決定する「個人」「行動」「環境」の三つ組みに寄与しているのであり、その分責任はあるのだ。

結語

  • 行為者的でない理論は行動主義だよ!!