Practical Reflection (David Hume Series)
- 作者: J. David Velleman
- 出版社/メーカー: Stanford Univ Center for the Study
- 発売日: 2007/04/24
- メディア: ペーパーバック
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- Velleman (2007) Practical Reflection. Stanford University Center for the Study.
Ch. 2 Self-Awareness
【要約】
行為をする時、私たちは自分が何の行為をしているのかを観察によらず知っている。私たちはこのような「行為の知識」への欲求をもち、そしてこれは次の行為を予想したいという欲求なのだ。というのは、予想した行為をし、そして予想していない行為を抑制することにより、自分がしている行為を知っていることが可能になるからだ。だが物理的・心理的障壁を除いたとしても、自分が行うと予想できる行為はたくさんある。しかも、予想の形成により動機のありかたがかわる(予想している行為への動機は「行為の知識」への欲求の支持を受けて強まる)ので、事前の動機のありかたはどの行為を予想すべきか指定しない。従って行為の予想は、事前の十分な証拠なしで、自分の選好に従ってえいやっとやるしかない。だがこのことは、その予想が無根拠であることを意味しない。というのも、予想した行為をする傾向性が自分にあり、そして実際に可能な行為を予想しているなら、一度ある行為の予想を形成してしまえば、私はその行為を実際にするだろう。つまり一度ある行為の予想を形成してしまえば、自分はその行為をするはずなのだから、この予想は十分根拠があることになるのだ。信念の証拠という認識論的問題は、その信念をもたらした誘因は何かという心理の問題と混同してはならない。
- 「行為の知識」を形成する能力である「自己意識」とその自発性がテーマ
- 行為の知識は観察や推論を必要としない
- 行為する時には既に行為の知識を持っている
反省的監視とその欠点
- 説明の要点:「実際に行為しているかどうかを知りたいという欲求」
- 自分の動きに注意を払うことで「行為の知識」を得ることも出来るが……
- 欠点:遅すぎる&広い記述のもとでは知れない
反省的見通し
- 行為がもれなく気づかれるのは、私たちはその行為を先に見通しているからだ。
- 自分が何をしているか把握したいという欲求は、「次に何をするかの予見」を可能にしたいという動機である。
- 現在の証拠からの予測も出来るが証拠の多くは不明瞭で誤解を招く
- 自分が何をしているか把握したいという欲求は、「次に何をするかの予見」を可能にしたいという動機である。
反省的見通しのための2つの手段
- だが、次の二つの関連する方法によっても反省的見通しは得られる。
- (1)自分がするだろうことを予期する
- (2)既に予期していたことをする
- どちらの方法でも、ある行為をするときには、それをすることをすでに予期していることになる。
- (1)自分が結局することになることをすると予期していれば、その行為を実際するや否や、あなたは自分が何をしているかを知っていることになる。
- そして「自分が結局することになることをすると予期する」とは、(2)「予期していたことを最終的にする」(=他のことは抑制する)ことと同じである。
- 従って、ちょうど予期していた行為だけをすることで、「行為の知識」を手に入れることができる。
- そして「自分が結局することになることをすると予期する」とは、(2)「予期していたことを最終的にする」(=他のことは抑制する)ことと同じである。
補助的手段
- しかし単なる見通しは自己意識に十分ではない。あらかじめ見通していても、〔行為の段になったときには〕自分が何かを始めていると知ることなく、行為を始めているということがあるかもしれない。
【第一の補助手段】
- だが、何の行為をするかを知っていれば、その時点で注意を払っている限り、実際その行為をしているということを見て取ることが出来る。
- 行為の時点で注意を払っているためには……
- (1)その行為をするまで注意を払っておく
- (2)注意を払うまで行為しない
【第二の補助手段】
- 単なる行為の見通しではなく、いつどこで行為するかを見通しておく
- この時、ある時・場所で行為を始めているなら、その時・場所はすでに見通していたものだろう。
- 従って「行為の知識」への欲求は複雑な仕方で行為をフィルタリングする。
- 次の行為が予想できるまで、何もしないよう抑制する。ある行為が予想されると、他のことをしないよう抑制する。そして、注意を払うか、今が行為の時だと確信するまで、その予想された行為も抑制する。
反論
- 予期するまで何もしないのなら、そもそもなぜ予期できるのか?
- この問いに以下で答える前に、まず別の反論を片付ける
【おさらい】
- 反論:「自己意識」への欲求なんて感じない!
- この欲求は、ある別の欲求を実現する行為へと行為者を動かすことで、多様な欲求のバランスを傾かせるものであり、〔特定の行為をもたらす〕第一の欲求ではない。そのため、必ずしも感じられない。
- 期待や抑制は、意識的に熟慮のうえでなされるものだと理解してはならない。
【反例?】
- 「声を荒げそうだ」という気づきがあっても、その気づきによってむしろ声を荒げるのをやめるということがあるのではないか。
- (反論A)それは「話し続けるなら私は声を荒げるだろう」という〔条件付きの〕期待で、声を荒げることに対する積極的期待ではない。
- (反論B)また積極的期待がある場合でも、自己意識への欲求は単に期待された行為に反対する欲求によって上回られているだけ。
【失敗】
- ある行為への期待は他の行為への動機という障壁を除くが、物理的障壁は除けないので期待は失敗することがある。だが、問題は懐疑論ではないので、通常基準での正当化があればこの期待は知識を構成できる
【正当化】
- だがその正当化はどこから来るのか?
- 期待の気づきと期待したことを行う傾向性により十分正当化される。
- 期待を正当化する証拠には、「その期待を持っていること」が必ず含まれるので、期待の形成は十分な証拠無しでおこなわれなければならない。だがここでは、「期待したことをする傾向性」に頼ることができる。
反省の方法
どれだけ証拠に従わなければならないのか
- 「期待したことをする傾向性」は、証拠とは無関係にあらゆる行為への期待を資格づける[entitle]のではない。
- 物理的障壁や対抗欲求など、予測した行為をしない/できないことへの証拠がある場合には、当の行為を期待する資格はあたえられない。
どれだけ証拠を超えていいか
- それでも、期待すれば実際できるしするだろう行為の候補は複数残る。
- もちろん、行われるだろう行為は最強の動機群に支持される行為なのだが、予測(と抑制)の前後で動機の強さが同じとは限らないため、既存の証拠はどの候補が期待されるべきかを指定しない。どの行為がなされるかは何を期待するかに(ある程度)かかっている。
- そして期待されるやいなや、その行為は自分が行うだろう行為となる。
どれだけ期待は正当化されるのか
- ただし期待が抱かれれば、それは他の候補よりも正当化されている。事前の「Xを期待すればXするだろう」という(不十分な)証拠に、いま「Xを期待している」という証拠が加わり、〔他のことは抑制されるので、〕その期待を抱くことにははっきりした根拠があることになる。
- 従って、反省的期待は証拠には基づくのだが、それは自分がその期待を持っていることの気づきを最も重要な部分として含んでいる。
心理の問題と認識論はどう混同されるか
- 「「行為の知識」は証拠と関係ない」という説が唱えられてきたが、これは、「信念の根拠」と「信念の誘因[occasion]」を混同している。
【例】
「医者がナースの前で、患者に「看護婦が手術室までお連れします」という時、この発言は意図の表現であるとともに[…]患者に対して情報をあたえ、また
命令を与えるものでもある。そしてこの命令は、証拠に基づく未来のみつもりでは全くない[……]」(Anscombe *Intention*)。
- 発言しなければナースは動かないのだから、「ナースがお連れする」という発言は証拠によって引き出された[occasioned]のではない。だがこの発言は、「ナースは暗黙の指示を理解し従う傾向にある」という証拠に基づく。
- 同じように、反省的期待が証拠に基づかないという主張は、証拠がその期待を誘起したわけではないという事実からの誤った帰結なのである。
【認識論的問題】
- 信念は「形成されれば証拠に支持される」のではダメで、「証拠に支持されて形成される」必要があるという人は、「根拠-誘因」区別を認めている。だが、前者がダメで後者はよしとするような正当化の規則を用いるのはおかしい。
- 正当化の規則は真理を最大化する方法である。そして今回の場合「この信念は形成されれば真となる」という証拠はあるのだから、こうした真理に到達できる信念の形成を禁じるのはおかしい。
反省的期待はどのように形成されるか
- では、なぜ行為者は期待する行為について一定の結論へと飛躍するのか。
- 大部分の場合、ある結論へ飛躍すれば実際その結論が正しいものとなるという見通しに魅きつけられている。
- 行為者はある行為を欲し、また自分の行為を知りたいとも欲する。どちらの欲求も、「まさにその欲求にもとづき行為するだろう」という自己充足的結論を支持する。なぜなら、この結論は実際その行為を行為者に促し、そしてその行為にかんする自己知を構成するだろうからだ。
- なお、ふつう行為者は「先行する最強の動機に従って自分が行為する」と期待する。これは、その期待しか正当化されないからではない。行為者はその行為を期待したくてしているのだ。
自発的な自己意識
自発性の範囲
- 1章:自己意識の自発性は、行為者が「試みて」いることに限って成立つ
- だがこれは、「試みていること」の観念が心に浮かぶからではない。
- 「自分はある行為をできる」と「その行為を期待すればするだろう」という証拠から、さらなる証拠無しにその行為へ飛躍すること、それが「試みる」ということなのである。
自発性の本性
- 自発性の本性を明確化するため、次のような自己意識の説明と比較したい。
- ある事柄についての自分の信念が何か知りたければ、「I believe …」のあと一番先に思いついたことを言えばよい。それまでは十分な証拠はなかったが、この言明は信念についての信頼可能な証拠になる。
- ここで問題の信念ははじめから信じられていたものであり、作られたわけではない。一方、行為の予期する資格があるというのは願望的思考をする資格があるということで、それに合わせ次の行為が作られる。
- 上のような信念の告白は自己正当化的ではあるが自己成就的ではない。一方、行為の予期は行為を成就させる傾向を持つことで自己を正当化する。このことが自己意識を自発的なものにしているのである。
複雑化
習慣
【習慣的行為と習慣的期待】
- 習慣的行為には、「その習慣がある」という長年の知識が付随する。そしてこの知識に依拠するという習慣により、さらなる個別の動機の確認無しに習慣的行為を理解することができる。
- また習慣的な期待に頼るという習慣によって、予想しない行為への注意を緩めることができる。このため、習慣的な行為中は放心状態になりやすい。
- また、別のことを予想していたのに習慣的行為に移ってしまうことがある。習慣的行為では自己知のメカニズムのもたらす結果は理想的ではない。
【習慣的自己知の別形態】
- なお、反省的知識のメカニズム自身も、行為の意識的な期待を繰り返し実現することにより強化されるかもしれない。
〔自己理解のメカニズムと自己意識のメカニズムの〕相互作用
【反省的期待の結果を理解する】
- 期待で選び出される行為候補それぞれについて、行為者はその動機を理解しているように思われる。なので、自分が行っていると理解している行為の動機については、その動機が期待によって強められているということをも、行為者は知っているのでなければならない。期待していない行為をしているとわかったら行為者は驚くだろう。
- 意識的期待は行為の説明にも必要なのだ。
【反省的理解の結果を理解する】
- 自分が意識的に理解していないことはふつう抑制されると行為者が知っているとする。この時、自分が何かを意識的に理解していると考えるまでは、行為者は何の行為も期待しない。だが今見たように、行為を意識的に期待していなければ、行為者が行為を理解していると思うことはない。
- ここでも、まず期待を形成しないと十分な証拠がない事態が出来している。だが、これまでと同じようにこの飛躍を飛ぶことができる。
【理解するはずのことを期待する】
- 自己理解欲求は、自分が一番強いと考える動機が行為者に促す行為を期待することを支持する。
- 期待によって行為者に促されている行為をしているという理解があっても、そもそもなぜその期待されているのかわからない場合、動機の知識を完全に得ているとは言えない。これを避けるには、その行為を期待することが理解できるような行為を期待しなければならない。そして、何を期待するかは何を期待したいかの選好によるが、その選好はどの行為を促したいかの選好に依存する。
- なお「行為を行為者に促す動機」は「行為への動機」と限りなく近い。しかしある種の衝動は後者ではあるが前者ではないかもしれない。また例えば義務を満たして賞賛されたいという欲求にかんしては、前者ではあるが後者ではないかもしれない。
【まとめ】[省略]
結論
- ヴェルマンは実践的自己知について、日常の観察や内観と整合的な理論を作ろうとしている。この種の仮説的主張は、自発的な自己知が動機の因果性による支配とどう整合するかという哲学的疑問に回答できる。我々が実際に今提案されたようなシステムなのかどうかは、哲学の問題ではない。